鎌倉山城(かまくらやまじょう)
●所在地 鳥取県西伯郡南部町笹畑
●登城日 2010年4月5日
●築城期 元亨3年(1323)
●築城者 戸田備中守森正
●標高 730.9m
●遺構 郭、主郭等
◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻:新人物往来社」等)
【写真左】鎌倉山城遠望
南部町の中央を走る国道180号線の笹畑地区にある町指定の文化財「烏帽子岩」付近から見たもの。
なお、このまま南方に向かうと、日南町との境の峠「五輪峠」がある。五輪塔の語意と思われるが、鎌倉山城との関連もあるかもしれない。
鳥取県の西部にある山城で、南部町と伯耆町に跨り、南側尾根は南方の日野町とも接する標高730m余りの鎌倉山に築かれている。
また、当山から北方には、「手間要害山城」(2010年2月9日投稿)を望むことができる。
この山は、山城よりも、一般登山者の初級者コースの山としての知名度が高いようだ。
これまで登った山城の中でも、特に標高が高いため、登城前には十分それまでの体調と、当日の天気などをチェックして向かった。登山者の初級コースの山といっても、こちらは単に山城探訪経験者程度なので、さすがにこのくらい高い山となると、緊張度も違う。
【写真左】登城口付近の「こもれび広場」
北麓に設置されたところで、駐車場や便所などが完備されている。ここに駐車し手前に登城路が繋がっている。
さて、当城の概要については残念ながら、余り詳細な記録が残っていない。
『伯耆民談記』によると、築城期が元亨3年(1323)頃といわれているので、以前「佐世城」の稿でも記したように、明くる正中元年(1324)後醍醐天皇の討幕計画が発覚する(正中の変)という、不穏な情況の中で築城されたことになる。
しかも、築城者は、相模国(神奈川県)鎌倉山の隋士・戸田備中守森正といわれるので、この「変」に絡んだ理由から当地に来たのかもしれない。
【写真左】登城路・標高400m地点
登城途中に写真にあるような標高を示す表示板が設置されている。おおむね50mごとに設置されている。こうした表示が備わっていると、ペース配分などもしやすいうえに、距離感もよくわかるので、ありがたい。
後醍醐天皇は、文保2年(1318)に即位しているが、当時の執権は北条高時である。彼はよく知られているように、執政に熱心でなく、「田楽」や「闘犬」に夢中になって、このため幕府の支配体制は脆弱の一途をたどっていき、所領を失っていく御家人が続出していった。
件の鎌倉山築城者・戸田備中守森正も、その所領を失った御家人の一人ではないかと思われる。
ちなみに、昨年(2009年)1月12日投稿「名和長年(5)船上山周辺の動き」で紹介したように、元弘3年(1333)の後醍醐天皇隠岐脱出後、船上山に終結した近国の部将の面々に、戸田森正の名は見えない。
伯耆から馳せ参じたのは、金持(かもち)一党や大山衆徒だけになっている。
【写真左】最初のピーク
登城入口からしばらくは急坂の連続と旋回コースとなっていて、意外と息が荒くなる。
その後、写真に見える緩斜面のピークが見え、ここで右に迂回し尾根を踏破していく。なお、この写真の左側に平坦地が確認できたが、郭のようにも見える。
これは、鎮圧すべき幕府方の鎌倉御家人といっても、いわばやむなく所領を求めてやってきた一族と思われるので、しかも山陰地方でこれだけ倒幕方が参集したとなれば、自ら兵を挙げる意思も実力もなかったであろう。
そのためか、史料が少ないものの、鎮圧に当たった出雲・伯耆での幕府方としては、佐々木清高や石井垣城主・糟谷弥二郎元覚などの名前しか見いだせない。 おそらく、戸田森正としては、当初どちらにも与せず、いわば様子見をしていたようなことだっただろうと思われる。
ところで、その後のことと思われるが、前記したように北方10キロに見下ろす「手間要害山城」の時の城主・浅野越中守実光と戦い、勝利したと記されている。
【写真左】標高550m地点
多少の登りこう配があるものの、この辺りまでは楽に歩ける。
【写真左】尾根道左前方に鎌倉山頂部の姿を見る
周辺の枯木のおかげで見えるが、5月以降になると、おそらくほとんど見えなくなるかもしれない。
【写真左】「鎌倉山城跡」と書かれた説明板 標高600m地点になるが、この付近は西側に多少高い丘陵をみせているものの、全体に平坦な個所になる。位置的に考えても、この付近に屋敷が建てられたと思われる。
【写真左】「戸田安房守森重公之城址」と記された石碑 冒頭で紹介した戸田備中守ではなく、安房守とあるので、その末孫だろうか。
【写真左】本丸目指して急坂を登る
先ほどの説明板の場所(600m)から一気に130mの高さまで上がっていくので、ここのコースが最も息が切れる。特にこの写真のコースは直線の急坂のため、何度も休憩をとった。
【写真左】本丸直下の郭段
本丸を構成している細尾根のすぐ下の部分に、写真にある郭を確認した。
奥行き30m、幅10m程度だろうか。
【写真左】本丸 ほぼ東西に伸びる尾根を利用したもので、規模は長さ50m余り、最大幅10m程度だろう。
眺望は北方が確保され、南方は雑木があるためあまり良くない。
ベンチが設置され、周辺に三角点や石碑・地蔵が建立されている。
【写真左】本丸より北東方向に名峰「大山(だいせん)」を望む。
大山はこれまでいろいろな方向から見てきているが、立ち位置がこれだけ高いと、別の山のようにも見える。
【写真左】本丸より北方の山並みを見る
おそらく、写真左の山が、手間要害山と思われる。手間要害山は標高334mなので、この鎌倉山はそれの2倍以上の高さになる。
大山周辺以外、北方には鎌倉山以上の高山はないので、視界がもっといい時は、おそらく最高の眺望になるだろう。
【写真左】本丸より東尾根をさらに進む
笹竹などが繁茂しているため、なんとも言えないが、尾根伝いに少し人工的に下げた平坦地がある。これも郭と思われ、その先には堀切があるように見えたが、これ以上先に進めなかった。
【写真左】鎌倉山城遠望
登城口から車で西側に伸びる林道の途中から見たもので、右側の高所が本丸になる。
なお、この林道を西に向かって降りると、国道180号線に繋がる。
●所在地 鳥取県西伯郡南部町笹畑
●登城日 2010年4月5日
●築城期 元亨3年(1323)
●築城者 戸田備中守森正
●標高 730.9m
●遺構 郭、主郭等
◆解説(参考文献「日本城郭大系14巻:新人物往来社」等)
【写真左】鎌倉山城遠望
南部町の中央を走る国道180号線の笹畑地区にある町指定の文化財「烏帽子岩」付近から見たもの。
なお、このまま南方に向かうと、日南町との境の峠「五輪峠」がある。五輪塔の語意と思われるが、鎌倉山城との関連もあるかもしれない。
鳥取県の西部にある山城で、南部町と伯耆町に跨り、南側尾根は南方の日野町とも接する標高730m余りの鎌倉山に築かれている。
また、当山から北方には、「手間要害山城」(2010年2月9日投稿)を望むことができる。
この山は、山城よりも、一般登山者の初級者コースの山としての知名度が高いようだ。
これまで登った山城の中でも、特に標高が高いため、登城前には十分それまでの体調と、当日の天気などをチェックして向かった。登山者の初級コースの山といっても、こちらは単に山城探訪経験者程度なので、さすがにこのくらい高い山となると、緊張度も違う。
【写真左】登城口付近の「こもれび広場」
北麓に設置されたところで、駐車場や便所などが完備されている。ここに駐車し手前に登城路が繋がっている。
さて、当城の概要については残念ながら、余り詳細な記録が残っていない。
『伯耆民談記』によると、築城期が元亨3年(1323)頃といわれているので、以前「佐世城」の稿でも記したように、明くる正中元年(1324)後醍醐天皇の討幕計画が発覚する(正中の変)という、不穏な情況の中で築城されたことになる。
しかも、築城者は、相模国(神奈川県)鎌倉山の隋士・戸田備中守森正といわれるので、この「変」に絡んだ理由から当地に来たのかもしれない。
【写真左】登城路・標高400m地点
登城途中に写真にあるような標高を示す表示板が設置されている。おおむね50mごとに設置されている。こうした表示が備わっていると、ペース配分などもしやすいうえに、距離感もよくわかるので、ありがたい。
後醍醐天皇は、文保2年(1318)に即位しているが、当時の執権は北条高時である。彼はよく知られているように、執政に熱心でなく、「田楽」や「闘犬」に夢中になって、このため幕府の支配体制は脆弱の一途をたどっていき、所領を失っていく御家人が続出していった。
件の鎌倉山築城者・戸田備中守森正も、その所領を失った御家人の一人ではないかと思われる。
ちなみに、昨年(2009年)1月12日投稿「名和長年(5)船上山周辺の動き」で紹介したように、元弘3年(1333)の後醍醐天皇隠岐脱出後、船上山に終結した近国の部将の面々に、戸田森正の名は見えない。
伯耆から馳せ参じたのは、金持(かもち)一党や大山衆徒だけになっている。
【写真左】最初のピーク
登城入口からしばらくは急坂の連続と旋回コースとなっていて、意外と息が荒くなる。
その後、写真に見える緩斜面のピークが見え、ここで右に迂回し尾根を踏破していく。なお、この写真の左側に平坦地が確認できたが、郭のようにも見える。
これは、鎮圧すべき幕府方の鎌倉御家人といっても、いわばやむなく所領を求めてやってきた一族と思われるので、しかも山陰地方でこれだけ倒幕方が参集したとなれば、自ら兵を挙げる意思も実力もなかったであろう。
そのためか、史料が少ないものの、鎮圧に当たった出雲・伯耆での幕府方としては、佐々木清高や石井垣城主・糟谷弥二郎元覚などの名前しか見いだせない。 おそらく、戸田森正としては、当初どちらにも与せず、いわば様子見をしていたようなことだっただろうと思われる。
ところで、その後のことと思われるが、前記したように北方10キロに見下ろす「手間要害山城」の時の城主・浅野越中守実光と戦い、勝利したと記されている。
【写真左】標高550m地点
多少の登りこう配があるものの、この辺りまでは楽に歩ける。
【写真左】尾根道左前方に鎌倉山頂部の姿を見る
周辺の枯木のおかげで見えるが、5月以降になると、おそらくほとんど見えなくなるかもしれない。
【写真左】「鎌倉山城跡」と書かれた説明板 標高600m地点になるが、この付近は西側に多少高い丘陵をみせているものの、全体に平坦な個所になる。位置的に考えても、この付近に屋敷が建てられたと思われる。
【写真左】「戸田安房守森重公之城址」と記された石碑 冒頭で紹介した戸田備中守ではなく、安房守とあるので、その末孫だろうか。
【写真左】本丸目指して急坂を登る
先ほどの説明板の場所(600m)から一気に130mの高さまで上がっていくので、ここのコースが最も息が切れる。特にこの写真のコースは直線の急坂のため、何度も休憩をとった。
【写真左】本丸直下の郭段
本丸を構成している細尾根のすぐ下の部分に、写真にある郭を確認した。
奥行き30m、幅10m程度だろうか。
【写真左】本丸 ほぼ東西に伸びる尾根を利用したもので、規模は長さ50m余り、最大幅10m程度だろう。
眺望は北方が確保され、南方は雑木があるためあまり良くない。
ベンチが設置され、周辺に三角点や石碑・地蔵が建立されている。
【写真左】本丸より北東方向に名峰「大山(だいせん)」を望む。
大山はこれまでいろいろな方向から見てきているが、立ち位置がこれだけ高いと、別の山のようにも見える。
【写真左】本丸より北方の山並みを見る
おそらく、写真左の山が、手間要害山と思われる。手間要害山は標高334mなので、この鎌倉山はそれの2倍以上の高さになる。
大山周辺以外、北方には鎌倉山以上の高山はないので、視界がもっといい時は、おそらく最高の眺望になるだろう。
【写真左】本丸より東尾根をさらに進む
笹竹などが繁茂しているため、なんとも言えないが、尾根伝いに少し人工的に下げた平坦地がある。これも郭と思われ、その先には堀切があるように見えたが、これ以上先に進めなかった。
【写真左】鎌倉山城遠望
登城口から車で西側に伸びる林道の途中から見たもので、右側の高所が本丸になる。
なお、この林道を西に向かって降りると、国道180号線に繋がる。
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