鶴ヶ城(つるがじょう)
●所在地 島根県出雲市多伎町口田儀清武山
●別名 田儀城
●登城日 2008年10月10日
●標高 147m
●築城期 平安末期(鎌倉時代)
●築城者 古荘二郎左衛門
●城主 小野玄蕃守
●遺構 郭、土塁、石垣、堀切、竪堀等
●別名 津戸要害山城、田儀城
◆解説(参考文献「島根家に遺跡データベース」等)
鶴ヶ城は別名「田儀城」とも呼ばれ、現在の出雲市西端にあたる多伎町口田儀に所在する。この場所は文字通り出雲国と石見国の境目にあり、しかも当城の北方1キロ眼下には、日本海を俯瞰できる位置に築城された城砦である。
【写真左】本丸跡に設置された休憩所
当城跡は全体に公園のような施設が設けられている。
なお、本丸の規模は500坪程度(30m×55m)となっている。
先ず、現地にある説明板より概要を記す。
“源義家の嫡子対馬守義親が、隠岐に流される途中、清嶽山にさくを作り、鶴ヶ丸となずけて弟・義忠とともに守った。古荘二郎左衛門が築城したという。
室町時代に小野氏が城を築き鶴ヶ城となずけ、尼子36城の一城として、一万五千石を領した。 1572年毛利輝元に攻められて落城、その後田儀城と改められ大鳥馬場が守ったが、関ヶ原の役後、堀尾氏に属し、やがて武家諸法度により廃城となった。”
【写真左】鶴ヶ城遠望
東方の手引ヶ丘公園から見たもので、鶴ヶ城の北麓は日本海が迫る。
源対馬守義親
源義家は言わずもがな、八幡太郎義家である。日本中世史の中で、事実上の武者の時代を切り開いた
人物といわれ、後に後裔として源頼朝や足利尊氏らが輩出している。
【写真左】本丸を西側からみたもの
義家の次男・義親も武勇に優れていたが、対馬守に任じられ九州に赴いたとき、官吏を殺害したため、康和4年(1102)12月、隠岐国に配流された(「百錬抄・中右記・殿暦」)。
ただ、「古事談」によれば、義親は実際には隠岐には行かず、出雲国に留まったまま、地元の官吏をここでも殺害、官物を略奪した、とある。
父の偉功を背景に、忠勤に励むことを拒否し、好き勝手な振る舞いをしたからだと思われるが、実は出雲国でも、同じころ出雲守に任じられた藤原忠清の神人(じにん)が、濫行したとの記録もある(承徳元年:1097年)。
義親は、前記したように出雲国においても濫行におよび、目代を殺害している。その時期は、嘉承2年(1107)12月19日とされ、このため、白河上皇の命によると思われるが、諸国の盗賊の取締を担った検非違使・因幡守平正盛に、義親追討が下る。
翌年・嘉承3年(1108)1月6日、正盛は出雲で(場所は不明)義親を討った。同月29日、正盛は義親らの首を携えて入京する。
このことから、正盛が義親を討った場所は、少なくとも義親らが拠った当城・鶴ヶ城からさほど離れていない場所と考えられる。
◎関連投稿
源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)
【写真左】本丸の東側から日本海・田儀港を見る。
眺望は周辺の木々が遮り、あまり良くないが、この場所からは眼下に日本海などを見ることができる。
なお、この田儀港(湊)は、中世の日本海交流として、宇龍湊や美保関湊と同じく、中国・朝鮮との航路を結んだ水運基地の一つでもある。
後段に記す当地の領主・神西氏の本拠地であった神西湖は、当時大きく日本海に間口を開け、神西湊が開設されており、田儀湊と相互の物資交換が行われていたようだ。
神西(小野)氏
その後、南北朝時代には、古荘二郎左衛門という人物が、当城で籠城したという伝承がある。
室町時代になって、鶴ヶ城と名づけたのは、小野氏とある。これは神西城(島根県出雲市東神西)(その1)及び、神西城(その3)・神西八幡宮でも述べたように、承久の乱後の貞応2年(1223)、論功行賞によって新補地頭として赴任してきた神西三郎左衛門小野高通の後裔と思われる。
【写真左】本丸西の下にある「馬場跡」
帯郭としての機能も併せ持ったものと思われ、幅は20m程度だが、奥行きは相当に深い。
神西氏(小野氏)は、神西城を居城とし、庄内12カ村を知行しているが、この中には鶴ヶ城の所在地である口田儀も含め、奥田儀、多伎、小田など出雲国の最西端すべてを安堵されている。
下って、大永年間(1521~28)の間に、小野玄蕃守が尼子36城の一つとして、1万5千石を領した、と記録されている。ただ玄蕃守の苗字を、小野(古荘)ともしているので、途中で小野氏と古荘氏との間で、血縁関係が生じた可能性がある。
さて、後段の説明では、織豊時代の元亀3年(1572)、毛利輝元に攻められて鶴ヶ城が落城したとある。具体的な内容としては、当時小野氏の家臣であった広瀬右近尉が当城を守備したものの、三島清右衛門という銀山師(銅山師とも)が毛利輝元に進言し、これによって落城したと伝えられている。
鉱山技師のような人物が関わったことは、おそらく兵糧攻めとして、たとえば井戸の水脈を地中内において掘削し、湧水を遮ったようなことだろうか。
なお、ここでは、落城期の時期が元亀3年とあるが、以前取り上げた佐田の伊秩城跡(島根県出雲市佐田町一窪田)その1にある「…天正6年(1578)田儀城落城云々…」と合致していないが、状況を考えると、元亀3年の落城の可能性が高い。
●所在地 島根県出雲市多伎町口田儀清武山
●別名 田儀城
●登城日 2008年10月10日
●標高 147m
●築城期 平安末期(鎌倉時代)
●築城者 古荘二郎左衛門
●城主 小野玄蕃守
●遺構 郭、土塁、石垣、堀切、竪堀等
●別名 津戸要害山城、田儀城
◆解説(参考文献「島根家に遺跡データベース」等)
鶴ヶ城は別名「田儀城」とも呼ばれ、現在の出雲市西端にあたる多伎町口田儀に所在する。この場所は文字通り出雲国と石見国の境目にあり、しかも当城の北方1キロ眼下には、日本海を俯瞰できる位置に築城された城砦である。
【写真左】本丸跡に設置された休憩所
当城跡は全体に公園のような施設が設けられている。
なお、本丸の規模は500坪程度(30m×55m)となっている。
先ず、現地にある説明板より概要を記す。
“源義家の嫡子対馬守義親が、隠岐に流される途中、清嶽山にさくを作り、鶴ヶ丸となずけて弟・義忠とともに守った。古荘二郎左衛門が築城したという。
室町時代に小野氏が城を築き鶴ヶ城となずけ、尼子36城の一城として、一万五千石を領した。 1572年毛利輝元に攻められて落城、その後田儀城と改められ大鳥馬場が守ったが、関ヶ原の役後、堀尾氏に属し、やがて武家諸法度により廃城となった。”
【写真左】鶴ヶ城遠望
東方の手引ヶ丘公園から見たもので、鶴ヶ城の北麓は日本海が迫る。
源対馬守義親
源義家は言わずもがな、八幡太郎義家である。日本中世史の中で、事実上の武者の時代を切り開いた
人物といわれ、後に後裔として源頼朝や足利尊氏らが輩出している。
【写真左】本丸を西側からみたもの
義家の次男・義親も武勇に優れていたが、対馬守に任じられ九州に赴いたとき、官吏を殺害したため、康和4年(1102)12月、隠岐国に配流された(「百錬抄・中右記・殿暦」)。
ただ、「古事談」によれば、義親は実際には隠岐には行かず、出雲国に留まったまま、地元の官吏をここでも殺害、官物を略奪した、とある。
父の偉功を背景に、忠勤に励むことを拒否し、好き勝手な振る舞いをしたからだと思われるが、実は出雲国でも、同じころ出雲守に任じられた藤原忠清の神人(じにん)が、濫行したとの記録もある(承徳元年:1097年)。
義親は、前記したように出雲国においても濫行におよび、目代を殺害している。その時期は、嘉承2年(1107)12月19日とされ、このため、白河上皇の命によると思われるが、諸国の盗賊の取締を担った検非違使・因幡守平正盛に、義親追討が下る。
翌年・嘉承3年(1108)1月6日、正盛は出雲で(場所は不明)義親を討った。同月29日、正盛は義親らの首を携えて入京する。
このことから、正盛が義親を討った場所は、少なくとも義親らが拠った当城・鶴ヶ城からさほど離れていない場所と考えられる。
◎関連投稿
源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)
【写真左】本丸の東側から日本海・田儀港を見る。
眺望は周辺の木々が遮り、あまり良くないが、この場所からは眼下に日本海などを見ることができる。
なお、この田儀港(湊)は、中世の日本海交流として、宇龍湊や美保関湊と同じく、中国・朝鮮との航路を結んだ水運基地の一つでもある。
後段に記す当地の領主・神西氏の本拠地であった神西湖は、当時大きく日本海に間口を開け、神西湊が開設されており、田儀湊と相互の物資交換が行われていたようだ。
神西(小野)氏
その後、南北朝時代には、古荘二郎左衛門という人物が、当城で籠城したという伝承がある。
室町時代になって、鶴ヶ城と名づけたのは、小野氏とある。これは神西城(島根県出雲市東神西)(その1)及び、神西城(その3)・神西八幡宮でも述べたように、承久の乱後の貞応2年(1223)、論功行賞によって新補地頭として赴任してきた神西三郎左衛門小野高通の後裔と思われる。
【写真左】本丸西の下にある「馬場跡」
帯郭としての機能も併せ持ったものと思われ、幅は20m程度だが、奥行きは相当に深い。
神西氏(小野氏)は、神西城を居城とし、庄内12カ村を知行しているが、この中には鶴ヶ城の所在地である口田儀も含め、奥田儀、多伎、小田など出雲国の最西端すべてを安堵されている。
下って、大永年間(1521~28)の間に、小野玄蕃守が尼子36城の一つとして、1万5千石を領した、と記録されている。ただ玄蕃守の苗字を、小野(古荘)ともしているので、途中で小野氏と古荘氏との間で、血縁関係が生じた可能性がある。
さて、後段の説明では、織豊時代の元亀3年(1572)、毛利輝元に攻められて鶴ヶ城が落城したとある。具体的な内容としては、当時小野氏の家臣であった広瀬右近尉が当城を守備したものの、三島清右衛門という銀山師(銅山師とも)が毛利輝元に進言し、これによって落城したと伝えられている。
鉱山技師のような人物が関わったことは、おそらく兵糧攻めとして、たとえば井戸の水脈を地中内において掘削し、湧水を遮ったようなことだろうか。
なお、ここでは、落城期の時期が元亀3年とあるが、以前取り上げた佐田の伊秩城跡(島根県出雲市佐田町一窪田)その1にある「…天正6年(1578)田儀城落城云々…」と合致していないが、状況を考えると、元亀3年の落城の可能性が高い。
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