十神山城(とがみやまじょう)
●所在地 島根県安来市安来町
●登城日 2010年2月5日
●築城期 不明
●築城者 松田氏
●城主 松田氏、松尾遠江守・佐馬頭(かみ)重長、尼子氏
●標高 93m
●遺構 郭
●備考 尼子十砦
◆解説(参考文献「安来市誌上巻」「島根県遺跡データベース」など)
【写真左】十神山城遠望
十神山城のある安来町から東に約1キロいくと、新興住宅団地「汐手が丘」というところがある。この岸壁から西方に当城を見ると、十神山の三峰が一望できる。
左から十神山、中十神、小十神の三山。
所在地は、島根県の中海に面する安来港の東方に突き出た十神山を中心とする区域で、城域としては3つの山(十神山・中十神・小十神)で構成されている。このうち西端の最高所92mの十神山に主郭が置かれたものと考えられている。
【写真左】当城の案内図
西側の道路(黒井田安来線)から行くと、南側に10台程度の駐車場があり、この位置から登るコースを選んだ。
現状では山城としての明確な遺構は多く確認できないが、3山まとめた規模からいえば、東西約700m、南北350m前後の城域となるので、標高はさほどないものの、城塞(形式からいえば「海城」と定義した方がいいかもしれない)の機能は十分持っていたものと思われる。
承久3年(1221)8月、後鳥羽上皇が隠岐に配流され、翌月には出雲国三刀屋郷地頭職に、源助長(諏訪部、後の三刀屋氏)が任命された。翌年の貞応元年(1222)7月8日、松田九郎有忠も承久の乱の戦功により安来庄の地頭に任ぜられた。松田氏は、相模国足柄上郡松田庄より起こった秀郷流藤原姓波多野氏族であるといわれている。
【写真左】十神山と中十神方面に向かう途中にある尾根
幅はさほどないものの、郭としては十分な広さだろう。
ただ、松田九郎有忠は、これより以前の建永元年(1206)に、すでに現在の宍道湖北岸にある秋鹿郡大野庄の地頭としても確認されている。この地は昨年取り上げた大野氏の居城・本宮城と同じ場所にあたるので、なんらかの関係があったものと思われるが、詳細は不明である。
また、有忠の息子・日置(松田)小次郎有基は、島根半島西岸にある日御碕神社検校家・日置氏と関係を持ち、宝治元年(1247)5月6日付で、将軍頼嗣から父と同じ大野庄の地頭に補任されている。
その後、文永8年(1271)の「出雲国杵築大社御三月会相撲舞御頭役結番帳」によると、このころ松田氏が大野庄を治めていた記録がなくなっているので、この段階で大野庄とは縁が切れ、安来庄が松田氏の唯一の本拠地として確立していたと思われる。
【写真左】最初のピークその1
十神山(本丸)と中十神の中間地点で、尾根の鞍部になる。左方面が本丸、右方面へは中十神。このあと中十神に向かう。
室町期に入ると、同氏の勢力はさらに大きくなり、応永11年(1404)11月、守護京極氏の下で松田掃部助(常鎮)が平浜八幡宮の造営を行い、次いで翌12年10月になると、幕府からの依頼により杵築大社の造営も行っている。
さらに応永25年(1418)から嘉吉3年(1443)ごろまでには、能義郡地域の他の社領もほとんど同氏が扶植し、さらに杵築大社領のうち、遙堪郷(安食神社)についても同氏の代官と思われる者が行っているので、在地領主として、このころが同氏の最盛期だったようである。
【写真左】その2
上記の位置を中十神側から本丸方面を見たもの。 登り口は登ってきた左側からのものもあるが、右(北側)からもある。
現状は公園になっているので、相当改変されたものと思われるが、このあたりに堀切があってもおかしくない。
松田氏支配の特記事項としては、朝鮮との交流が挙げられる。当時、幕府や朝鮮・中国を悩ませていた倭寇を取り締まる権限を持ち、美保関のある美保郷にも支配を伸ばしている。
「李朝実録」によると、応永27年(1420)閏正月15日の記録に、朝鮮の民衆が安来港(津)に70余戸暮らしていた、とある。このほか、同氏が中国との交易も行い、三河守の時代には隠岐国の国人を従えて、若狭国小浜の港とも商取引をおこなっていたという。
【写真左】中十神の頂部
頂部平坦面はおよそ直径7,8mの大きさになっている。周囲には小規模な郭(段差)らしき跡が見える。
数体の祠が祀ってある。
十神山城の築城期については、室町時代とされている。となると、それまでに拠っていた松田氏の居城は、どこだったのかという疑問も出てくる。
そこで、松田氏が治めていた安来郷の位置を考えると、それまでの本城はもう少し内陸部であったようにも思える。
その場所として考えられるのは、今はまったく削平されて面影がほとんどないが、現在の安来公園にあった「八幡城跡」ではないかと思われる。この場所は西麓に伯太川や、木戸川といった中海にそそぐ河川もあり、中海にもすぐに出られる。戦時にも平時にも、有効な地どりとしては最良の場所といえるのではないだろうか。
【写真左】十神山本丸跡
この跡には写真のような石碑が置かれている。長径15m、短径10m程度か。なお、この写真の後に登城路の一部があるが、多少郭段の痕跡が見られる。
さて、応仁元年(1467)になると、いわゆる応仁の乱が勃発。出雲・隠岐国守護であった京極持清は東軍・細川勝元へ、石見国守護・山名政清は、西軍・山名宗全に味方する。
尼子氏は以前にも取り上げたように、近江国犬上軍甲良庄尼子郷の出身で、在地名を名乗り、持久の時赴任したといわれている。当時の守護京極氏は実際には出雲に在任せず、その代りを一族の尼子氏に任せていた。
しかし、もともと出雲国の守護は山名氏でもあったことと、安来庄に本拠を置く松田氏、仁多郡の国人領主三沢氏等々、尼子氏が出雲に赴任する前からの各地の地頭や土豪領主などがいたため、尼子氏が支配力を強めたり、杵築大社をはじめとする権威まで干渉しだすと、彼らは尼子氏包囲網を作り上げていった。
【写真左】中十神と小十神の鞍部付近から本丸方面を見る。
この位置は、北側の中海に面した「なぎさ公園キャンプ場」に向かう峠付近で、左側の山が中十神斜面で、中央奥が本丸(十神山)の遠望
応仁2年(1468)6月20日、十神山城主・松田備前守は、伯耆の山名六郎、仁多の三沢為信や周辺の土豪らと手を組み、富田城の尼子氏を攻めた。
このとき尼子氏の守護代は清定で当城に在城していた。
松田備前守は本城十神山を中心とし、支城である利弘八幡城、富尾城(いずれも比定不明)、から攻め入った。その後、尼子氏は反転し松田方の岩坂、外波の両所をせめ、三沢氏の代官福頼氏を討ち取る。同日、春日城(東出雲町春日)では尼子方重要被官人神保氏、ならびに西木氏らを失う。
その後幾多の合戦ののち、10月21日、籠城していた松田氏・山名氏などの十神山城を開城したとある。しかし、この戦いは終結したが、松田氏の勢力は依然として強力な体制を誇っていた。
【写真左】なぎさ公園から小十神を見る。
この公園付近には浜があり、遠浅の雰囲気があるが、小十神も、本丸になる十神山の海岸部に面した崖は、いわゆる切崖状態である。
松田三河守の代になると、幕府や尼子氏との武力による争いは少なくなり、もっぱら懐柔策が採られていったようである。しかし、文明7年(1475)近江国で京極氏と六角氏の争いが生じると、京極氏は出雲国の国人たちに対し、直ちに京へ登るよう命を下した。この期に乗じて、松田氏はまたもや清定の拠る富田城を攻撃した。
その後の経緯については具体的な史料が少ないため、なんとも言えないが、尼子氏が経久の代になってから、松田氏への懐柔策が功を奏したようで、経久の嫡男政久の娘が松田氏へ嫁ぎ、その後松田氏は後に尼子十旗といわれた松江・白鹿城主にもなっているので、このころには完全に松田氏は尼子氏の重鎮となっていく。
記録によると、天文年間には十神山城主として、松尾遠江守・佐馬頭重長が城主であったといわれ、同時期には前記した八幡山には、城主・木戸民部少輔という武将がおり、安来港にそそぐ木戸川の開削工事も行ったという。
松尾氏についてはその出自は不明なものの、松田氏の一族、もしくは家臣であるといわれ、宍道湖・中海、および日本海などにおける水軍領主ではなかったかと思われる。
こうしてみると、松田氏が支配を広げていく基盤の一つが、安来港を中心とした海上権益からなりたっていったのではないかとも考えられる。
【写真左】小十神の山頂
三山の中で一番北方にあり、軍船の襲来を発見する場所としては重要な位置だったと思われる。
現地には明確な遺構は見当たらないが、他の二山に比べると、最も山城(砦)の雰囲気を漂わせている。
●所在地 島根県安来市安来町
●登城日 2010年2月5日
●築城期 不明
●築城者 松田氏
●城主 松田氏、松尾遠江守・佐馬頭(かみ)重長、尼子氏
●標高 93m
●遺構 郭
●備考 尼子十砦
◆解説(参考文献「安来市誌上巻」「島根県遺跡データベース」など)
【写真左】十神山城遠望
十神山城のある安来町から東に約1キロいくと、新興住宅団地「汐手が丘」というところがある。この岸壁から西方に当城を見ると、十神山の三峰が一望できる。
左から十神山、中十神、小十神の三山。
所在地は、島根県の中海に面する安来港の東方に突き出た十神山を中心とする区域で、城域としては3つの山(十神山・中十神・小十神)で構成されている。このうち西端の最高所92mの十神山に主郭が置かれたものと考えられている。
【写真左】当城の案内図
西側の道路(黒井田安来線)から行くと、南側に10台程度の駐車場があり、この位置から登るコースを選んだ。
現状では山城としての明確な遺構は多く確認できないが、3山まとめた規模からいえば、東西約700m、南北350m前後の城域となるので、標高はさほどないものの、城塞(形式からいえば「海城」と定義した方がいいかもしれない)の機能は十分持っていたものと思われる。
承久3年(1221)8月、後鳥羽上皇が隠岐に配流され、翌月には出雲国三刀屋郷地頭職に、源助長(諏訪部、後の三刀屋氏)が任命された。翌年の貞応元年(1222)7月8日、松田九郎有忠も承久の乱の戦功により安来庄の地頭に任ぜられた。松田氏は、相模国足柄上郡松田庄より起こった秀郷流藤原姓波多野氏族であるといわれている。
【写真左】十神山と中十神方面に向かう途中にある尾根
幅はさほどないものの、郭としては十分な広さだろう。
ただ、松田九郎有忠は、これより以前の建永元年(1206)に、すでに現在の宍道湖北岸にある秋鹿郡大野庄の地頭としても確認されている。この地は昨年取り上げた大野氏の居城・本宮城と同じ場所にあたるので、なんらかの関係があったものと思われるが、詳細は不明である。
また、有忠の息子・日置(松田)小次郎有基は、島根半島西岸にある日御碕神社検校家・日置氏と関係を持ち、宝治元年(1247)5月6日付で、将軍頼嗣から父と同じ大野庄の地頭に補任されている。
その後、文永8年(1271)の「出雲国杵築大社御三月会相撲舞御頭役結番帳」によると、このころ松田氏が大野庄を治めていた記録がなくなっているので、この段階で大野庄とは縁が切れ、安来庄が松田氏の唯一の本拠地として確立していたと思われる。
【写真左】最初のピークその1
十神山(本丸)と中十神の中間地点で、尾根の鞍部になる。左方面が本丸、右方面へは中十神。このあと中十神に向かう。
室町期に入ると、同氏の勢力はさらに大きくなり、応永11年(1404)11月、守護京極氏の下で松田掃部助(常鎮)が平浜八幡宮の造営を行い、次いで翌12年10月になると、幕府からの依頼により杵築大社の造営も行っている。
さらに応永25年(1418)から嘉吉3年(1443)ごろまでには、能義郡地域の他の社領もほとんど同氏が扶植し、さらに杵築大社領のうち、遙堪郷(安食神社)についても同氏の代官と思われる者が行っているので、在地領主として、このころが同氏の最盛期だったようである。
【写真左】その2
上記の位置を中十神側から本丸方面を見たもの。 登り口は登ってきた左側からのものもあるが、右(北側)からもある。
現状は公園になっているので、相当改変されたものと思われるが、このあたりに堀切があってもおかしくない。
松田氏支配の特記事項としては、朝鮮との交流が挙げられる。当時、幕府や朝鮮・中国を悩ませていた倭寇を取り締まる権限を持ち、美保関のある美保郷にも支配を伸ばしている。
「李朝実録」によると、応永27年(1420)閏正月15日の記録に、朝鮮の民衆が安来港(津)に70余戸暮らしていた、とある。このほか、同氏が中国との交易も行い、三河守の時代には隠岐国の国人を従えて、若狭国小浜の港とも商取引をおこなっていたという。
【写真左】中十神の頂部
頂部平坦面はおよそ直径7,8mの大きさになっている。周囲には小規模な郭(段差)らしき跡が見える。
数体の祠が祀ってある。
十神山城の築城期については、室町時代とされている。となると、それまでに拠っていた松田氏の居城は、どこだったのかという疑問も出てくる。
そこで、松田氏が治めていた安来郷の位置を考えると、それまでの本城はもう少し内陸部であったようにも思える。
その場所として考えられるのは、今はまったく削平されて面影がほとんどないが、現在の安来公園にあった「八幡城跡」ではないかと思われる。この場所は西麓に伯太川や、木戸川といった中海にそそぐ河川もあり、中海にもすぐに出られる。戦時にも平時にも、有効な地どりとしては最良の場所といえるのではないだろうか。
【写真左】十神山本丸跡
この跡には写真のような石碑が置かれている。長径15m、短径10m程度か。なお、この写真の後に登城路の一部があるが、多少郭段の痕跡が見られる。
さて、応仁元年(1467)になると、いわゆる応仁の乱が勃発。出雲・隠岐国守護であった京極持清は東軍・細川勝元へ、石見国守護・山名政清は、西軍・山名宗全に味方する。
尼子氏は以前にも取り上げたように、近江国犬上軍甲良庄尼子郷の出身で、在地名を名乗り、持久の時赴任したといわれている。当時の守護京極氏は実際には出雲に在任せず、その代りを一族の尼子氏に任せていた。
しかし、もともと出雲国の守護は山名氏でもあったことと、安来庄に本拠を置く松田氏、仁多郡の国人領主三沢氏等々、尼子氏が出雲に赴任する前からの各地の地頭や土豪領主などがいたため、尼子氏が支配力を強めたり、杵築大社をはじめとする権威まで干渉しだすと、彼らは尼子氏包囲網を作り上げていった。
【写真左】中十神と小十神の鞍部付近から本丸方面を見る。
この位置は、北側の中海に面した「なぎさ公園キャンプ場」に向かう峠付近で、左側の山が中十神斜面で、中央奥が本丸(十神山)の遠望
応仁2年(1468)6月20日、十神山城主・松田備前守は、伯耆の山名六郎、仁多の三沢為信や周辺の土豪らと手を組み、富田城の尼子氏を攻めた。
このとき尼子氏の守護代は清定で当城に在城していた。
松田備前守は本城十神山を中心とし、支城である利弘八幡城、富尾城(いずれも比定不明)、から攻め入った。その後、尼子氏は反転し松田方の岩坂、外波の両所をせめ、三沢氏の代官福頼氏を討ち取る。同日、春日城(東出雲町春日)では尼子方重要被官人神保氏、ならびに西木氏らを失う。
その後幾多の合戦ののち、10月21日、籠城していた松田氏・山名氏などの十神山城を開城したとある。しかし、この戦いは終結したが、松田氏の勢力は依然として強力な体制を誇っていた。
【写真左】なぎさ公園から小十神を見る。
この公園付近には浜があり、遠浅の雰囲気があるが、小十神も、本丸になる十神山の海岸部に面した崖は、いわゆる切崖状態である。
松田三河守の代になると、幕府や尼子氏との武力による争いは少なくなり、もっぱら懐柔策が採られていったようである。しかし、文明7年(1475)近江国で京極氏と六角氏の争いが生じると、京極氏は出雲国の国人たちに対し、直ちに京へ登るよう命を下した。この期に乗じて、松田氏はまたもや清定の拠る富田城を攻撃した。
その後の経緯については具体的な史料が少ないため、なんとも言えないが、尼子氏が経久の代になってから、松田氏への懐柔策が功を奏したようで、経久の嫡男政久の娘が松田氏へ嫁ぎ、その後松田氏は後に尼子十旗といわれた松江・白鹿城主にもなっているので、このころには完全に松田氏は尼子氏の重鎮となっていく。
記録によると、天文年間には十神山城主として、松尾遠江守・佐馬頭重長が城主であったといわれ、同時期には前記した八幡山には、城主・木戸民部少輔という武将がおり、安来港にそそぐ木戸川の開削工事も行ったという。
松尾氏についてはその出自は不明なものの、松田氏の一族、もしくは家臣であるといわれ、宍道湖・中海、および日本海などにおける水軍領主ではなかったかと思われる。
こうしてみると、松田氏が支配を広げていく基盤の一つが、安来港を中心とした海上権益からなりたっていったのではないかとも考えられる。
【写真左】小十神の山頂
三山の中で一番北方にあり、軍船の襲来を発見する場所としては重要な位置だったと思われる。
現地には明確な遺構は見当たらないが、他の二山に比べると、最も山城(砦)の雰囲気を漂わせている。
私の名前は、安木三郎(ヤスギ・サブロウ)と言います。松田九郎有忠の子孫です。学校で習う安来荘園は、平安期安木庄と呼ばれていました。太田亮箸「姓氏家系辞典」に松田九郎有忠が、安木家の初代であるときされています。また尊卑文脈にも同様に記されています。貞応元年(1222年)安木庄地頭職を関東下知状で任じられた。島根県図書館や島根大学図書館に小野家文書として、そのことが郷土史に記されています。不思議なことに、郷土史には、松田姓でしか記述されていません。鎌倉時代松田九郎有忠は、仕来たりに従い、領地の地名を苗名としたので、安木九郎有忠
返信削除が正しいです。氏名7000傑のインターネットに秀郷流藤原姓波多野氏族松田氏流安木家初代安木九郎有忠が記されていますので、参照ください。丹波八上城
城主波多野氏も同族です。詳しくは、私 安木三郎が著した「藤原秀郷将軍」をお読み頂ければ幸いです。
神奈川県秦野市の郷土史に波多野一族として松田(安木)九郎有忠紹介されています。鎌倉時代には、正式名は、藤原でしたので、「藤原朝臣九郎有忠」です。
ですから、十神山城を築城したのは、松田九郎有忠が安木荘園の地頭に任じられ安木九郎有忠と改名後となります。従って築城者は安木氏となります。これは、安来市の歴史でもあります。
拝復 安木様
削除松田九郎有忠の子孫とのこと。貴重な情報ありがとうございました。
今後ともご笑覧のほどお願いします。
トミー 拝
系図纂要藤原編の中に、貞応元年(1222年)7月8日関東下知状により、松田九郎有忠が安木庄地頭職に任じられて、安木氏に成ったことが記述されていますので、ご確認下さい。安木
削除安木九郎有忠ー有基ー有綱:出雲大野荘地頭ー大野、日置、小野姓 ー有基ー保秀:安木荘地頭、十神山城城主、能義荘奉行、美保関代官ー安木姓、関東下知状(安木九郎有忠の安木荘地頭職任命状)は最終的には有基の長男有綱が引継ぎ保管。
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