2010年2月1日月曜日

茶臼山本陣跡(鳥取県東伯郡北栄町国坂)

茶臼山本陣跡(ちゃうすやまほんじんあと)

●所在地 鳥取県東伯郡北栄町国坂
●登城日 2009年12月7日
●標高 94m
●築城者 吉川元春
●築城期 天正9年(1581)頃
●遺構 郭段の一部
【写真左】茶臼山遠望
 北方の国道9号線側から撮ったもの。標高は90m程度だが、実際に登ってみるとかなりの高さを感じる。



◆解説(参考文献「天正9年鳥取城をめぐる戦い」毛利・織田戦争と戦国武将・吉川経家:鳥取市歴史博物館編等)

 前稿「馬の山砦」で少し紹介した茶臼山本陣跡を取り上げる。これまでの歴史書関係では「馬の山対陣」が強調され、あたかも双方がこれらの場所(馬の山と、御冠山)のみに在陣していたような記述が多いが、吉川元春の動きとしては、今回取り上げる茶臼山本陣跡が、初期の場所だったといわれている。

 それを具体的に示す資料として、上掲の参考文献の中で、地元歴史家・日置粂左衛門氏が「山田家文書」から示している。

 山田氏は、伯耆国久米郡北条郷の堤城主で、現在の北栄町北条島というところを拠点としていた。堤城の位置は比定されていないが、今回取り上げた茶臼山本陣の西南2キロ地点の丘陵にあったようだ。

 山田系譜によると、本家の系統は毛利家に仕え、庶流は吉川家に奉公している。特に庶流の山田盛直は、後年堤城主となっている記録もあり、天正9年のこの地における秀吉方との合戦時において、吉川勢の重要指揮官の一人だったようだ。
【写真左】茶臼山北麓にある「松樹庵」という無住院
 通称「たけえの観音さん」と呼ばれている。本尊薬師如来、観世音菩薩、多聞天、不動明王等祀られ、新四国88カ所霊場第30番札所である。



 「山田家古文書」巻六によると、天正9年9月9日付の香川元継・森脇春親連署書状に、山田重直宛てで、山田氏一族の日ごろの働きを褒め、9月8日に「元春の着陣」を伝えている。従って、吉川元春は当地(北条・東郷湖周辺)に10月末まで居たことになるので、約50日前後にわたって、陣を構えていたことになる。このことから、馬の山砦の多くの土塁なども手掛けることができたわけである。

 また、秀吉方でもこの情報を入手していて、鹿野城にあった亀井からも、秀吉に対して
吉川(元春)茶磨(臼)山着陣二付て書中に申し越され、何も其意を得候」(亀井文書)とあり、今回取り上げる茶臼山に最初に着陣していることがわかる。
【写真左】上記庵の境内に安置されている宝篋印塔・五輪塔群
 約13,4基安置されているが、小規模なことから名のある武士のものではないと思われる。





 ところで、今回茶臼山を探訪した折、数基の宝篋印塔・墓石を当山麓の寺境内で発見した(上写真参照)。
 史実では秀吉と元春がにらみ合ったまま、双方が引き揚げたということになっているが、この墓石を見る限り、やはり数回の小競り合いがあったのではないかと思われる。


【写真左】茶臼山中腹の運動場から山頂を見上げる
 当山の北側中腹には公園や運動場などが設置されている。当初からある程度の平坦地があったものと思われ、吉川勢はこのあたりに主力部隊を在陣させていたのではないだろうか。

 なお、松樹庵はこの写真の右(西)へ約100m程度向かったところにある。松樹庵の創建は明治初期といわれているので、当庵も、陣跡の可能性もある。
【写真左】上記運動場側から茶臼山へ登る
 途中までは道らしき跡があるが、その先はほとんど手つかず状態のブッシュのためあきらめた。

 吉川勢は約6000人といわれているので、場合によっては二手に分けて在陣した可能性もある。

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