末吉城(すえよしじょう)
●所在地 鳥取県西伯郡 大山町末吉
●城主 神西三郎左衛門元通(中原善左衛門、小寺佐渡守)
山中鹿助
●探訪日 2009年3月8日
◆解説(参考文献「尼子物語」妹尾豊三郎著など)
史料に紹介はされているものの、当城の場所については、残念ながら明確に比定されていない。というのも、山城遺構らしきものがその周辺に見当たらないからである。
【写真左】末吉城付近その1
写真に見える道路は国道9号線
所在地と思われる場所は、鳥取県の大山町末吉というところで、国号9号線の「大山入口」という交差点付近に関係する石碑が建っている。
現地に設置された説明板より当城の概要を転載しておく。
“山中鹿助供養塔
元亀2年(1571)尼子勝久をかついで再挙の旗を押し立てた山中鹿助は、末吉城に入り、大山経悟院・新山と連携して守りを固めていた。
一方、6月に毛利元就が75歳で死去し、父の遺志を受け継いだ元春は、大山経悟院を攻略するため、兵6,000を率いて吉田城を出発した。
この行動を知った鹿助は、主将勝久を新山城に残し、大山経悟院を唯一の頼みとして、末吉城に入城していた。
【写真左】中央の小屋は駐輪場
この入口の壁に「末吉城跡」と記入されているが、余りにも周辺が平坦部なのでピンとこない。
数日間の猛攻により、ついに末吉城は陥落し、鹿助は捕らわれの身となる。孤立無援の中、27歳の尼子の勇将・山中鹿助を不屈の勇武として相手方の毛利勢も称えたと伝えられており、後日、供養のため建立したと伝えられている。
平成14年3月 大山町教育委員会”
また、この付近には「美甘塚」という石碑がある。内容は上記と同じ時期のことが描かれているが、毛利方部将の美甘与一右衛門が和議の使者として向かったものの、悲運の生涯を終えたことが描かれている。
【写真左】駐輪場の脇に建つ山中鹿助の供養塔 五輪塔形式のもので、名和長年の五輪塔のような大型のものである。
鹿助自身はこの地で亡くなったわけでないので、これほど大きなものが必要なのか、という感がしないでもない。
“美甘塚の由来
元亀2年(1571)戦国大名毛利元就の死去により、伯耆の形勢は毛利軍総大将吉川元春が弔い合戦と称し、1万余騎の大軍が山陰目指して進軍を始めた。対抗する尼子軍は勢力回復の好機として、拠点の一つである大山経悟院の支援と称し、山中鹿助を末吉城に送り込んだ。
【写真左】美甘塚の石碑
鹿助の供養塔のそばに建っている。
毛利軍は大山経悟院を討つと、軍を進めていたのに、意外にも反転して急遽末吉城を包囲したのである。時に元亀2年6月の出来事である。
毛利軍は兵6,000余を総動員して、尼子軍の土塁の外に三重の櫓を造り、鉄砲、矢、石礫を打ち込んだ。守る方の尼子軍は城兵わずか4、5百名、土塁を高くして空堀を設け、必死の戦いが3日間続いた。
このような戦況の中で、毛利軍は所子在住の美甘与一右衛門という血気盛んな勇者が居ると聞き、和議の死者として城内に送り込むこととなった。
美甘家の言い伝えによると、毛利氏の依頼を受けた与一右衛門は、戦いによる混乱を避けるための死者として、目付役中原善左衛門と共に、末吉城に出向いた。
入城の際、和議には、刀は不要といわれ、取り上げられた。交渉は順調に進み、和議成立として歓待を受けたのであるが、退出の際、不意に斬りつけられたのである。刀はまだ返されていなかったので、その場にあった石などで必死に防戦したが、目付役中原善左衛門と共にあえなく果てたと伝えられている。
戦後、吉川元春は、美甘与一右衛門の義とその非業の死を悼み、跡地に碑を建立、手厚く葬ったということである。
美甘家では、抵抗したとされる石などを、力石として、碑の周囲に保存供養を続けられ、与一右衛門の無念さが今も偲ばれるのである。”
【写真左】現地にある「浄満原合戦」の図
これを見ると、元亀2年(1571)2月7日、尼子勝久軍が新山城から船で鹿助のいる末吉城へ移動していることになっている。
冒頭に城主として、神西三郎左衛門元通を載せているが、昨年「神西城」で紹介したとおり、同氏は元々出雲国湖陵の神西城主であり、尼子方の武将だった。
永禄9年(1566)富田城籠城も長期にわたってしまい、6月末、主だった尼子方部将が毛利氏に投降した。この中に神西元通もいた。その後彼は毛利元就に忠節を励み、信頼されていたことから、元就から末吉城を与えられ、腹臣の中原善左衛門と小寺佐渡守をつけられていた。
永禄12年(1569)6月23日、山中鹿助が尼子勝久を擁して隠岐から出雲に入った。おそらくその1年後だろうと思われるが、鹿助は神西元通の能力を高くみており、ぜひとも味方に引き戻そうと策を練った。鹿助は気のきいたある僧を使って、元通の本心を探らせるべく、末吉城に入れた。
元通の本意を知るたために、その僧は扇を差し出し、一筆書いてほしいと頼んだ。元通はその扇に「古柄(ふるから)小野の本柏(かしわ)」と墨痕鮮やかに筆を走らせた。この意味は「石の上ふるから小野の本柏、もとの心は忘られなくに」という古歌からきたもので、尼子の恩顧は決して忘れない、すなわち、時来たらば、再び鹿助に与するという意味である。
元通は、しかし毛利方腹臣の中原、小寺両氏に、このことを悟られてはならない。小寺氏は足の病で途中で当城を出ていき、残った中原氏は次第に元通の様子に異変を感じたものの、あるとき囲碁の対局の最中に元通の謀略で殺害されてしまった。こうして元通は鹿助の傘下に入って行った。
おそらくこの時をもって、末吉城が鹿助らの支配下(拠城)となったのではないだろうか。
なお、末吉の戦いで鹿助が捕らえられたのは、同年(元亀2年:1571)8月18日となっている(陰徳記)。もっとも、鹿助はその後「尾高城」でも述べたとおり、厠から抜け出し、京都へ逃走することになる。
末吉城を落とした毛利方(元春)は、その後寺内城を攻略したとある。この寺内城の場所については、現在の米子市淀江町付近と思われるが、詳細は分からない。
ところで、「美甘塚」の説明文中、中原善左衛門が美甘与一と共に、和議の使者として向かったものの、あえなく果てたとあり、「神西元通」のところでは、神西元通に討ち果たされたとある。同一人物が2回も殺されていることになるが、これはこれでまた謎が深まり、想像力が増す事例かもしれない。
【写真左】上段の写真に示した末吉城跡から少し北に向かった小丘付近
末吉城の位置が現在の場所(国道9号線)付近としてあるが、基本的にこの城の使われ方を考えた場合、いつでも移動可能な場所、すなわち海城形式のものではなかったかと思われる。従って高度のある山城ではなく、そのために鹿助らは防御設備としては、土塁や、空堀を執拗に造っていたのではないだろうか。
現在付近にそうした跡がほとんど見られないのは、この付近の土質が砂状土であることから、短期に埋まり、痕跡が消えたのではないだろうかと思われる。 写真のものは手前の田圃と多少の高低差を持っているところで、こうしたあたりに築城されていたと考えられる。
●所在地 鳥取県西伯郡 大山町末吉
●城主 神西三郎左衛門元通(中原善左衛門、小寺佐渡守)
山中鹿助
●探訪日 2009年3月8日
◆解説(参考文献「尼子物語」妹尾豊三郎著など)
史料に紹介はされているものの、当城の場所については、残念ながら明確に比定されていない。というのも、山城遺構らしきものがその周辺に見当たらないからである。
【写真左】末吉城付近その1
写真に見える道路は国道9号線
所在地と思われる場所は、鳥取県の大山町末吉というところで、国号9号線の「大山入口」という交差点付近に関係する石碑が建っている。
現地に設置された説明板より当城の概要を転載しておく。
“山中鹿助供養塔
元亀2年(1571)尼子勝久をかついで再挙の旗を押し立てた山中鹿助は、末吉城に入り、大山経悟院・新山と連携して守りを固めていた。
一方、6月に毛利元就が75歳で死去し、父の遺志を受け継いだ元春は、大山経悟院を攻略するため、兵6,000を率いて吉田城を出発した。
この行動を知った鹿助は、主将勝久を新山城に残し、大山経悟院を唯一の頼みとして、末吉城に入城していた。
【写真左】中央の小屋は駐輪場
この入口の壁に「末吉城跡」と記入されているが、余りにも周辺が平坦部なのでピンとこない。
数日間の猛攻により、ついに末吉城は陥落し、鹿助は捕らわれの身となる。孤立無援の中、27歳の尼子の勇将・山中鹿助を不屈の勇武として相手方の毛利勢も称えたと伝えられており、後日、供養のため建立したと伝えられている。
平成14年3月 大山町教育委員会”
また、この付近には「美甘塚」という石碑がある。内容は上記と同じ時期のことが描かれているが、毛利方部将の美甘与一右衛門が和議の使者として向かったものの、悲運の生涯を終えたことが描かれている。
【写真左】駐輪場の脇に建つ山中鹿助の供養塔 五輪塔形式のもので、名和長年の五輪塔のような大型のものである。
鹿助自身はこの地で亡くなったわけでないので、これほど大きなものが必要なのか、という感がしないでもない。
“美甘塚の由来
元亀2年(1571)戦国大名毛利元就の死去により、伯耆の形勢は毛利軍総大将吉川元春が弔い合戦と称し、1万余騎の大軍が山陰目指して進軍を始めた。対抗する尼子軍は勢力回復の好機として、拠点の一つである大山経悟院の支援と称し、山中鹿助を末吉城に送り込んだ。
【写真左】美甘塚の石碑
鹿助の供養塔のそばに建っている。
毛利軍は大山経悟院を討つと、軍を進めていたのに、意外にも反転して急遽末吉城を包囲したのである。時に元亀2年6月の出来事である。
毛利軍は兵6,000余を総動員して、尼子軍の土塁の外に三重の櫓を造り、鉄砲、矢、石礫を打ち込んだ。守る方の尼子軍は城兵わずか4、5百名、土塁を高くして空堀を設け、必死の戦いが3日間続いた。
このような戦況の中で、毛利軍は所子在住の美甘与一右衛門という血気盛んな勇者が居ると聞き、和議の死者として城内に送り込むこととなった。
美甘家の言い伝えによると、毛利氏の依頼を受けた与一右衛門は、戦いによる混乱を避けるための死者として、目付役中原善左衛門と共に、末吉城に出向いた。
入城の際、和議には、刀は不要といわれ、取り上げられた。交渉は順調に進み、和議成立として歓待を受けたのであるが、退出の際、不意に斬りつけられたのである。刀はまだ返されていなかったので、その場にあった石などで必死に防戦したが、目付役中原善左衛門と共にあえなく果てたと伝えられている。
戦後、吉川元春は、美甘与一右衛門の義とその非業の死を悼み、跡地に碑を建立、手厚く葬ったということである。
美甘家では、抵抗したとされる石などを、力石として、碑の周囲に保存供養を続けられ、与一右衛門の無念さが今も偲ばれるのである。”
【写真左】現地にある「浄満原合戦」の図
これを見ると、元亀2年(1571)2月7日、尼子勝久軍が新山城から船で鹿助のいる末吉城へ移動していることになっている。
冒頭に城主として、神西三郎左衛門元通を載せているが、昨年「神西城」で紹介したとおり、同氏は元々出雲国湖陵の神西城主であり、尼子方の武将だった。
永禄9年(1566)富田城籠城も長期にわたってしまい、6月末、主だった尼子方部将が毛利氏に投降した。この中に神西元通もいた。その後彼は毛利元就に忠節を励み、信頼されていたことから、元就から末吉城を与えられ、腹臣の中原善左衛門と小寺佐渡守をつけられていた。
永禄12年(1569)6月23日、山中鹿助が尼子勝久を擁して隠岐から出雲に入った。おそらくその1年後だろうと思われるが、鹿助は神西元通の能力を高くみており、ぜひとも味方に引き戻そうと策を練った。鹿助は気のきいたある僧を使って、元通の本心を探らせるべく、末吉城に入れた。
元通の本意を知るたために、その僧は扇を差し出し、一筆書いてほしいと頼んだ。元通はその扇に「古柄(ふるから)小野の本柏(かしわ)」と墨痕鮮やかに筆を走らせた。この意味は「石の上ふるから小野の本柏、もとの心は忘られなくに」という古歌からきたもので、尼子の恩顧は決して忘れない、すなわち、時来たらば、再び鹿助に与するという意味である。
元通は、しかし毛利方腹臣の中原、小寺両氏に、このことを悟られてはならない。小寺氏は足の病で途中で当城を出ていき、残った中原氏は次第に元通の様子に異変を感じたものの、あるとき囲碁の対局の最中に元通の謀略で殺害されてしまった。こうして元通は鹿助の傘下に入って行った。
おそらくこの時をもって、末吉城が鹿助らの支配下(拠城)となったのではないだろうか。
なお、末吉の戦いで鹿助が捕らえられたのは、同年(元亀2年:1571)8月18日となっている(陰徳記)。もっとも、鹿助はその後「尾高城」でも述べたとおり、厠から抜け出し、京都へ逃走することになる。
末吉城を落とした毛利方(元春)は、その後寺内城を攻略したとある。この寺内城の場所については、現在の米子市淀江町付近と思われるが、詳細は分からない。
ところで、「美甘塚」の説明文中、中原善左衛門が美甘与一と共に、和議の使者として向かったものの、あえなく果てたとあり、「神西元通」のところでは、神西元通に討ち果たされたとある。同一人物が2回も殺されていることになるが、これはこれでまた謎が深まり、想像力が増す事例かもしれない。
【写真左】上段の写真に示した末吉城跡から少し北に向かった小丘付近
末吉城の位置が現在の場所(国道9号線)付近としてあるが、基本的にこの城の使われ方を考えた場合、いつでも移動可能な場所、すなわち海城形式のものではなかったかと思われる。従って高度のある山城ではなく、そのために鹿助らは防御設備としては、土塁や、空堀を執拗に造っていたのではないだろうか。
現在付近にそうした跡がほとんど見られないのは、この付近の土質が砂状土であることから、短期に埋まり、痕跡が消えたのではないだろうかと思われる。 写真のものは手前の田圃と多少の高低差を持っているところで、こうしたあたりに築城されていたと考えられる。
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