鳶が巣城(とびがすじょう)
●登城日 2007年11月26日
●所在地 出雲市 西林木町 鳶が巣山
●築城期 中世 ●遺跡種別 城館跡
●築城主 永禄4年(1561)、毛利元就築城、または宍道氏とも
●標高 281m ●遺跡の現状 山林
◆解説(本丸跡に設置された説明板より)
“鳶が巣城の歴史
我が国の戦国時代に中国地方の覇権を獲得しようとする戦いの中で、鳶が巣城は大きな役割を果たしていました。
1542年(天文11年)、大内氏、毛利氏の連合軍は、尼子氏が拠点としていた富田城(現広瀬町)に進攻しました。しかし、2年間にわたる戦いの末、大内氏、毛利氏の連合軍は、尼子氏に敗退しました。このとき連合軍の中にあった鳶が巣城も落城し、城主の宍道隆慶は一族とともに長州(山口県)に逃れました。
それから20年後の1561年(永禄4年)、大きな勢力となった毛利元就は再び尼子氏攻めに出撃しました。宍道隆慶も毛利元就の武将として出雲に進攻しました。
翌年、毛利氏は鳶が巣城を乗っ取り、宍道隆慶、政慶(まさよし)父子を城主とし、尼子氏攻略の拠点としました。4年間に及ぶ戦いの末、尼子氏拠点の富田城は落城しました。出雲平野を挟んで、鳶が巣城と戦った南山の米原氏(尼子方)の高瀬城(現斐川町)も落城しました。 こうして出雲の国は、完全に毛利氏が制するところとなりました。
宍道氏は、この2つの戦いの功績から、出雲北山一帯の武将を支配する地位に任命され、その後40年近く城下及び領地の経営に力を尽くしましたが、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いがおこり、西軍豊臣方に属した毛利氏は破れ、その配下であった宍道氏も毛利氏に随行して、萩(山口県)に移り、鳶が巣城は廃城となりました。”
【写真左】鳶ヶ巣城遠景
城下南西の方から見る。
【写真左】山麓部の郭付近
鳶ヶ巣城の特徴の一つは、頂上部の郭とは別に、南山麓部に非常に大きな平坦地(郭)を2か所持ち、その大きさはちょっとしたソフトボールの試合ができそうな大きさである。おそらく、この場所が多くの将兵が陣を構えた所と思われる。
特に、ほぼ南方に構える斐川学頭の米原氏の居城・高瀬城を、いよいよ落とすという元亀年間には、宍道氏も含めた毛利氏の大軍がここに構えたが、その数は数千といわれている。
【写真左】登城途中の「西3郭」付近
鳶ヶ巣城は、地元出雲市の指定史跡となっており、この標識の横には「史跡と文化財探訪コース第5番」と書かれている。
横に見えるタンクは、頂上部に設置された給水設備のための加圧タンクで、桜のシーズンにはかなりの人が登ってくるようだ。
この郭部分は、麓の郭と頂上部の郭群の間に位置するが、南西方向に突き出した形状として、その先端部の切崖はかなり強調されている。また北の方には土塁の痕跡が認められる。
【写真左】頂上部の南に延びた郭から北の本丸方向を見る
頂上部の形状は、ほぼ十文字に郭を配置し、中央部に本丸を置いている。
【写真左】本丸から南へ延びる郭を見る
この南北に伸びた郭が一番平坦になっており、その長さは100m前後あると思われる。当時はこの場所も含め、相当数の将兵が陣を構えていたものと思われる。
現在は、展望台のようなものが設置され、桜の木が相当数植えてある。
【写真左】東2郭入口付近
上記の南に延びた郭から東に向かうと、東2郭へ続く。
なお、本丸の真北にも幅、奥行とも十分な広さをもつ郭があり、その奥北東部にも尾根を利用した郭と切崖を施した遺構が残っている。
残念ながら上記の部分は雑草が多く、遺構の確認が南面ほどよくない。
よって、この稿では写真は掲載していない。
【写真左】鳶ヶ巣城本丸下の郭から、元亀年間攻め落とした斐川町の高瀬城及び、狼山(大神)城方面を見る。
写真が少し小さいため分かりずらいが、後方の中央部右側のとがった山が、高瀬城で、その下の低い平野部の丘陵地(中央部付近)が、現在斐川公園となっている狼山城のあったところ。
毛利方は、最初に手前の低い山城である狼山城をあっという間に落とし、その後高瀬を攻め入った。
なお、手前に見える斐伊川は当時、この経路でなく、右側(西)の出雲方面(日本海)へ流れていた。また、写真に見える平野部も当時は陸地となっておらず、ほとんど毛利方はこの鳶ヶ巣城から船を使って高瀬の麓まで向かっていたという。
このため、一説には、小早川隆景が、はるばる瀬戸から村上水軍(児玉水軍など)を引き連れて来たといわれ、戦の形態としては地上戦より、船戦(ふないくさ)の感が強かったといわれている。
【写真左】鳶ヶ巣城から東方を見る
上記のように、当時は眼下はほとんど宍道湖となっており、この写真の奥には、山中鹿之助らが陣取る松江の真山城がある。
以上のようなことから、水上での戦を得意とした村上水軍らの活躍がこのときの最大の功労者とも言われている。
【写真左】本丸跡にある「宍道政慶公の碑」
宍道「政慶」とあるが、実際には宍道「隆慶」がこの城に拠ったようである。ちなみに、隆慶の子が政慶である。
宍道氏の動きについては、宍道町史でも述べられているように、宍道氏一族の中でも惣領(嫡流)と庶子(庶流)があり、毛利方と尼子方とに分かれて戦っている。
この構図は他の国人領主の一族でもかなりあるらしく、このことが後世の軍記物などで混乱を生じさせている一因でもある。
なお、鳶ヶ巣城の築城者についても、はっきりと宍道氏とは断定できる実証性はなく、築城にかかわった可能性は十分にあるが、基本的には毛利元就の指示により、他の国人領主らと共同で築城した可能性が高いようだ。
●登城日 2007年11月26日
●所在地 出雲市 西林木町 鳶が巣山
●築城期 中世 ●遺跡種別 城館跡
●築城主 永禄4年(1561)、毛利元就築城、または宍道氏とも
●標高 281m ●遺跡の現状 山林
◆解説(本丸跡に設置された説明板より)
“鳶が巣城の歴史
我が国の戦国時代に中国地方の覇権を獲得しようとする戦いの中で、鳶が巣城は大きな役割を果たしていました。
1542年(天文11年)、大内氏、毛利氏の連合軍は、尼子氏が拠点としていた富田城(現広瀬町)に進攻しました。しかし、2年間にわたる戦いの末、大内氏、毛利氏の連合軍は、尼子氏に敗退しました。このとき連合軍の中にあった鳶が巣城も落城し、城主の宍道隆慶は一族とともに長州(山口県)に逃れました。
それから20年後の1561年(永禄4年)、大きな勢力となった毛利元就は再び尼子氏攻めに出撃しました。宍道隆慶も毛利元就の武将として出雲に進攻しました。
翌年、毛利氏は鳶が巣城を乗っ取り、宍道隆慶、政慶(まさよし)父子を城主とし、尼子氏攻略の拠点としました。4年間に及ぶ戦いの末、尼子氏拠点の富田城は落城しました。出雲平野を挟んで、鳶が巣城と戦った南山の米原氏(尼子方)の高瀬城(現斐川町)も落城しました。 こうして出雲の国は、完全に毛利氏が制するところとなりました。
宍道氏は、この2つの戦いの功績から、出雲北山一帯の武将を支配する地位に任命され、その後40年近く城下及び領地の経営に力を尽くしましたが、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いがおこり、西軍豊臣方に属した毛利氏は破れ、その配下であった宍道氏も毛利氏に随行して、萩(山口県)に移り、鳶が巣城は廃城となりました。”
【写真左】鳶ヶ巣城遠景
城下南西の方から見る。
【写真左】山麓部の郭付近
鳶ヶ巣城の特徴の一つは、頂上部の郭とは別に、南山麓部に非常に大きな平坦地(郭)を2か所持ち、その大きさはちょっとしたソフトボールの試合ができそうな大きさである。おそらく、この場所が多くの将兵が陣を構えた所と思われる。
特に、ほぼ南方に構える斐川学頭の米原氏の居城・高瀬城を、いよいよ落とすという元亀年間には、宍道氏も含めた毛利氏の大軍がここに構えたが、その数は数千といわれている。
【写真左】登城途中の「西3郭」付近
鳶ヶ巣城は、地元出雲市の指定史跡となっており、この標識の横には「史跡と文化財探訪コース第5番」と書かれている。
横に見えるタンクは、頂上部に設置された給水設備のための加圧タンクで、桜のシーズンにはかなりの人が登ってくるようだ。
この郭部分は、麓の郭と頂上部の郭群の間に位置するが、南西方向に突き出した形状として、その先端部の切崖はかなり強調されている。また北の方には土塁の痕跡が認められる。
【写真左】頂上部の南に延びた郭から北の本丸方向を見る
頂上部の形状は、ほぼ十文字に郭を配置し、中央部に本丸を置いている。
【写真左】本丸から南へ延びる郭を見る
この南北に伸びた郭が一番平坦になっており、その長さは100m前後あると思われる。当時はこの場所も含め、相当数の将兵が陣を構えていたものと思われる。
現在は、展望台のようなものが設置され、桜の木が相当数植えてある。
【写真左】東2郭入口付近
上記の南に延びた郭から東に向かうと、東2郭へ続く。
なお、本丸の真北にも幅、奥行とも十分な広さをもつ郭があり、その奥北東部にも尾根を利用した郭と切崖を施した遺構が残っている。
残念ながら上記の部分は雑草が多く、遺構の確認が南面ほどよくない。
よって、この稿では写真は掲載していない。
【写真左】鳶ヶ巣城本丸下の郭から、元亀年間攻め落とした斐川町の高瀬城及び、狼山(大神)城方面を見る。
写真が少し小さいため分かりずらいが、後方の中央部右側のとがった山が、高瀬城で、その下の低い平野部の丘陵地(中央部付近)が、現在斐川公園となっている狼山城のあったところ。
毛利方は、最初に手前の低い山城である狼山城をあっという間に落とし、その後高瀬を攻め入った。
なお、手前に見える斐伊川は当時、この経路でなく、右側(西)の出雲方面(日本海)へ流れていた。また、写真に見える平野部も当時は陸地となっておらず、ほとんど毛利方はこの鳶ヶ巣城から船を使って高瀬の麓まで向かっていたという。
このため、一説には、小早川隆景が、はるばる瀬戸から村上水軍(児玉水軍など)を引き連れて来たといわれ、戦の形態としては地上戦より、船戦(ふないくさ)の感が強かったといわれている。
【写真左】鳶ヶ巣城から東方を見る
上記のように、当時は眼下はほとんど宍道湖となっており、この写真の奥には、山中鹿之助らが陣取る松江の真山城がある。
以上のようなことから、水上での戦を得意とした村上水軍らの活躍がこのときの最大の功労者とも言われている。
【写真左】本丸跡にある「宍道政慶公の碑」
宍道「政慶」とあるが、実際には宍道「隆慶」がこの城に拠ったようである。ちなみに、隆慶の子が政慶である。
宍道氏の動きについては、宍道町史でも述べられているように、宍道氏一族の中でも惣領(嫡流)と庶子(庶流)があり、毛利方と尼子方とに分かれて戦っている。
この構図は他の国人領主の一族でもかなりあるらしく、このことが後世の軍記物などで混乱を生じさせている一因でもある。
なお、鳶ヶ巣城の築城者についても、はっきりと宍道氏とは断定できる実証性はなく、築城にかかわった可能性は十分にあるが、基本的には毛利元就の指示により、他の国人領主らと共同で築城した可能性が高いようだ。
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