丹波・金山城(たんば・きんざんじょう)
●所在地 兵庫県篠山市追入字大乗寺
●高さ 540m(比高290m)
●指定 篠山市指定史跡
●築城期 天正6年(1578)
●築城者 明智光秀
●遺構 郭・石垣・土塁、馬場等
●登城日 2015年6月8日
◆解説
金山城については、以前取り上げた黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の稿でも少し触れているが、黒井城の南方7キロ余りの、丹波市と篠山市の境に聳える標高500m余の金山に築かれている。
【写真左】鬼の架橋
主郭から西に向かったところにある岩で、地震でもあったら落ちそうな不安定な感じだが、意外としっかりしている。
現地説明板・その1
“市指定文化財 史跡
金山城址
金山城は標高537mの頂上に築かれた山城で、本丸を中心に、二の丸、矢島丸、朽木丸、加々丸、コキリ丸などと伝えられる構えをもつ、本丸には一部石垣が遺存しており、町内でも有数の規模を持つ。
織田信長の命を受け、丹波制圧にのりだした明智光秀が、現在の金山城を天正6年(1578)9月より7年10月にかけて築城した。
【写真左】金山城遠望
東麓側追入付近から見たもので、麓には追入神社が建立され、国道176号線が南北に走る。なお、この写真の裏側は丹波市になる。
この金山一帯には、数々の文化財が存在している。登山口には赤坂の観音堂があり、風呂の谷奥には「役の行者」が祭られ、その二枚石の間には文政の年号を刻んだ不動明王の石仏が安置されている。
そのほか民話として有名な「鬼の架け橋」「天石」等の景勝地があり、ハイキングコースとして訪れる人も多い。
指定年月日 昭和57年2月24日 篠山市教育委員会
平成2年3月31日建植 ”
【写真左】金山周辺マップ
南麓側に設置されていたもので、色が大分薄くなっていたため、管理人によって少し加筆修正したもの。
金山城は右上の黄色い線で囲んだ箇所に図示されている。
なお、登城道は追入神社から少し南に向かったところにあり(赤線)、駐車場は、追入神社側にスペースがあるので、そこに停める。
現地説明板・その2
“金山城物語
天正6年(1578)2月、三木城主別所長治が織田信長に背きます。篠山盆地一帯を支配していた戦国大名波多野秀治は、この謀叛を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起します。信長は明智光秀に征討を命じ、同年3月にその軍勢が丹波へ侵攻することになります。
秀治はその居城八上城にあって、氷上郡にある黒井城の赤井氏と連携しながら、光秀に対し徹底抗戦を続けます。光秀は、この両者の連携を最も恐れていました。光秀には、天正3年(1575)に黒井城を攻めた際、秀治に背後から襲撃され京へ命からがら逃げかえった苦い思い出があったからです。
【写真左】登城口
両側に灯篭のようなものがあり、ここから向かう。なお、この写真の右に追入神社があり、左側の奥には当時金山城の近くにあった圓林寺が麓に移設されている。
光秀は、秀治を赤井氏との連携を分断するために、その後、ここに金山城を築きます。すなわち、多紀郡(現篠山市)と氷上郡の郡境にあって、両郡を結ぶ交通上の要衝であったこの地は、両者の連携を遮断するに格好の地であったからです。これが功を奏したのか、八上城は天正7年(1579)6月、ついに落城し、戦国時代に勇名をはせた波多野氏は歴史の舞台から消え去ることになります。
2000年11月吉日
金山周辺開発推進会議
篠山教育委員会”
【写真左】観音堂
登城してから最初に見えてきたのが、観音堂の建物である。縁起等は分からないが、圓林寺や追入神社などと関わるものかもしれない。また、これとは別に稲荷神社の祠らしきものが見えた。
波多野氏と赤井氏
説明板にもある通り、金山城が築かれたのは、織田方に反旗を翻した黒井城の赤井氏と、多紀郡(篠山市)の八上城主波多野氏の連携を分断するため、明智光秀が築いたものである。因みに、金山城から八上山城までは南東へ直線距離で凡そ14キロ余りで、北方にある黒井城までは7キロほどなので、八上城までの約半分の距離となる。
明智光秀が金山城を築く直前まで拠点としていたのが、丹波・亀山城(京都府亀岡市荒塚町)である。ただ、同稿でも記しているように、このころは拠点としていた亀山城もまだ完成しておらず、このことから、金山城とほぼ同時並行して普請作業が行われていたと考えられる。
さて、波多野氏については、丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)でも述べたように、初代清秀(秀長とも)が応仁の乱の戦功によって、時の室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ、のち八上に移ったことから始まる。清秀のあと、稙通・晴通・秀治と続いた。
黒井城の赤井氏については、黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の稿で既に述べているので、そちらをご覧いただきたい。
【写真左】この柵を開けて向かう。
観音堂から暫く登っていくと、ご覧の柵が設置してある。鳥獣被害の保護のためだろう、かなりしっかりしたもので、入った直後きちっと施錠して向かう。
なお、ここから金山城までは凡そ1キロとなっている。
【写真左】登城道
傾斜はあるものの踏み跡も多く、歩きやすい。
なお、途中で「圓林寺道」と刻銘された石碑が横たわっていたので、明智光秀が金山城を築く前まで同寺の参道として利用されていたものと思われる。
【写真左】分岐点
上掲した金山周辺マップにも図示されているが、尾根ピークで分岐点が出てくる。
左に行くと、大乗寺へ、右に行くと金山城に繋がる。
【写真左】八上城を遠望する。
先ほどの分岐点を右に進むと、「鬼のかけ橋」などと書かれた矢印などがあり、その一角にはNHK共同受信組合のテレビ用の電波塔などが設置されている。
そこからさらに進むと、展望が開けた箇所に出てくる。そこには「大山荘園を望む」という看板が設置され、南東方向の篠山市街地が見えてくる。
少し靄がかかっていたが、ここから丹波・八上城が見える。
なお、金山城の南麓部大山地区は、承和12年(845)9月、京都東寺の荘園「大山荘(おおやまのしょう)」となっていたことが知られ(「東寺百合文書」)、推測だが前述した圓林寺(跡)も、元はこの真言宗総本山・東寺の末寺(修験道場)ではなかったと考えられる。
【写真左】圓林寺跡・その1
上記の箇所からさらに上を目指すと、圓林寺跡が出てくる。
写真は境内跡と思われる平坦地で、左側に石垣があり、その上にも段が残る。
明智光秀が築城した際、おそらく当院の境内は駐屯地としても利用されたのだろう。
【写真左】圓林寺跡・その2
上の段に向かう階段付近で、南無妙法蓮華経と筆耕された石碑が残る。
このことから東寺の荘園時代真言宗であったものが、鎌倉期に至って法華経(日蓮)に改宗された可能性もある。また、この近くには行者岩(役の行者)という場所があるが、荘園時代修験道場の場所としても栄えたものだろう。
なお、上の段にはかなり多くの瓦片が散在している。
【写真左】馬場跡・その1
圓林寺跡を過ぎて尾根筋を直登すると、馬場跡が出てくる。
幅は5~10m前後で、長さは200m近くもある。
【写真左】馬場跡・その2 石碑か
丁寧に仕上げられた馬場を進んで行くと、途中でご覧の様な倒木の下敷きになった石積がある。石碑跡にも見える。
【写真左】分岐点
馬場跡を過ぎると再び分岐点に差し掛かる。
右に行くと、瓶割峠、真っ直ぐ行くと金山城へ、また左に行くと、直接「鬼の架橋」へ繋がる。
先ずは金山城をめざし直登する。
なお、この位置から金山城までは150mとなっている。
【写真左】視界が広がってきた。
少し傾斜のある道を登っていくと、前方が開けていた。金山城の尾根ピークが見える。
【写真左】主郭
尾根状に不定型な郭群をなした中心部に「金山城本丸」の標柱が立っている。
【写真左】主郭から西に伸びる郭
主郭側から西にむかって郭が伸びている。少し高くなった郭である。
なお、この主郭群とは別に、東側にも鞍部をかいして郭群があり、石積などが残っているようだったが、この日は向かっていない。
【写真左】東側から主郭方面を見る
この位置に来ると、奥行がかなりあることが分かる。
【写真左】黒井城を遠望する。
北方を望むと黒井城がかすかに見える。周辺部が高い山に囲まれているため、分かりずらい。
【写真左】石垣
周囲の側面にはこうした石垣が残る。
このあと、「鬼の架橋」に向かう。
【写真左】鬼の架橋・その1
【写真左】鬼の架橋・その2
岩の間から見えるのは、丹波市側の国道176号線で、篠山市側から新鐘ヶ坂トンネルを越えて出てきた柏原町上小倉にある「鬼の架橋展望所」が見える(下段参照)。
【写真左】鬼の架橋展望所から遠望する。
下山した後丹波市側に入り、柏原町上小倉からみたもの。
【写真左】大乗寺の山門
冒頭の金山マップにも描かれているが、金山城の登城コースの一つで、西側から向かうとこの寺院を経由している。当日は手前の山門しか訪れていないが、中世大山荘の熊野信仰の中心になったという。寺伝によれば、白鳳時代に法道仙人によって開基されたといわれるので、大山荘が東寺の荘園になる前となる。
戦国時代、地元国人領主中沢氏が庇護し、天正年間の明智光秀による丹波攻めの際、僧兵と共に中沢氏も応戦したという。従って、彼らもまた波多野氏や赤井氏らと連合していたことになる。なお、地元の古文書『荒田文書』にはこの時の様子が詳しく書かれているという。
●所在地 兵庫県篠山市追入字大乗寺
●高さ 540m(比高290m)
●指定 篠山市指定史跡
●築城期 天正6年(1578)
●築城者 明智光秀
●遺構 郭・石垣・土塁、馬場等
●登城日 2015年6月8日
◆解説
金山城については、以前取り上げた黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の稿でも少し触れているが、黒井城の南方7キロ余りの、丹波市と篠山市の境に聳える標高500m余の金山に築かれている。
【写真左】鬼の架橋
主郭から西に向かったところにある岩で、地震でもあったら落ちそうな不安定な感じだが、意外としっかりしている。
現地説明板・その1
“市指定文化財 史跡
金山城址
金山城は標高537mの頂上に築かれた山城で、本丸を中心に、二の丸、矢島丸、朽木丸、加々丸、コキリ丸などと伝えられる構えをもつ、本丸には一部石垣が遺存しており、町内でも有数の規模を持つ。
織田信長の命を受け、丹波制圧にのりだした明智光秀が、現在の金山城を天正6年(1578)9月より7年10月にかけて築城した。
【写真左】金山城遠望
東麓側追入付近から見たもので、麓には追入神社が建立され、国道176号線が南北に走る。なお、この写真の裏側は丹波市になる。
この金山一帯には、数々の文化財が存在している。登山口には赤坂の観音堂があり、風呂の谷奥には「役の行者」が祭られ、その二枚石の間には文政の年号を刻んだ不動明王の石仏が安置されている。
そのほか民話として有名な「鬼の架け橋」「天石」等の景勝地があり、ハイキングコースとして訪れる人も多い。
指定年月日 昭和57年2月24日 篠山市教育委員会
平成2年3月31日建植 ”
南麓側に設置されていたもので、色が大分薄くなっていたため、管理人によって少し加筆修正したもの。
金山城は右上の黄色い線で囲んだ箇所に図示されている。
なお、登城道は追入神社から少し南に向かったところにあり(赤線)、駐車場は、追入神社側にスペースがあるので、そこに停める。
現地説明板・その2
“金山城物語
天正6年(1578)2月、三木城主別所長治が織田信長に背きます。篠山盆地一帯を支配していた戦国大名波多野秀治は、この謀叛を支援して他の丹波国人衆とともに一斉蜂起します。信長は明智光秀に征討を命じ、同年3月にその軍勢が丹波へ侵攻することになります。
秀治はその居城八上城にあって、氷上郡にある黒井城の赤井氏と連携しながら、光秀に対し徹底抗戦を続けます。光秀は、この両者の連携を最も恐れていました。光秀には、天正3年(1575)に黒井城を攻めた際、秀治に背後から襲撃され京へ命からがら逃げかえった苦い思い出があったからです。
【写真左】登城口
両側に灯篭のようなものがあり、ここから向かう。なお、この写真の右に追入神社があり、左側の奥には当時金山城の近くにあった圓林寺が麓に移設されている。
光秀は、秀治を赤井氏との連携を分断するために、その後、ここに金山城を築きます。すなわち、多紀郡(現篠山市)と氷上郡の郡境にあって、両郡を結ぶ交通上の要衝であったこの地は、両者の連携を遮断するに格好の地であったからです。これが功を奏したのか、八上城は天正7年(1579)6月、ついに落城し、戦国時代に勇名をはせた波多野氏は歴史の舞台から消え去ることになります。
2000年11月吉日
金山周辺開発推進会議
篠山教育委員会”
【写真左】観音堂
登城してから最初に見えてきたのが、観音堂の建物である。縁起等は分からないが、圓林寺や追入神社などと関わるものかもしれない。また、これとは別に稲荷神社の祠らしきものが見えた。
波多野氏と赤井氏
説明板にもある通り、金山城が築かれたのは、織田方に反旗を翻した黒井城の赤井氏と、多紀郡(篠山市)の八上城主波多野氏の連携を分断するため、明智光秀が築いたものである。因みに、金山城から八上山城までは南東へ直線距離で凡そ14キロ余りで、北方にある黒井城までは7キロほどなので、八上城までの約半分の距離となる。
明智光秀が金山城を築く直前まで拠点としていたのが、丹波・亀山城(京都府亀岡市荒塚町)である。ただ、同稿でも記しているように、このころは拠点としていた亀山城もまだ完成しておらず、このことから、金山城とほぼ同時並行して普請作業が行われていたと考えられる。
さて、波多野氏については、丹波・八上城(兵庫県篠山市八上内字高城山)でも述べたように、初代清秀(秀長とも)が応仁の乱の戦功によって、時の室町幕府管領細川政元から多紀郡を与えられ、のち八上に移ったことから始まる。清秀のあと、稙通・晴通・秀治と続いた。
黒井城の赤井氏については、黒井城(兵庫県丹波市春日井春日町黒井)の稿で既に述べているので、そちらをご覧いただきたい。
【写真左】この柵を開けて向かう。
観音堂から暫く登っていくと、ご覧の柵が設置してある。鳥獣被害の保護のためだろう、かなりしっかりしたもので、入った直後きちっと施錠して向かう。
なお、ここから金山城までは凡そ1キロとなっている。
【写真左】登城道
傾斜はあるものの踏み跡も多く、歩きやすい。
なお、途中で「圓林寺道」と刻銘された石碑が横たわっていたので、明智光秀が金山城を築く前まで同寺の参道として利用されていたものと思われる。
【写真左】分岐点
上掲した金山周辺マップにも図示されているが、尾根ピークで分岐点が出てくる。
左に行くと、大乗寺へ、右に行くと金山城に繋がる。
【写真左】八上城を遠望する。
先ほどの分岐点を右に進むと、「鬼のかけ橋」などと書かれた矢印などがあり、その一角にはNHK共同受信組合のテレビ用の電波塔などが設置されている。
そこからさらに進むと、展望が開けた箇所に出てくる。そこには「大山荘園を望む」という看板が設置され、南東方向の篠山市街地が見えてくる。
少し靄がかかっていたが、ここから丹波・八上城が見える。
なお、金山城の南麓部大山地区は、承和12年(845)9月、京都東寺の荘園「大山荘(おおやまのしょう)」となっていたことが知られ(「東寺百合文書」)、推測だが前述した圓林寺(跡)も、元はこの真言宗総本山・東寺の末寺(修験道場)ではなかったと考えられる。
【写真左】圓林寺跡・その1
上記の箇所からさらに上を目指すと、圓林寺跡が出てくる。
写真は境内跡と思われる平坦地で、左側に石垣があり、その上にも段が残る。
明智光秀が築城した際、おそらく当院の境内は駐屯地としても利用されたのだろう。
【写真左】圓林寺跡・その2
上の段に向かう階段付近で、南無妙法蓮華経と筆耕された石碑が残る。
このことから東寺の荘園時代真言宗であったものが、鎌倉期に至って法華経(日蓮)に改宗された可能性もある。また、この近くには行者岩(役の行者)という場所があるが、荘園時代修験道場の場所としても栄えたものだろう。
なお、上の段にはかなり多くの瓦片が散在している。
【写真左】馬場跡・その1
圓林寺跡を過ぎて尾根筋を直登すると、馬場跡が出てくる。
幅は5~10m前後で、長さは200m近くもある。
【写真左】馬場跡・その2 石碑か
丁寧に仕上げられた馬場を進んで行くと、途中でご覧の様な倒木の下敷きになった石積がある。石碑跡にも見える。
【写真左】分岐点
馬場跡を過ぎると再び分岐点に差し掛かる。
右に行くと、瓶割峠、真っ直ぐ行くと金山城へ、また左に行くと、直接「鬼の架橋」へ繋がる。
先ずは金山城をめざし直登する。
なお、この位置から金山城までは150mとなっている。
【写真左】視界が広がってきた。
少し傾斜のある道を登っていくと、前方が開けていた。金山城の尾根ピークが見える。
【写真左】主郭
尾根状に不定型な郭群をなした中心部に「金山城本丸」の標柱が立っている。
【写真左】主郭から西に伸びる郭
主郭側から西にむかって郭が伸びている。少し高くなった郭である。
なお、この主郭群とは別に、東側にも鞍部をかいして郭群があり、石積などが残っているようだったが、この日は向かっていない。
【写真左】東側から主郭方面を見る
この位置に来ると、奥行がかなりあることが分かる。
【写真左】黒井城を遠望する。
北方を望むと黒井城がかすかに見える。周辺部が高い山に囲まれているため、分かりずらい。
【写真左】石垣
周囲の側面にはこうした石垣が残る。
このあと、「鬼の架橋」に向かう。
【写真左】鬼の架橋・その1
【写真左】鬼の架橋・その2
岩の間から見えるのは、丹波市側の国道176号線で、篠山市側から新鐘ヶ坂トンネルを越えて出てきた柏原町上小倉にある「鬼の架橋展望所」が見える(下段参照)。
【写真左】鬼の架橋展望所から遠望する。
下山した後丹波市側に入り、柏原町上小倉からみたもの。
【写真左】大乗寺の山門
冒頭の金山マップにも描かれているが、金山城の登城コースの一つで、西側から向かうとこの寺院を経由している。当日は手前の山門しか訪れていないが、中世大山荘の熊野信仰の中心になったという。寺伝によれば、白鳳時代に法道仙人によって開基されたといわれるので、大山荘が東寺の荘園になる前となる。
戦国時代、地元国人領主中沢氏が庇護し、天正年間の明智光秀による丹波攻めの際、僧兵と共に中沢氏も応戦したという。従って、彼らもまた波多野氏や赤井氏らと連合していたことになる。なお、地元の古文書『荒田文書』にはこの時の様子が詳しく書かれているという。