虎丸城(とらまるじょう)
●所在地 香川県東かがわ市与田山
●高さ 417m(比高395m)
●形態 連郭式山城
●築城期 不明
●築城者 寒川氏
●城主 寒川氏、安富氏、十河存保
●遺構 郭、堀切等
●登城日 2015年3月13日
◆解説(参考資料 サイト『城郭放浪記』等)
虎丸城は、香川県の東部東かがわ市の虎丸山に築かれた連郭氏山城である。当城は最高所を中心として東西南北に伸びる尾根筋に中小の郭段を配し、特に西と南に延びる尾根筋にはそれぞれ規模の大きな堀切を介し、当山の持つ険阻な特徴を巧みに利用した城砦である。
【写真左】虎丸城遠望
北麓を走る県道129号線から見たもの。
当城の築城期についてははっきりしていないが、この場所から西へ12キロほど向かった昼寝城(香川県さぬき市多和) の城主と同じ寒川(さんがわ)氏が城主であったことから、昼寝城築城期とほぼ同じころの嘉吉年間(1441~44)と思われるが、定かでない。なお、同氏はこれら2城とは別に、引田城跡(香川県東かがわ市 引田)の城主にもなっている。
【写真左】四国のみち(四国自然歩道)杜のみちコース 案内板
この案内板は北西麓に鎮座する水主(みずし)神社(最下段の写真参照)に設置されているもので、中央上段に虎丸城(虎丸山)が表示されている。
【写真左】登城口付近
県道129号線と並行に流れる与田川を渡り、虎丸山のほぼ真北に当たる谷を進むと、新宮石風呂跡という史蹟が左手に見える。
狭いこの道を更に南に進んで行くと、小さな橋が架かかり、その上には砂防ダムが設置されている。橋の脇に車1台分のスペースがあったので、ここに停める。
三好氏と十河氏
虎丸城に絡む大きな出来事の一つとして挙げられるのが、天文22年(1553)の阿波三好氏による讃岐侵攻である。
この頃、信濃では川中島を挟んで武田信玄と上杉謙信が初めて戦いを行い(「川中島の戦い」)、中国地方では備後・旗返山城(広島県三次市三若町)でも述べたように、大内義隆が陶晴賢のクーデータも絡んで、毛利氏と尼子氏による本格的な戦い(「旗返城の戦い」)を始めるなど、時代は大きなうねりを見せていた。
【写真左】登城道
登城開始後しばらくは整備された道が続くが、その後しだいに道は狭くなり、ご覧の様な谷間を超える箇所などが多くなる。
四国においては、阿波を強固な地盤とし細川氏を巧みに利用しながら大きくのし上がってきたのが三好氏である。
勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)でも述べたように、三好氏は畿内では長慶を中心に、また阿波ではいわゆる阿波三兄弟が、阿波、淡路の両国を押さえ、さらには讃岐へは、三好元長(長慶及び阿波三兄弟の父)の四男又四郎が十河氏の養子となって十河一存(かずまさ)を名乗り、同国支配に向けて活発な動きを示した。
【写真左】細尾根の道
虎丸城の登城道は非常に変化に富んでいて、途中で砂地の続くところもあれば、岩塊状の歩きにくい個所や、幅も度々変化する。
そして、傾斜も起伏に富み予想以上に体力を消耗する。
【写真左】本丸が見えてきた。
登り始めて約40分ぐらい経ったころ、やや長い尾根にたどり着く。すると前方に本丸が見えてきた。
ところで、虎丸城も含めた東讃地域には、寒川氏のほか、細川四天王の一人で、讃岐・雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中)の安富氏や、植田郡を根拠とする植田氏などが割拠していた。
詳細は省くが、三好氏は十河一存を使って安富氏並びに、虎丸城主寒川氏をも服属させていくことになる。天文22年(1553)ごろのことである。
【写真左】三等三角点・その1
途中で、道は尾根筋から逸れて右側の斜面を通ることになるが、その左側には三角点があり、373mの表示が立っている。
【写真左】三等三角点・その2
おそらく北を扼する物見台(櫓)があったのかもしれない。
最高所(本丸)が417mなので、あとは44mの高度を稼ぐ必要があるが、ここから先が予想以上の難所だった。
【写真左】星ヶ城を遠望する。
この位置からは瀬戸内に浮かぶ星ヶ城(香川県小豆島町大字安田字険阻山)を見ることができる。
こうした三好氏による阿讃制圧もやがて土佐の長宗我部元親(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)による四国制覇の波に襲われ、、天正10年(1582)の中富川の戦い(勝瑞城参照)に敗れた十河存保(まさやす)(三好実休次男で、一存の跡を継いだ)は、虎丸城に逃れた。
その後、長宗我部氏は天正12年、十河城を攻略していくが、このとき存保は虎丸城を死守し続けたといわれているが、定かでない。
【写真左】一番目の堀切
大分埋まっていて浅いものだが、最初の堀切が見えてきた。
【写真左】二番目の堀切
最初の堀切からしばらく進むと、二番目の堀切がある。
この辺りの傾斜は緩やかなため、設置されたものだろう。ただ、現状は一番目と同じく大分埋まっているようだ。
【写真左】最後の難所
ここから急坂を直登。小さな九十九折れとなっているものの、傾斜があるため、度々足元が滑る。
周りに生えている木の根が露出していたので、この根に捕まり、這うような恰好で上を目指す。ヒーヒー言いながら息が荒くなる。
こういう時は、アイゼンのような滑り止めが必要かもしれない。
【写真左】頂部が見えてきた。
【写真左】二の丸
方形のもので、20~25m四方の規模。
【写真左】本丸
二の丸の東側は更に高く土壇状となっており、本丸と思われる。
速玉大社が祀られている。
【写真左】速玉大社・その1
祠が祀られている。
【写真左】速玉大社・その2
裏から見たもので、7~8m四方の規模。
【写真左】虎丸山の標柱
速玉大社の脇には「虎丸山 417m」の表示が建っている。
【写真左】切崖
本丸外周部は集合する4ヵ所の尾根筋も含め全体に急傾斜で、要害性は高い。
【写真左】本丸から北東方面を俯瞰する
本丸からの眺望が効くのは、東から北方面だけだが、この日は靄もあまりかからず、瀬戸内方面も見ることができた。
【写真左】本丸から東方を見る
左側の山の頂部は鳴嶽で、その奥の谷を一つ越えた山を過ぎると徳島県に入る。
【写真左】西に伸びる尾根
この先にも堀切や郭段があるようだが、この傾斜を見て断念。
この日の虎丸城登城はこの段階で、管理人(連れ合いも)にとって体力的にも限界だった。
【写真左】新宮石風呂跡
応永年間(1400年頃)増吽僧正が水主三山に熊野三社を勧進。新宮、本宮、那智の3か所の石風呂があり、特にこの新宮石風呂が繁昌し、江戸時代には数軒の宿屋があったという。
大正時代にこの風呂は廃止され、石碑が建てられた。
【写真左】水主神社(みずしじんじゃ)
当社縁起より
“水主神社
弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神倭迹々日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめのみこと)は、この争乱を避けて、この地に来られたと伝えられています。
姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。
境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納められています。社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今も残っています。
與田寺(よだじ)へ向かう途中の弘海寺(こうかいじ)付近には昔有名な「石風呂」があり、宿屋が栄え「チンチン同(どう)しに髪結うて、水主のお寺へ参らんか」と、こどもたちが歌ったほどにぎやかな土地でありました。
昭和61年3月 香川県”
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昼寝城(香川県さぬき市多和)
●所在地 香川県東かがわ市与田山
●高さ 417m(比高395m)
●形態 連郭式山城
●築城期 不明
●築城者 寒川氏
●城主 寒川氏、安富氏、十河存保
●遺構 郭、堀切等
●登城日 2015年3月13日
◆解説(参考資料 サイト『城郭放浪記』等)
虎丸城は、香川県の東部東かがわ市の虎丸山に築かれた連郭氏山城である。当城は最高所を中心として東西南北に伸びる尾根筋に中小の郭段を配し、特に西と南に延びる尾根筋にはそれぞれ規模の大きな堀切を介し、当山の持つ険阻な特徴を巧みに利用した城砦である。
【写真左】虎丸城遠望
北麓を走る県道129号線から見たもの。
当城の築城期についてははっきりしていないが、この場所から西へ12キロほど向かった昼寝城(香川県さぬき市多和) の城主と同じ寒川(さんがわ)氏が城主であったことから、昼寝城築城期とほぼ同じころの嘉吉年間(1441~44)と思われるが、定かでない。なお、同氏はこれら2城とは別に、引田城跡(香川県東かがわ市 引田)の城主にもなっている。
【写真左】四国のみち(四国自然歩道)杜のみちコース 案内板
この案内板は北西麓に鎮座する水主(みずし)神社(最下段の写真参照)に設置されているもので、中央上段に虎丸城(虎丸山)が表示されている。
【写真左】登城口付近
県道129号線と並行に流れる与田川を渡り、虎丸山のほぼ真北に当たる谷を進むと、新宮石風呂跡という史蹟が左手に見える。
狭いこの道を更に南に進んで行くと、小さな橋が架かかり、その上には砂防ダムが設置されている。橋の脇に車1台分のスペースがあったので、ここに停める。
三好氏と十河氏
虎丸城に絡む大きな出来事の一つとして挙げられるのが、天文22年(1553)の阿波三好氏による讃岐侵攻である。
この頃、信濃では川中島を挟んで武田信玄と上杉謙信が初めて戦いを行い(「川中島の戦い」)、中国地方では備後・旗返山城(広島県三次市三若町)でも述べたように、大内義隆が陶晴賢のクーデータも絡んで、毛利氏と尼子氏による本格的な戦い(「旗返城の戦い」)を始めるなど、時代は大きなうねりを見せていた。
【写真左】登城道
登城開始後しばらくは整備された道が続くが、その後しだいに道は狭くなり、ご覧の様な谷間を超える箇所などが多くなる。
四国においては、阿波を強固な地盤とし細川氏を巧みに利用しながら大きくのし上がってきたのが三好氏である。
勝瑞館(徳島県板野郡藍住町勝瑞東勝地)でも述べたように、三好氏は畿内では長慶を中心に、また阿波ではいわゆる阿波三兄弟が、阿波、淡路の両国を押さえ、さらには讃岐へは、三好元長(長慶及び阿波三兄弟の父)の四男又四郎が十河氏の養子となって十河一存(かずまさ)を名乗り、同国支配に向けて活発な動きを示した。
【写真左】細尾根の道
虎丸城の登城道は非常に変化に富んでいて、途中で砂地の続くところもあれば、岩塊状の歩きにくい個所や、幅も度々変化する。
そして、傾斜も起伏に富み予想以上に体力を消耗する。
【写真左】本丸が見えてきた。
登り始めて約40分ぐらい経ったころ、やや長い尾根にたどり着く。すると前方に本丸が見えてきた。
ところで、虎丸城も含めた東讃地域には、寒川氏のほか、細川四天王の一人で、讃岐・雨滝城(香川県さぬき市大川町富田中)の安富氏や、植田郡を根拠とする植田氏などが割拠していた。
詳細は省くが、三好氏は十河一存を使って安富氏並びに、虎丸城主寒川氏をも服属させていくことになる。天文22年(1553)ごろのことである。
【写真左】三等三角点・その1
途中で、道は尾根筋から逸れて右側の斜面を通ることになるが、その左側には三角点があり、373mの表示が立っている。
【写真左】三等三角点・その2
おそらく北を扼する物見台(櫓)があったのかもしれない。
最高所(本丸)が417mなので、あとは44mの高度を稼ぐ必要があるが、ここから先が予想以上の難所だった。
【写真左】星ヶ城を遠望する。
この位置からは瀬戸内に浮かぶ星ヶ城(香川県小豆島町大字安田字険阻山)を見ることができる。
こうした三好氏による阿讃制圧もやがて土佐の長宗我部元親(長曽我部氏・岡豊城(高知県南国市岡豊町)参照)による四国制覇の波に襲われ、、天正10年(1582)の中富川の戦い(勝瑞城参照)に敗れた十河存保(まさやす)(三好実休次男で、一存の跡を継いだ)は、虎丸城に逃れた。
その後、長宗我部氏は天正12年、十河城を攻略していくが、このとき存保は虎丸城を死守し続けたといわれているが、定かでない。
【写真左】一番目の堀切
大分埋まっていて浅いものだが、最初の堀切が見えてきた。
【写真左】二番目の堀切
最初の堀切からしばらく進むと、二番目の堀切がある。
この辺りの傾斜は緩やかなため、設置されたものだろう。ただ、現状は一番目と同じく大分埋まっているようだ。
【写真左】最後の難所
ここから急坂を直登。小さな九十九折れとなっているものの、傾斜があるため、度々足元が滑る。
周りに生えている木の根が露出していたので、この根に捕まり、這うような恰好で上を目指す。ヒーヒー言いながら息が荒くなる。
こういう時は、アイゼンのような滑り止めが必要かもしれない。
【写真左】頂部が見えてきた。
【写真左】二の丸
方形のもので、20~25m四方の規模。
【写真左】本丸
二の丸の東側は更に高く土壇状となっており、本丸と思われる。
速玉大社が祀られている。
【写真左】速玉大社・その1
祠が祀られている。
【写真左】速玉大社・その2
裏から見たもので、7~8m四方の規模。
【写真左】虎丸山の標柱
速玉大社の脇には「虎丸山 417m」の表示が建っている。
【写真左】切崖
本丸外周部は集合する4ヵ所の尾根筋も含め全体に急傾斜で、要害性は高い。
【写真左】本丸から北東方面を俯瞰する
本丸からの眺望が効くのは、東から北方面だけだが、この日は靄もあまりかからず、瀬戸内方面も見ることができた。
【写真左】本丸から東方を見る
左側の山の頂部は鳴嶽で、その奥の谷を一つ越えた山を過ぎると徳島県に入る。
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【写真左】新宮石風呂跡
応永年間(1400年頃)増吽僧正が水主三山に熊野三社を勧進。新宮、本宮、那智の3か所の石風呂があり、特にこの新宮石風呂が繁昌し、江戸時代には数軒の宿屋があったという。
大正時代にこの風呂は廃止され、石碑が建てられた。
【写真左】水主神社(みずしじんじゃ)
当社縁起より
“水主神社
弥生時代後期、女王卑弥呼の死後、再び争乱が繰り返され、水主神社の祭神倭迹々日百襲姫命(やまと ととひ ももそひめのみこと)は、この争乱を避けて、この地に来られたと伝えられています。
姫は未来を予知する呪術にすぐれ、日照に苦しむ人々のために雨を降らせ、水源を教え、水路を開き米作りを助けたといわれています。
境内は県の自然環境保全地域に指定され、付近からは縄文時代の石器、弥生・古墳時代の土器が多数発見され、山上には姫の御陵といわれる古墳もあり、宝蔵庫には多くの文化財が納められています。社殿はすべて春日造りで統一されており、社領を示す立石は大内・白鳥町内に今も残っています。
與田寺(よだじ)へ向かう途中の弘海寺(こうかいじ)付近には昔有名な「石風呂」があり、宿屋が栄え「チンチン同(どう)しに髪結うて、水主のお寺へ参らんか」と、こどもたちが歌ったほどにぎやかな土地でありました。
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