2016年9月24日土曜日

竹迫城(熊本県合志市上庄字城山)

竹迫城(たかばじょう)

●所在地 熊本県合志市上庄字城山
●別名 合志城、上庄城、穴の城、蛇の尾城
●指定 市指定史跡
●形態 平山城
●高さ 標高93m(比高30m)
●築城期 建久年中頃(1190~99)
●築城者 竹迫輝種
●城主 竹迫氏、合志氏
●遺構 郭、土塁、濠
●登城日 2015年2月24日

◆解説(参考資料 合志市HP等)
 竹迫城は、菊池城(菊池神社)から南に凡そ12キロ余り向かった合志市上庄に所在する城館である。

 当城が所在している地域は、古代「火の道の尻の邦」に属し、「加波志」と呼ばれていたという。そして応神天皇の時代に郷邑(ごうゆう)の地名改称が行われ、「皮石」と改め、さらに元明天皇の頃(700年代)に「好字好音」の詔が発せられたのに伴い、現在の「合志」と改称されたといわれる。
【写真左】竹迫城
 当城の北東部付近で、ご覧の通り大変綺麗に整備されている。

 ただ、残念ながら遺構の保存より公園化を優先したような整備状況なので、散策するには気持ちいいが、山城踏査の観点からいえば、少し物足りない気分になる。


現地説明板・その1

“竹迫城

 竹迫城は、別名合志城、穴の城、蛇の尾城ともいわれ、建久年中頃(1190~99)竹迫輝種により築城され、天正13年(1585)に、薩摩の島津家久に城を明け渡すまでの約400年間、竹迫氏、合志氏による旧合志郡統治の拠城であった。

 最高所は、海抜90m、深田や濠や土塁に囲まれた天然の要害をなし、城の規模は高さ135間、東西1,030間、南北3,180間余であったといわれている。

 天正15年(1587)4月7日、竹迫城を守っていた新納忠元、伊集院忠棟が、八代に去るとき城を焼き払って、今はただ土塁と濠を残すのみであるが、この竹迫城は、中世時代の城跡として、熊本県内でも有数の貴重な文化遺跡である。”
【写真左】竹迫城跡公園案内図
 この図では遺構名として、本丸跡、土塁、井戸跡程度しか表示されていないので、下段の「竹迫城古絵図」と見比べながら見るしかない。
【写真左】竹迫城古絵図
 文政年間に書かれたもので、精緻なものではないが、凡その配置が想像できる。

 『合志家記』という史料によれば、当城の城域規模は東西1.8km、南北1.4kmで、惣構えとして外掘りが約5.9kmあり、このエリアを含めると、東西2.3km、南北1.4kmとなり、当城のあるこの丘陵地のほとんどがその対象となる。



竹迫氏と合志氏

 竹迫城の城主は、下段にも示すように、前期に竹迫氏が約320年、後期になると合志氏が約80年と続いている。

 初代は竹迫輝種といわれ、元の名は中原師員(もろかず)とされている。師員は鎌倉時代の御家人で、鎌倉にあった時、主君は最初藤原頼経に仕え、その後頼嗣となった。源実朝が落命し、源氏(河内源氏)による統治が途絶えたあと、京都から頼経が摂関将軍として鎌倉に下向した際、随伴してきている。
【写真左】本丸入口南面
 公園化されため、当時の詳細な遺構を想像するのは難があるが、左側にある段が本丸を示し、その間にある通路を介して、右に現在芝生広場という名称の段が残る。

 おそらく隣接した郭だった思われるので、二の丸のような場所だったかもしれない。


“竹迫城歴代城主

《竹迫家》
 (初代)中原師員(改 竹迫輝種)(中原親能斉院次官)
  ↓
 2代 師能 → 3代 師常 → 4代 師實 → 5代 師光 → 6代 師種 
  → 7代 師次(以降は下段へ) ↓

【写真左】竹迫家の家紋
 説明板より

“竹迫家紋
 「蘘蓉の紋」と言い茗荷の図案である。戦に敗れて山中をさまよえる折に幻の翁あらわれ茗荷漬を給いて武運ひらけりの由来である。”




  ↓
 8代 定種 ― 信次 ― 友次
  ↓
 9代 秀種 ― 實種
  ↓
 10代 行種 ― 秀行
  ↓ 
 11代 信種 ― 重成 ― 景雄
  ↓ 
 12代 重種 ― 信吉
  ↓
 13代 正種 ― 重岑
  ↓
 14代 忠種 ― 朝員 ― 正廣
  ↓
 15代 公種

 現地には竹迫城の築城者がその中原師員(竹迫輝種)で、その時期が建久年間(1190~99)とされているため、これでいくと、彼が頼経・頼嗣に仕える前に肥後にあったということになるが、聊か不自然である。

  そもそも彼の生誕年が元暦元年すなわち、1184年なので、竹迫城を築いた時は未だ10代の若さになる。従って、築城者は師員でなく、中原師平(流)の一族ではないかと考えられる。
【写真左】本丸付近
 凡そ30m四方の大きさで、フラットになっている。
【写真左】「合志城址」と刻銘された石碑
 本丸の隅に設置されたもので、この石碑には竹迫城ではなく、「合志城址」と刻銘されている。




 《合志家》
 (初代)佐々木長綱(合志と改める)
  ↓
 (中略)
 12代 隆岑(たかみね)
  (竹迫家15代公種が豊後国の大友義鑑に仕えるために移住し、竹迫城は「合志隆岑」に譲遷する)
  ↓
 13代 隆房 ― 隆成
  ↓
 14代 高久 ― 高實
  ↓
 15代 親為(赤星重隆の次男・養子) ― 重遠 ― 親重 ― 隆賢
  ↓
 16代 高重(最後の城主) ― 重賢
【写真左】合志家紋
 初代が佐々木長綱の名でも分かるように、お馴染みの家紋「四ツ目結紋」であり、宇多源氏(近江源氏)で、出雲尼子氏と同じである。

 因みに、合志家の出自は近江国蒲生郡神前郡の大領であったとされる。





竹迫氏から合志氏へ

 竹迫氏15代の公種の代に、大友氏に仕えるため豊後国に移住し、その後を任されたのが合志氏とされている。その時期については書かれていないが、大友義鑑(よしあき)が、肥後国に侵攻を始めたのは大永から享禄年間のころとされているので、1520~30年代と思われる。

 そして、新城主となった合志氏は、元々菊池氏家臣であったとされる。おそらく城主交替の命を出したのは大友義鑑と思われる。
【写真左】五輪塔
 本丸近くには二基の五輪塔が建立されている。特に明記されたものはないが、おそらく合志氏ゆかりの者だろう。






竹迫城肥後国衆一揆

 当城もまた、前稿の和仁・田中城(熊本県玉名郡和水町和仁字古城)と同じく、肥後国衆一揆が勃発した城砦である。

 この頃の城主は、合志氏15代の親為といわれている。実際に城を守備していたのが、おそらく説明板にある新納忠元、伊集院忠棟らと思われ、攻め手は秀吉の命を受けた鍋島勢と龍造寺晴信を将とした軍である。
 因みに、その後龍造寺氏は秀吉の機嫌を損ねないように、途中から政家、すなわち隆信の嫡男が当地に参陣し指揮をしている。
【写真左】土塁と空堀
 本丸の北端部まで進むと、ご覧の通り綺麗に管理された土塁が見える。手前の窪みはおそらく空堀だったのだろう。





 そして、政家は最初合志氏へ降伏を勧めたが、これを合志氏は受け入れず、戦いとなった。
 この戦いでは特に龍造氏の家臣武藤丹後守が大砲の威力をまざまざと見せつけ、ほどなく竹迫城は落城、合志氏は四散逃亡したといわれている。
【写真左】東端部から西方を見る。
 中央のやや左側高い位置が本丸になり、そこから右へ堀を介して土塁があり、さらに下がって削平地が残る。
 手前の段も郭状のもので、館などが建っていたのかもしれない。
【写真左】北東部から見る
 先ほどの位置からさらに北に回り、南側をみたもので、中央の木立がみえるところが本丸になる。
【写真左】井戸跡
 先ほどの位置からさらに降りたところで、中央の四角いものが井戸跡で、中を覗き込んだがかなり深いようだ。
【写真左】説明板
 竹迫城公園内の一角には、竹迫城をはじめ地元合志(町)の歴史などを紹介した説明板が設置されている。

 この中には、竹迫城の「外城」も列記してある。これによると、合併前の合志町には、当城以外に、原口城、千束城があり、西合志町に1か所、泗水町に4ヵ所、大津町に10か所、旭志村に2か所、菊陽町に3か所と竹迫城を含め、23か所の城砦が紹介されている。
【写真左】東側から振り返って見る
 右奥に本丸が位置している。なお、奥に竹林のようなものが見えるが、城域付近では一番高い場所だったように見えたので、物見台のようなものがあったのかもしれない。
【写真左】上庄堤
 北西端に当たる個所から北側を見たもので、奥に橋がみえるが、これが寛永堀橋といわれているもの。
 その下には池が見え、上庄堤といわれるものだが、上掲した絵図から考えて、竹迫・合志氏時代の中世にはかなり大規模な濠だったと思われる。

2016年9月21日水曜日

和仁・田中城(熊本県玉名郡和水町和仁字古城)

和仁・田中城(わに・たなかじょう)

●所在地 熊本県玉名郡和水町和仁字古城
●指定 国指定史跡
●別名 田中城、和仁城、舞鶴城
●形態 平山城
●高さ 標高104m(比高50m)
●築城期 不明(南北朝以前)
●築城者 不明(古代豪族和邇氏末裔か)
●城主 和仁親実等
●遺構 郭・堀切・井戸等
●登城日 2015年2月25日

◆解説(参考文献『肥後国衆一揆』荒木栄司著等)
 和仁・田中城は別名田中城(以下「田中城」とする)ともいい、熊本県の北西に位置する和水町(なごみまち)に所在する平山城である。築城期は不明だが、古代豪族であった和邇氏の末裔である和仁氏が築いたものとされている。
【写真左】田中城の空堀
 当城の見どころの一つで、主郭を形成している丘陵周囲裾部に約300mにわたって巡らされている。





肥後国衆一揆

 豊前の大平城(福岡県築上郡築上町大字寒田)の稿でも述べたように、当城では戦国期における「肥後国衆一揆」の代表的な戦いが繰り広げられた。この戦いの経過について、詳細な内容の説明板が現地に掲示してある。
【写真左】遠望
 南側から見たもので、この写真では全体が入っていないが、中央部が本丸などに当たる。

 なお、正面中央部が新城口といわれた箇所で、民家が建っている附近である。


現地説明板・その1

“国指定史跡
  田中城跡(和仁城跡)
     所在 三加和町大字和仁字古城
     指定日 昭和61年4月15日(※国指定:2002年3月)

 田中城は、廣瀬(ひろせ)文書の暦応3年(1340)の項に出てくる鰐(わに)城にあたると考えられているが、いつ築城されたかははっきりせず、落城する天正15年(1587)まで250年以上は続いたと思われる和仁一族の居城である。

 天正15年、九州征伐を終えた豊臣秀吉は、肥後国主として佐々成政を任命したが、この成政に対してそれまで肥後の国を分割統治していた国衆が反旗をひるがえし、いわゆる肥後の国衆一揆がおこった。
 和仁氏もこの一揆に加わり、姉婿の辺春(へばる)親行(坂本城主:上十町)とともに、田中城に籠城した。この模様を描いたのが、山口県立文書館保存の『辺春・和仁仕寄(しより)陣取図』である。
【写真左】和仁軍の守備配置図
 この図は、当城北西端麓にある田中城の磨崖仏付近に設置してある絵図だが、大分劣化し、色が不鮮明になったものを管理人によって少し修正加筆した。
 左方向が北を示す。



 絵図によると、田中城の周りに二重の柵列を設け、その外側に小早川秀包(ひでかね)・安国寺恵瓊など毛利氏関係のほか、鍋島直茂・立花宗茂・筑紫広門など九州の諸将が陣を張っている様子がわかる。その数約1万ともいわれ、およそ40日後の12月5日、内部の裏切りでついに落城した。

 城の規模は、総面積約8万㎡で、主郭は約1,700㎡である。現在までに判明している遺構としては、主郭から14棟の掘立柱建物跡、主郭をグルリと巡る空堀跡、捨て曲輪跡などがある。さらに、絵図発見後の調査で、主郭の西裾から連棟式建物跡群が見つかり、また、主郭の南側に空堀をはさんで伸びる尾根筋に描かれている「やぐら」と思われる遺構も確認された。この他、地元で弾正屋敷跡といわれていたところからは、建物跡と井戸跡が見つかっている。

 遺物の主たるものとしては、中国の明時代の染付碗のほか、青磁・白磁などの輸入磁器、火鉢・すり鉢・土師器皿などの生活用具、兜の前立・小札(こざね)などの武具などがあり、また、この戦いで使用されたと思われる鉄砲の玉が現在までに45個出土している。

  平成12年 3月
    和水町  教育委員会”

(※下線、管理人による。)
【写真左】城門と柵
 本丸入り口付近に復元されたもので、発掘調査によって城門と柵の柱穴が発見された。
【写真左】本丸付近
 本丸付近はご覧のように大変綺麗に整備され公園のような姿になっている。







現地説明板・その2

“日本最古の城攻め絵図
  『辺春和仁仕寄陣取図へばる わに しより じんどりず

(中略)
…絵図の中央には、柵や深い堀をめぐらした上に、やぐらを立てた防備厳重な田中城の姿が、西側から見たように描かれ、和仁氏・辺春氏の陣も区別されている。周囲には、二重の柵が立てまわされ、四方の丘の上などに陣を取った攻撃軍の諸将の名と、城からの距離も記入されている。小早川秀包(毛利元就の末子で、小早川隆景の養子)、安国寺恵瓊・鍋島直茂・立花宗茂などの秀吉側の大名の名がわかる。
【写真左】辺春和仁仕寄陣取図
 少しぼやけた線や文字もあるが、かなり詳細な陣取図である。

 肥後国衆一揆の際、当時秀吉から国主として任命されていた佐々成政の名がこの中に見出されないが、田中城落城時、成政は八代に居たことが恵瓊との書簡で分かっている。
 ただ、このころから成政の失態が秀吉の耳に伝わっていて、当城の攻撃側総大将は、名目上小早川秀包だったと考えられる。


 また図には2か所の『仕寄』(攻め口)が描かれ、攻撃の主方向が示されている。秀吉得意の兵糧攻めと直接攻撃を併用する作戦と見える。

 この絵図には、さらに『軍中法度(ぐんちゅうはっと)』(作戦の間、陣中で守るべき禁令)などが書き込まれており、この種の絵図としては日本最古というべきまことに貴重な史料である。今もよく残る田中城の跡とくらべてみるとき、興趣はいよいよ深まることであろう。

  平成5年3月吉日
東京大学名誉教授
  石井 進”    
【写真左】空堀に向かう
 冒頭で紹介している空堀で、本丸の西隣にある二の丸を過ぎてさらに西の方へ数段の郭を降りていくと、ご覧の堀切を介して奥には「付け曲輪」が見える。
【写真左】堀切底部中央をさらに抉った箇所
 上掲した「和仁軍の守備配置図」にも示しているが、この箇所だけ更に深く抉られており、珍しい遺構である。

 敵の侵入を妨げる目的もあったのかもしれないが、排水機能を持たせた可能性もある。


そして、絵図にもあるように、「南」に「立花左近」、「西」に「安国寺」「秀包」、「北」に「鍋島」の文字が書かれ、

一、諸陣大廻(しょじんおおまわり)五十町
一、城ト陣トノ間三、四、五町
一、仕寄四口 芸州衆一口 肥前衆一口 立花一口 筑紫一口

と陣形を示し、軍中法度は次のように記されている。

軍中法度
一、喧嘩停止之事
一、押買(おしがい)停止之事
一、懸引者安国寺秀包可被任申分事

 付普請同前之事
  以上”
【写真左】「西捨て曲輪」から二の丸・本丸を見る。
 「捨て曲輪」というのは、攻め手の眼を欺くために設けられた陣地のようなもの、と説明されている。

 田中城の本丸の外周部にはこの郭のように、小規模な独立した高台が北・南にも設けられている。地元では以前から「物見やぐら跡」としていたが、平成2年度の発掘調査によって、この郭が物見やぐらを想定させるような遺構がなかった。


和仁・田中城の落城

 ところで、説明板・その1の下線にもあるように、当城が落城した原因は内部の裏切りによるものとしている。
 当時田中城には、以下の面々が籠城していたとされる。

  〔総大将〕 和仁勘解由親実
  1. 大手   和仁弾正親範・松尾日向以下150人、鉄砲30挺、弓20張
  2. 宮嶽(北の堅め)   和仁入鬼親宗・松尾市正以下100余人、鉄砲20挺、弓20張、槍20
  3. 新城口   中村治部少輔以下150人、鉄砲、弓、槍20
  4. 本丸   辺春親行勢300人、鉄砲100挺、弓80張、槍50
  5. 二の丸   和仁勘解親実以下100余人、鉄砲30挺、弓20張、槍30
  6. その他   浮武者頭・草野隼人ら100余人、鉄砲20挺、弓30張、槍30
 この他、芋生摂津守・石原刑部ら武士は総勢800余人あり、更には当城に多数の農民が入城していたとされる。
【写真左】「西捨て曲輪」からさらに西に伸びる郭段
 捨て曲輪から西に向かうと、細長い舌陵状の形で伸びる郭段がある。

 田中城の外周部は全体にこうした幅の狭い段を設けた箇所が多く、施工が精緻である。



 田中城における総大将は、城主和仁親実で、父は親続といわれている。親実は長男だが、次男は小野久右衛門統実で、後に立花宗成の家臣となっているので、この段階で和仁氏から離れていたものと思われる。そして、三男が親範であるが、四男・親宗は異母兄弟である。親宗については、後段で改めて述べたい。
【写真左】南西麓を俯瞰する。
 西捨て曲輪付近から見たもので、東西に走る195号線沿いには、下段で紹介している「和仁三兄弟」の銅像が建立されている。



 そして、辺春親行は親実の姉婿に当たり、義弟・親実に対し、いわば義理を立てる意味で当城に籠っていた。

 『和仁軍談』という軍記物によれば、これを知った安国寺恵瓊(新日山安国寺 不動院(広島市東区牛田新町)参照)は、親行に内応をしかけ、内部離反を誘ったという。そして、親実の家来で「鷽(うそ)の蔵人」という日頃親実から重用されないのを不満に思っていた人物を抱き込み、蔵人は二の丸にあった親実を夜半の寝床に襲い、首級をとった。
【写真左】本丸東側の郭
 本丸(主郭)周辺部のうち、北側から東側にかけてかなり規模の大きな郭が接続している。大型の帯郭といえる。

 このあと、南側に向かい、一旦新城口方面に向かう。

 
 その報告を聞いた親行は、本丸に火を放ち、田中城はパニックに陥り、多くの者は城外へ脱出した。それでも、残った弟の弾正親範らは最後の戦いを挑んだが、討死したとされる。

 なお、恵瓊の誘いに乗って和仁氏を裏切った辺春親行は、落城のあと生存した記録がないことから、結局和仁三兄弟と同じく殺害されたのではないかとされている。
【写真左】本丸南端部の切崖先端から三の丸方向を見下ろす。
 本丸・二の丸の周囲は険しい切崖をなしているが、特にこの付近は顕著となっている。




人鬼親宗

 ところで、和仁氏は南北朝時代すでにこの地にあったことが記録されているが、戦国時代には当初大友氏(臼杵城(大分県臼杵市大字臼杵)参照)に属し、その後龍造寺氏、そして秀吉の九州征伐直前には島津氏に属している。
【写真左】和仁三兄弟の銅像
 南麓に設置されているもので、中央が親実、右が親範、そして左が親宗。

 後方に田中城が見える。



 大友氏時代かなり多くの南蛮人が来国しているが、和仁氏が大友氏傘下にあったとき、親続に妾として南蛮人の女性が宛がわれたのではないかという逸話が残っている。そして、その子が親宗といわれ、彼は手足は熊のようで、大力の大男であったため、「人鬼親宗」と呼ばれていた。従って、今で言う「ハーフ」ではなかったかとされている。
【写真左】三の丸西端部
 本丸の東側の急峻な切崖を降りると、東に三の丸の先端部が見える。
【写真左】本丸と三の丸
 右側が本丸で、道を挟んで左に三の丸が見える。
【写真左】三の丸西側
 左側が三ノ丸になるが、この西面も見事な切崖といえる。
【写真左】三の丸最高所
 三の丸は細長い郭で、次第に先端部につれて下がっていく形だが、凡そ150m前後の長さを持つ。
 写真は先端部から南方向をみたもの。
【写真左】三の丸から北に本丸方面を見る。
 奥にある樹木がなければ、本丸・二の丸がよく見えると思われるが、全体に郭を構成している切崖が険しいため、伐採すると崩落する箇所もでるかもしれない。

2016年9月18日日曜日

菊池城(熊本県菊池市隈府町城山)

菊池城(きくちじょう)

●所在地 熊本県菊池市隈府町城山
●別名 隈府城・守山城・雲上城・菊池本城
●指定 菊池市指定史跡
●備考 菊池神社
●高さ 標高110m(比高40m)
●遺構 空堀等
●築城期 不明(正平年間 1346~70ごろか)
●築城者 菊池氏
●城主 菊池氏
●登城日 2015年2月24日

◆解説(参考文献『中世武士選書 菊池武光』川添昭二著、『肥後国衆一揆』荒木栄司著等)
 前稿の鞠智城(熊本県山鹿市菊鹿町米原)は、菊池氏発祥の地とされるが、その後南北朝期に至って本拠の一つとしたのが菊池市隈府に所在する菊池城で、別名隈府城とも呼ばれる。
【写真左】菊池城遠望
 現在の菊池市街地北東部にある菊池公園のほぼ中央部に本丸跡がある。おそらく当該公園全体の丘陵地が城砦だったと思われる。

 写真は、西麓にあるきくち観光物産館側駐車場から撮ったもので、北端部にあたる個所で、この上には菊池神社歴史館などが建てられている。


「城山神社」縁起より

“摂社 城山神社
 御祭神 贈従三位 菊池武房公
      菊池十代の主にして文永・弘安両度の元寇を撃退した殊勲者
    
      贈四位下 菊池重朝公 
      戦国争乱の時代に儒教を導入し肥後文教の渕源をなした人

 祭日 (春)4月1日
     重朝公が釈典の礼を行った日に当つ
    
     (秋)9月1日
     武房公が元寇撃退の日に当つ

創立 大正9年2月29日 御鎮座”
【写真左】空堀・その1
 今回は残念ながら本丸跡まで踏査はしておらず、神社周囲を歩いただけで、少し消化不良だったが、当社北東部にある空堀は確認できた。
【写真左】空堀・その2
 神社の北東部を囲繞しているもので、長さはおよそ250m余り。深いところでは5m以上あるようだ。このあと西に回り込む。


【写真左】空堀・その3
 北西端部に当たり、神社の北側入り口付近でもあるが、ここで空堀が解放されている。
 空堀内部に生えている雑木・竹などを除去すれば、見ごたえのある遺構となるだろう。



菊池氏

 地元菊池市のHPには「菊池一族」の項があり、平安時代から室町戦国時代にわたって活躍した累代の人物が紹介されている。これを参考に主だった流れを下段に列記しておく。
 菊池氏の祖は則隆といわれ、さらに則隆を遡れば太宰大監(だざいのたいげん)となった藤原隆家とこれまで言われてきた(下段参照)。

隆家 → 経輔 → 政則(蔵規) → 則隆(菊池氏初代)
【写真左】菊池神社
 菊池城跡の一角には菊池神社が祀られている。
 慶応4年(1868)熊本藩から明治新政府に参与として出仕した長岡護美が、地元に関わりのある加藤清正と菊池氏を祀る神社を創建すべく新政府に建議した。
 これが了承され同藩は、清正については熊本城内に錦山神社、菊池氏については菊池城跡に菊池神社を建立した。
 当社主祭神は、武光の父武時で、子息武重と武光を配祀神とした。鎮座祭は明治3年(1870)4月28日に行われている。


 しかし、近年では地元(肥後・筑前か)の土豪が大宰府の長官であった隆家に仕え、その功によって藤原姓を賜ったとされる説が有力である。件の「功」とは、則隆の父政則(蔵規)が、寛仁3年(1019)4月、満州の一部族「刀伊」の入寇の際、隆家を援け督軍に当たったものといわれる。

①則隆(生年不詳~1081年か)
    
②経隆(生没年不詳)   経隆の代には、後に西郷隆盛に繋がる政隆(西郷氏)があり、その他保隆がいた。

③経頼(生没年不詳) 
④経宗(生没年不詳)
⑤経直(生年不詳~1186)  
⑥隆直(生年不詳~1185) 
⑦隆定(1167~1222) → 隆親(小山氏)
                  ↓
⑧能隆(1201~1258)   ←          
⑨隆泰(生没年不詳)   隆経(城氏)   
⑩武房(1245~1285)
⑪時隆(1287~1304)

武時(1292~1333)              
⑬武重(1307~1341)              
⑭武士(1321~1401)
武光(豊田十郎)(1319~1373)

⑯武政(1342~1374)
⑰武朝(1363~1407)
⑱兼朝(1383~1444)
⑲持朝(1409~1446)
⑳為邦(1430~1488)
㉑重朝(1449~1493)
㉒武運(能運)(1482~1504)
㉓政隆(1491~1509)
㉔武包(生年不詳~1532)
【写真左】城山神社
 菊池神社の隣には上段で紹介している摂社・城山神社が鎮座している。
 祭神は10代菊池武房で、この他、21代重朝なども祀られている。


菊池武光懐良親王

 上掲したように菊池氏は平安時代から戦国初期にわたって活躍した一族であるが、同氏がもっともその名を馳せたのは、12代武時から15代武光に至る南北朝時代である。その中でとくに有名なのは15代武光で、後醍醐天皇の皇子懐良親王九州下向以来親王に仕え、北朝方と烈しく争うことになる。
【写真左】菊池武光の像・その1
 菊池公園の駐車場側に建立されているもので、猛々しく見事なものである。
【写真左】菊池武光の像・その2




 武光が生まれたのは上掲したように元応元年(1319)としているが、一説には元徳元年(1329)ともいわれている。父は12代武時である。初陣は興国4年(1343)の田口城での戦いといわれている。
 この戦いでは、武光は若かったため、恵良惟澄(阿蘇氏10代当主、別名阿蘇惟澄(これずみ)の指示に従うものであった。
【写真左】菊池一族の幟
 麓には観光物産館、菊池夢美術館などがある。その中のどの建物か失念してしまったが、中には菊池一族を紹介するコーナーがある。

 写真は同氏一族の幟と、系図及び、2代経隆の弟・政隆を始祖とする西郷家略系の掛け軸も飾られている。
 因みに、この西郷氏がのちの西郷隆盛に繋がる。


  懐良親王が九州に下向したのは、興国2年(1341)5月ごろといわれている。その5年前の延元元年(1336)9月、比叡山を降りて、尊氏と講和を結んだ後醍醐天皇だったが、このとき天皇は3人の皇子をそれぞれ各地に下向させている。

 すなわち、恒良親王は新田義貞(新田義貞戦没伝説地(福井県福井市新田塚)参照)と共に越前へ、宗良親王は北畠親房(田丸城(三重県度会郡玉城町田丸)参照)と共に伊勢へ、そして懐良親王には九州へ征西大将軍として下向させた。このとき親王は年若い8才で、従者も僅か12人であったという。
【写真左】聖護寺の大智禅師と菊池武重
 リアルな蝋人形だが、これは武光の兄武重が険しい山道を訪ね聖護寺で大智禅師に教えを請うている様子を再現したもの。

 聖護寺というのは、菊池城から北東へ約10キロ余り向かった標高460mの位置にある寺院で、延元元年(1338)大智禅師を招いて武重が建立した。菊池氏一族の精神的なよりどころとなったといわれている。

 武重は千葉・宇都宮・大友・松浦などとともに新田義貞に属し、箱根竹之下の戦いで功を挙げ、このとき使われたのが「菊池千本鎗」といわれている。


 懐良親王が最初に入ったのが薩摩である。当時、薩摩では北朝方にあった守護島津氏と対立していた谷山氏がいたためでもあったが、このころ親王の最終的な協力者として期待していたのは、肥後の阿蘇氏であった。

 しかし、阿蘇氏一族内で惣領家と庶子家の対立があり、惣領であった阿蘇惟時は親王の度重なる要請にもすぐには対応しなかった。このため、期待していた阿蘇氏を諦め、次に頼ったのが菊池郡の菊池武光であった。もっとも菊池氏一族もこのころ、一枚岩ではなく、途中では足利直冬方に走るものもあったが、菊池氏の「一族一揆」の団結力は強く、親王は彼を頼ることになる。
【写真左】菊池十八外城の石碑
 菊池本城を支えていた枝城18か所を示したもので、それぞれの位置については下の写真参照。
【写真左】菊池十八外城の位置図
 文字が少し小さいため分かりずらいが、菊池本城を中心に北東から西南方向に分散している。

 このうち、本城南側にある菊之城は、菊池氏初期の居城といわれている。




征西府による九州王国

 懐良親王が肥後に入ったころから幕府方(北朝)は観応の擾乱により混乱を来たし、さらには足利直冬も九州を離れ、九州探題を担っていた一色範氏父子も当地を離れた。

 正平14年(1359)8月、親王及び武光らは、筑後国大保原で唯一勢力を誇っていた守護少弐氏を破ると、その2年後宿願であった大宰府(大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)参照)の入城を果たした。親王にとっては京を離れてから19年の歳月が流れていた。

 以後、約12年にわたってここに征西府、すなわち後に語られることになる「九州王国」が樹立した。
【写真左】大宰府跡









 
征西府滅亡今川了俊

 北朝方の実権をほぼ手中に収めていた管領細川頼之は、応安4年(1371)今川了俊を九州探題として派遣、翌5年、了俊の弟仲秋は、肥前・築後で菊池氏を破り、8月12日遂に征西府の本拠地を落とした。懐良親王は高良山に奔り、激しく抵抗したが、この間武光の死などもあり、肥後まで撤退した(多良倉城(福岡県北九州市八幡東区大字大倉 皿倉山)参照)。

 その後了俊は九州の国人層の不信なども買ったが、永徳元年(1381)ついに菊池氏の本拠・菊池城を落とし、懐良にかわった甥の良成を追い詰め、ほぼ九州を掌握した。


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備後・赤城(広島県世羅郡世羅町川尻)