豊前・岩石城(ぶぜん・がんじゃくじょう)
●所在地 福岡県田川郡添田町大字添田
●高さ 標高454m(比高380m)
●築城期 保元2年(1157)
●築城者 平清盛(大庭平三景親)
●城主 日田判官宗道・筑紫氏・大友氏(大庭十郎左衛門景道)・大内氏・秋月氏その他
●遺構 郭・堀切・柱穴・土塁・古井戸・馬場・石垣その他
●探訪日 2015年1月12日
◆解説(参考資料 サイト『城郭放浪記』等)
前稿筑前・白山城(福岡県宗像市山田)の登城後、帰途に着く予定にしていたが、以前から気になっていた豊前の岩石城の麓まで足を運ぶことにした。
従って、当城については最初から本丸跡まで登城する予定ではなかったので、本稿では遺構などの紹介は出来ない。これについては、サイト「城郭放浪記」氏がいつもながら詳細な写真をアップされているので、ご覧いただきたい。
【写真左】模擬天守 岩石城の西麓には天守を模した添田美術館がある。
この美術館の脇を走る道路を登っていくと、下段の写真にあるように、岩石城へ向かう。
【写真左】添田公園・岩石山案内図
上記美術館がある場所よりさらに下がったところには、添田公園があり、その一角にこの案内図が設置されている。
時間に余裕のある方なら、麓から徒歩で向かう「滝コース」というのがあるが、余裕のない人や体力に自信のない方などは、模擬天守のある美術館の脇を走る道がかなり上の方まで繋がっているので、これを使って車で行けそうだ。
現地説明資料より
“岩石城史
天正時代の岩石城は、古処山城の秋月氏の勢力下にあった秋月種実の時には、全盛期を迎え、24支城を支配し、36万石を領した。岩石城はその24支城の中で、最も堅固で自慢の城といわれていた。
天正15年(1587)4月1日、豊臣秀吉は、九州平定の要の戦として、島津・秋月連合の重要な砦である岩石城を15万の大軍を揃え攻めた。大手(芥田)、搦手(熊井)が守る3千の守備兵は、奮戦したが1日で破られ落城した。
熊井越中守久重は、秋月種実に命じられ、天正15年(1587)まで岩石城を守備した武将である。彼は種実旗下の最も有力な家臣である。勇猛果敢な兵士3千を抱えて、秀吉軍に抗戦し討死した。
芥田悪六兵衛は熊井越中守と共に、死守した武将である。「太宰管内誌上巻」には、天正10年(1582)の大友・秋月合戦の時、単身敵陣に乗り込み、並外れた気力と大力で、大友方の将・臼杵中務少輔の首をかき、秋月種実の命を救ったという武勇伝も伝わる。
【写真左】熊井越中守久重と芥田悪六兵衛の石碑
追善供養碑と碑文(口伝)
一、熊井越中守久重の碑
巌之翁「雀ニ翁か」之墓 南冥書(表面)
辞世 夜となく現に思う 蓮かな 砂水仙人写(裏面)
一、芥田悪六兵衛の碑
阿幾多「養老斎か」之墓(表面)自書
一鞭に飛びこへにけり 三途川
津美の 手綱に朋いざなひて 自書(裏面)
この碑は町内宮町の後藤家が、古くから管理されてきたものを添田町に委託され移転したものである。
添田町
平成15年(2003)9月吉日”
●所在地 福岡県田川郡添田町大字添田
●高さ 標高454m(比高380m)
●築城期 保元2年(1157)
●築城者 平清盛(大庭平三景親)
●城主 日田判官宗道・筑紫氏・大友氏(大庭十郎左衛門景道)・大内氏・秋月氏その他
●遺構 郭・堀切・柱穴・土塁・古井戸・馬場・石垣その他
●探訪日 2015年1月12日
◆解説(参考資料 サイト『城郭放浪記』等)
前稿筑前・白山城(福岡県宗像市山田)の登城後、帰途に着く予定にしていたが、以前から気になっていた豊前の岩石城の麓まで足を運ぶことにした。
従って、当城については最初から本丸跡まで登城する予定ではなかったので、本稿では遺構などの紹介は出来ない。これについては、サイト「城郭放浪記」氏がいつもながら詳細な写真をアップされているので、ご覧いただきたい。
この美術館の脇を走る道路を登っていくと、下段の写真にあるように、岩石城へ向かう。
【写真左】添田公園・岩石山案内図
上記美術館がある場所よりさらに下がったところには、添田公園があり、その一角にこの案内図が設置されている。
時間に余裕のある方なら、麓から徒歩で向かう「滝コース」というのがあるが、余裕のない人や体力に自信のない方などは、模擬天守のある美術館の脇を走る道がかなり上の方まで繋がっているので、これを使って車で行けそうだ。
現地説明資料より
“岩石城史
- 保元2年(1157) 平清盛・岩石城を築き大庭平三景親を置く。
- 応保元年(1161) 豊後日田陸奥守の次男日田判官宗道城主になる。
- 文治2年(1186) 筑紫三郎種有、筑紫弥平治種固城主になる。
- 承久2年(1221) 承久の乱に破れ筑紫三郎種有は所領を没収され、豊後大友氏の抱城となる。
- 延元3年(1331) 大友氏、大庭十郎左衛門景道を城主とする。
- 正平23年(1368) 大内氏、熊井左近少監親盛を城主とする。大内氏、大庭平太景忠を城主とする。
【写真左】添田神社
岩石城の麓には添田神社が祀られている。
往古岩石山に鎮座していたが、岩石城の築城者であった時の大宰府大貮・大庭平三景親が、築城に併せ、現在地に社殿を造営、大宰府天満宮を勧請合祀したとされている。
- 応永5年(1398) 大友氏親岩石城を攻めの大庭平太景忠敗走する。大善寺城主・大友親泰に岩石城を守らせる。
- 応永6年(1399) 大内盛見が岩石城を攻め、大友氏敗走。大内氏は再び大庭平太景忠を城主とする。
- 天文19年(1550) 大庭氏、大友氏に攻められ退城する。
- 天文20年(1551) 大友氏、原田右京進義貫を城主とする。
- 永禄元年(1558) 大友氏、高橋九郎長幸を城主とする。
- 天正元年(1573) 秋月氏、熊井越中守を城主とする。
- 天正15年(1587) 城主、熊井越中守、芥田悪六兵衛、九州平定の豊臣秀吉軍に破れる。毛利壱岐守が森八郎高瀬を城主とする。
- 慶長5年(1600) 細川氏、長岡肥後守忠直を城主とする。
- 元和元年(1615) 岩石城は一国一城令により廃城。”
【写真左】模擬天守
岩石城はこの模擬天守の向背の山に築かれている。
大庭平三景親
上掲の「岩石城史」を見てみると、当城が築城されたのは、保元の乱が起こった翌年(2年)となる。この保元の乱後、西国では当国豊前を始め、西国の主だった国々の国司が新たに任命されている。管理人の当地出雲国では保元3年に平基親が、石見国ではその前年に藤原永範が、それぞれ出雲守、石見守に任命されている(「大日本史」)。
岩石城の築城者は平清盛とされているが、実際に築城したのは大庭平三景親とされている。ただ、景親が本格的に平家の家臣になったのは、保元の乱から3年経った平治の乱の時とされている。景親は従って、岩石城を築城した直後平治の乱に参陣しているので、当地に在城した時期は極めて短期的なものだったと推測される。
ところで、景親は相模国の武将で、鎌倉権五郎景政(出雲・生山城(島根県雲南市大東町上久野生山)参照)の流れを汲む大庭氏の一族である。
【写真左】美術館(模擬天守)内に展示されている甲冑
秋月種実と熊井久重・芥田悪六兵衛
上掲した「岩石城史」や、後段の「岩石城武将の碑」にもあるように、天正年間に至ると当城は秋月氏の勢力下に入る。秋月城(福岡県朝倉市秋月野鳥(秋月中学校)の稿でも紹介しているように、秋月氏は、建仁3年(1201)に鎌倉幕府2代将軍源頼家から秋月庄を賜った原田種雄が秋月氏を称したのに始まる。この原田氏は元は筑前を本拠としていた一族である。
戦国期における秋月氏の動きは、大友氏や毛利氏並びに島津氏らの盛衰に絡んで、甚だ目まぐるしいものがある。最終的には島津氏と連合し、九州征伐を目指した秀吉軍と抗戦し、敗れ去ることになる。
戦いの後、種実は我が娘と、名物茶器「楢柴茶入」及び、名刀「来国俊」を秀吉に差出し、降伏した。その後日向高鍋3万石に移封され慶長元年(1596)49歳で没した。
ところで、岩石城における秀吉軍との戦いで、秋月軍の主力として戦ったのが、熊井越中守久重と芥田悪六兵衛である。秀吉軍が岩石城に迫ったとき、島津軍は既に総退却していた。当初豊前・築後・肥後の国人領主のうち島津方に属していた者たちではあったが、15万という桁外れの大軍で攻めてきた秀吉軍の迫力に圧倒され、雪崩を打つように島津方から離反していったためである。それでも岩石城に拠った二人の勇将は最後まで戦った。
三沢為虎
なお、この戦いでは秀吉軍の毛利方先鋒として出雲国からは、三沢為虎が鉄砲隊として参加している。為虎は、天正10年(1582)の高松城攻めの頃より、秀吉に通じていたという流言があり、同12年、彼を始めとして、毛利氏(輝元)から内応の疑義をかけられていた山内隆通・三吉・久代諸氏は人質を出し、忠誠を誓っている。その際、為虎は亀嵩城の保持を願い、領内収攬に努めた。
因みに、秀吉の九州攻めが終わったこの年(天正15年:1587)の夏ごろより、輝元は出雲国を始めとし惣国検地を開始しているので、為虎は岩石城攻め(九州征伐)では、なおさら奮起したものと思われる。
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“岩石城武将の碑岩石城はこの模擬天守の向背の山に築かれている。
大庭平三景親
上掲の「岩石城史」を見てみると、当城が築城されたのは、保元の乱が起こった翌年(2年)となる。この保元の乱後、西国では当国豊前を始め、西国の主だった国々の国司が新たに任命されている。管理人の当地出雲国では保元3年に平基親が、石見国ではその前年に藤原永範が、それぞれ出雲守、石見守に任命されている(「大日本史」)。
岩石城の築城者は平清盛とされているが、実際に築城したのは大庭平三景親とされている。ただ、景親が本格的に平家の家臣になったのは、保元の乱から3年経った平治の乱の時とされている。景親は従って、岩石城を築城した直後平治の乱に参陣しているので、当地に在城した時期は極めて短期的なものだったと推測される。
ところで、景親は相模国の武将で、鎌倉権五郎景政(出雲・生山城(島根県雲南市大東町上久野生山)参照)の流れを汲む大庭氏の一族である。
【写真左】美術館(模擬天守)内に展示されている甲冑
秋月種実と熊井久重・芥田悪六兵衛
上掲した「岩石城史」や、後段の「岩石城武将の碑」にもあるように、天正年間に至ると当城は秋月氏の勢力下に入る。秋月城(福岡県朝倉市秋月野鳥(秋月中学校)の稿でも紹介しているように、秋月氏は、建仁3年(1201)に鎌倉幕府2代将軍源頼家から秋月庄を賜った原田種雄が秋月氏を称したのに始まる。この原田氏は元は筑前を本拠としていた一族である。
戦国期における秋月氏の動きは、大友氏や毛利氏並びに島津氏らの盛衰に絡んで、甚だ目まぐるしいものがある。最終的には島津氏と連合し、九州征伐を目指した秀吉軍と抗戦し、敗れ去ることになる。
戦いの後、種実は我が娘と、名物茶器「楢柴茶入」及び、名刀「来国俊」を秀吉に差出し、降伏した。その後日向高鍋3万石に移封され慶長元年(1596)49歳で没した。
ところで、岩石城における秀吉軍との戦いで、秋月軍の主力として戦ったのが、熊井越中守久重と芥田悪六兵衛である。秀吉軍が岩石城に迫ったとき、島津軍は既に総退却していた。当初豊前・築後・肥後の国人領主のうち島津方に属していた者たちではあったが、15万という桁外れの大軍で攻めてきた秀吉軍の迫力に圧倒され、雪崩を打つように島津方から離反していったためである。それでも岩石城に拠った二人の勇将は最後まで戦った。
三沢為虎
なお、この戦いでは秀吉軍の毛利方先鋒として出雲国からは、三沢為虎が鉄砲隊として参加している。為虎は、天正10年(1582)の高松城攻めの頃より、秀吉に通じていたという流言があり、同12年、彼を始めとして、毛利氏(輝元)から内応の疑義をかけられていた山内隆通・三吉・久代諸氏は人質を出し、忠誠を誓っている。その際、為虎は亀嵩城の保持を願い、領内収攬に努めた。
因みに、秀吉の九州攻めが終わったこの年(天正15年:1587)の夏ごろより、輝元は出雲国を始めとし惣国検地を開始しているので、為虎は岩石城攻め(九州征伐)では、なおさら奮起したものと思われる。
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現地に建立された石碑より
天正時代の岩石城は、古処山城の秋月氏の勢力下にあった秋月種実の時には、全盛期を迎え、24支城を支配し、36万石を領した。岩石城はその24支城の中で、最も堅固で自慢の城といわれていた。
天正15年(1587)4月1日、豊臣秀吉は、九州平定の要の戦として、島津・秋月連合の重要な砦である岩石城を15万の大軍を揃え攻めた。大手(芥田)、搦手(熊井)が守る3千の守備兵は、奮戦したが1日で破られ落城した。
熊井越中守久重は、秋月種実に命じられ、天正15年(1587)まで岩石城を守備した武将である。彼は種実旗下の最も有力な家臣である。勇猛果敢な兵士3千を抱えて、秀吉軍に抗戦し討死した。
芥田悪六兵衛は熊井越中守と共に、死守した武将である。「太宰管内誌上巻」には、天正10年(1582)の大友・秋月合戦の時、単身敵陣に乗り込み、並外れた気力と大力で、大友方の将・臼杵中務少輔の首をかき、秋月種実の命を救ったという武勇伝も伝わる。
【写真左】熊井越中守久重と芥田悪六兵衛の石碑
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一、熊井越中守久重の碑
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辞世 夜となく現に思う 蓮かな 砂水仙人写(裏面)
一、芥田悪六兵衛の碑
阿幾多「養老斎か」之墓(表面)自書
一鞭に飛びこへにけり 三途川
津美の 手綱に朋いざなひて 自書(裏面)
この碑は町内宮町の後藤家が、古くから管理されてきたものを添田町に委託され移転したものである。
添田町
平成15年(2003)9月吉日”