2016年1月31日日曜日

藤掛城・その2(島根県邑智郡邑南町木須田)

藤掛城(ふじかけじょう)・その2


●所在地 島根県邑智郡邑南町木須田
●別名 藤根城
●高さ 354m
●登城日 2015年10月3日、4日

◆解説(参考文献 『佐田町史』、『石見町誌』、「大宅姓高橋氏の時代から毛利氏へ」2015年10月13日、高橋氏660年記念事業 岸田裕之広島大名誉教授講演添付資料等)

高橋興光の墓

 藤掛城の西麓には、享禄2年(1529)5月2日、元就の謀略による高橋氏一族の鷲影城主であった盛光によって自害に追い込まれた藤掛城主・興光の墓が祀られている。
【写真左】高橋興光の墓・その1
 自然石を加工したもので、いつ頃建立されたものかわからないが、架台を含めた高さは2m近い規模のもの。

 


 興光の墓の場所は非常に分かりにくい所にある。これまで、藤掛城の登城も何度か試みるものの、道が分からず断念し、そのあとは興光の墓だけでも探し出そうとしたが、当時現地には案内を示すものなどがまったくないため、これも分からなかった。
 
 今回の「高橋氏660年記念事業」で地元の方々によって、要所に案内標識が設置されたことにより、登城と併せ念願の墓石をみつけることができた。
【写真左】常栄寺付近を見る。
 写真は藤掛城の東麓を示したもので、麓には常栄寺というすでに廃寺となった寺院がある。

 興光の墓はこの寺の裏側に南北に延びる小道があり、その道を南に向かったところにある。
 なお、常栄寺については後段でも触れる。
【写真左】興光墓に向かう
 本堂の北側に向かうと、ご覧の標識が設置されており、イノシシ除けの柵を開けて、そこから南に進む道がある。この道は地元の方の墓地にもつながっている。

 なお、写真の左側に常栄寺の本堂がある。
【写真左】麓から伸びる細い丘陵
 墓石の位置は、常念寺から南へ凡そ200m程度進んだ箇所になるが、丁度この右側が谷になっており、その対岸部を人工的に伸ばしたような丘陵部先端に祀られている。

 墓石の祀られている箇所の先端部からは、急傾斜で出羽川と接しているため、この箇所も対岸を扼す櫓的な機能を持たせた単独の郭だったかもしれない。
【写真左】高橋興光の墓・その2
 石碑には
「藤掛城主 高橋大九郎興光之墓 享禄2年5月2日
と刻まれてている。














常栄寺

 ところで、興光の墓に向かう位置には先ほど紹介した常栄寺がある。常栄寺という寺院は、吉田郡山城・その2でも紹介しているように、毛利元就の長男隆元の菩提寺で、毛利氏の居城・郡山城の一画に建立され、のちに防長移封後、山口に移っている。
【写真左】常栄寺本堂屋根にある家紋
 御存知の「一文字・三星」で、毛利氏の家紋である。




 藤掛城麓の常栄寺もそれに関わる寺院で、天正5年(1577)、郡山城時代の常栄寺にあった一人の僧がこの地に来住し庵を建て、38年後の元和元年(1615)、それまでの禅宗から浄土真宗に改宗し、山号を「郡要山」として布教につとめたという。
【写真左】本堂に設置された山号
「郡要山」の山号が掲げられている。










 なお、興光が自害した経緯は、前稿でも紹介しているが、これとは別に、2009年に投稿した口羽氏・その3 二つの軍原(いくさばら)でも取り上げているのでご覧いただきたい。

藤掛城周辺部

 さて、藤掛城の主だった遺構部は前稿で紹介しているが、当城から谷を隔てた南の尾根も少し紹介しておきたい。
【写真左】藤掛城の南側の尾根を進む。
 この写真でいえば、手前で左側に向かうと藤掛城に繋がる。
●登城日:2014年10月28日




 結論から言えば、いわゆる山城遺構としての明瞭なものは確認できなかった。しかし、この場所からさらに南西部に進むと、室町期高橋氏の一族とされる雪田民部少輔光理が領地していた雪田に繋がっていたので、当城の本丸南側の尾根にある堀切を介して、さらに南側尾根筋にも物見櫓的な遺構があったのかもしれない。
【写真左】長い尾根
 藤掛城のピーク(H:358m)からさらに尾根伝いに南進するとH:452mのピークがあるが、その途中にはまとまった長さの平坦な尾根がある。

 おそらく、こうした箇所は負け戦の際、逃走するためのルートとしても想定されていたのかもしれない。



賀茂神社

 藤掛城の東麓には阿須那の街並みがあるが、ここに賀茂神社が祀られている。現地に設置された説明板には創建時期が書かれていないため、分からないが、おそらく南北朝期と思われる。
 
 『石見誌』によれば、高橋氏が阿須那に入部する前、当地を支配していた出羽氏が建立したものとされている。その後、高橋氏の勢力が急激に拡大していき、藤掛城などの築城に繋がる。
【写真左】賀茂神社
 本殿および境内付近












当社には数種の文化財が残されている。
この中では棟札が3枚あり、それぞれ次のようなものである。

  • 「奉再興賀茂大明神社一宇 天文19年」   天文19年(1550)9月、毛利隆元と口羽通良が当社を再建したときのもの。
  • 「奉建立天神宮御賽殿一宇 弘治4年」  口羽通良が天神宮(天満宮)を建立した際の棟札。
  • 「奉諸願成就 八蓮壹本大宅朝臣 元亀4年」  天正元年(1573)11月、大宅(高橋)氏一統を鎮魂するため八注連神楽を奉納したときの棟札。

【写真左】高橋氏鎮魂の神楽置札(棟札)
 岸田名誉教授の講演会の会場ロビーに設置されていた写真だが、キャプションには、
興光憤死後40数年も経ってから、通良に霊祭を催させた阿須那の人々の心は、今も変わっていない
 と書かれている。

 それだけ当時から阿須那における高橋氏は、領民に慕われていたのだろう。


 口羽通良については、以前紹介したように、藤掛城から出羽川を下った江の川との合流地点にある口羽の琵琶甲城主で、高橋氏が滅んだあと、口羽・阿須那を治めた毛利氏の重鎮で、同氏四家老の一人といわれた信仰心の厚い武将である。

 この他の文化財としては、「板得著色神馬図 二面」があるが、現地の説明板では、永禄12年(1569)に大宅朝臣(高橋)就光が祈願成就のお礼として奉納した、と書かれている。しかし、高橋氏は前稿でも紹介したように享禄2年(1529)に興光を最期として事実上滅んでいるので、一見すると不可解に思える。

 しかし、石見高橋氏の嫡流は興光の自害で消滅しているが、貞光の時期(室町初期)に庶流が一時阿須那に下向し、その後益田氏に仕えているので、永禄12年に奉納したという高橋就光はこの系譜かもしれない。
【写真左】講演中の岸田裕之広島大学名誉教授
 2015年10月3日
 阿須那公民館








高橋氏の系図

 さて、高橋氏を取り上げる際、度々管理人は同氏の系譜・系図をその都度確認してきているが、諸説が多く、未だに不明瞭な点が多い。従って、了得していないものの、数種の史料を元にまとめてみると、同氏後半期の系譜上の流れは、おそらく下記のようなものではなかったかと推察される。

   師光 ⇒ 貞光 ⇒ 朝貞 ⇒ 久光 ⇒ 清光

と続き、この清光には、下記の4人の男子がいた。
  1. 元光
  2. 重光(弘厚) 平時の居城は、田所の本城で、属城としては松尾城(但し石見久喜の松尾城)
  3. 盛光  鷲影城主
  4. 家光
そして、重光(弘厚)の子に、興光と光吉の二人の男子がいた。

 重光(弘厚) → 興光
         → 光吉(幸松丸)

 以上のような繋がりではなかったかと考えられるが、これでもなお不確かな点があり、同氏系図については、まだ検討の余地がある。

 次稿では、興光を急襲した盛光が居城としていた鷲影城に関わる高橋氏の庶流などについて取り上げたい。