2015年12月9日水曜日

藤掛城・その1(島根県邑智郡邑南町木須田)

藤掛城(ふじかけじょう)・その1

●所在地 島根県邑智郡邑南町木須田
●別名 藤根城
●高さ 354m
●築城期 文和4・正平10念(1355年)ごろ(南北朝期)
●築城者 高橋師光
●城主 高橋氏(興光)
●廃城年 享禄3年(1530)ごろ
●遺構 郭(本丸・二の丸)、空堀、井戸、石塁、土壇
●登城日 2015年10月3日、4日

◆解説(参考文献 「大宅姓高橋氏の時代から毛利氏へ」2015年10月3日、高橋氏660年記念事業 岸田裕之広島大名誉教授講演添付資料等)

 藤掛城は石見と安芸の境に接する現在の島根県邑南町木須田に所在する山城で、石見・高橋氏が築城したものである。
【写真左】藤掛城遠望・その1
 東麓の阿須那公民館側から見たもの。
【写真左】藤掛城遠望・その2
 撮影日 2017年11月30日
東麓の阿須那の町並みから望む。
写真の通りは旧石見銀山街道。右に羽根尾山・賀茂神社。
 街道は奥でぐるっと右に旋回し、蛇行した出羽川に沿う。出羽川は藤掛城の濠の役目をしていたものと思われる。



 当城及び城主・高橋氏についてはこれまで琵琶甲城(びわこうじょう)・口羽氏 その1(島根県邑南町下口羽)壬生城(広島県北広島町壬生)別当城(島根県邑智郡邑南町和田下和田)生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)口羽氏・その3 二つの軍原(いくさばら)などで度々紹介してきた。

 今年(2015年)10月3日、当城の麓邑南町阿須那において、「高橋氏660年記念事業」が開催され、広島大学名誉教授岸田裕之氏の講演並びに、藤掛城登城のイベント企画があったため管理人も参加した。
【写真左】藤掛城の縄張図
 説明板に添えられたもので、上方が北を示す。
 左側に薄い線だが、登城道が表示されている。

 この図を元に、管理人が作図したのが下段の鳥瞰図である。
【写真左】藤掛城鳥瞰図
 上記縄張図を基に描いたもので、東側から鳥瞰しているため、西側の遺構については表示できないが、主だった遺構は描いたつもりである。
 当城の主だった構成は、最高所に南北に長い本丸があり、その中央部に土壇が設けられている。

 現在の登城道はこの絵図の裏側(西側)になるが、本丸の南西部に本丸の入口がある。また、本丸から北の二ノ丸へは凡そ8m程下った尾根筋に設けられ、その先の尾根筋にも二条の堀切や、櫓段が配置されている。
 この他、東側に下りた尾根筋には長郭(仮称)とされるおよそ長さ30m×幅8mの規模を持つ長い郭が突出している。


阿須那公民館側に設置されている説明板より

“藤掛城(藤根城)
 1355年(文和4・正平10)頃、岡山県高梁市の松山城に居た高橋九郎左衛門師光は、室町幕府の足利尊氏将軍から、石見、安芸の両国にまたがる3千貫の領地を与えられ、その本拠と定めたこの阿須那の地にやってきた。
【写真左】登城口
 講演後、凡そ40人前後の参加者の皆さんと藤掛城へ登城すべく、チャーターされたマイクロバスで裏側(西側)の谷にある登城口まで来る。
 藤掛城はこの写真の左側の山である。
 主催者側から簡単な説明を聞いた後、いよいよ登城開始。


 そして、反幕府方へついた石見の国人領主に対抗する最前線の拠城として、木須田の藤掛山に城を築いた。引き続き、大庭と戸河内境に聳え、眺望に優れた鷲影山に城を築き、更に、安芸、備後への連絡に適した、下口羽の高畑に砦を築いた。

 1361年(康安元・正平16)、師光は嫡男貞光を従え、出羽弾正左衛門尉実祐を二つ山城で討ち、出羽氏を君谷へ追放した。そして、この周辺へ勢力を拡大していった。
【写真左】案内板
 この日(2015年10月3日)のために、事前に実行委員会の方々によって道の整備や、案内板が設置されていた。




 1470年頃、大九郎久光は、毛利氏との間の不利な紛争の解決のため、引退して幼い命千代に家督を譲った。

 1476年(文明8)の命千代を護る重臣16人の契状から、
   東は三次市作木町森山の岡、西は北広島町の壬生、
   南は安芸高田市美土里町の横田、北は飯南町の井戸谷、
 という高橋氏の領域が推察できる。

 1508年(永正5)、大内義興に従い、足利義尹を推して京へ攻め上がった褒賞として、福岡県東部の三つの荘や、山口県柳井の荘を賜った。最盛期の所領は1万6千貫という。

【写真左】馬の水飲み場跡
説明板より

“藤掛城は南の山からの豊富な地下水に恵まれて、この高い所へ堤で池を造り、馬に水を飲ませていたという。北隣の谷には涸れることのない清水が湧いている。”




 1515年(永正12)、高橋民部少輔元光は三吉氏の属城の西入君の本亀城を攻め、楽勝の油断を突かれて討死した。驚いた大内義興は、家督を元光の子の治部少輔弘厚でなく、孫の大九郎興光に継がせることを勧めた。これが高橋氏の家中に内紛を招き、後年、毛利元就は、高橋弾正盛光に反間の計をめぐらした。
【写真左】本丸と長郭への分岐点
 後半はかなり急坂となった道を登っていくが、やがて尾根ピークに達する。

 この位置で、左(北)に進むと、本丸へ、右に進むと東斜面に独立して伸びる長郭へ向かう。
 また、尾根の反対側には二条の堀切がある。
先ずは、この尾根南に延びる堀切に向かう。
 

 1529年(享禄2)頃、鷲影城主の盛光は、興光の帰城を軍原に待伏せて襲いかかった。瞬時に達観した興光は、奮戦して多くの敵を倒しながら、傍らの巨岩に駆け上がり、高橋家の滅亡を予言、慨嘆しながら切腹して果てた。興光の首を届けた盛光が、毛利方に討たれたのは3日後と伝える。

  高橋氏660年記念事業2015年”
【写真左】二条の堀切
 分岐点からさほど遠くない南尾根に設置されたもので、手前の堀切がやや深い。
 なお、写真は講演会の時のものでなく、明くる日再び登城したときのものである。

 団体で登城した場合は、どうしても時間的に制限があり、踏査できない箇所があったため、改めて登城した(以降の写真は当日と翌日の2日間に渡って撮影したものである)。


石見・高橋氏

 説明板にもあるように、築城者である高橋氏は1355年(文和4・正平10)備中松山城(岡山県高梁市内山下)から高橋九郎左衛門師光が阿須那に下向してきたのに始まる。ただ、資料によっては、下向したのが観応2・正平6年(1351)というのもある。これについては後段でも言及しておきたい。
【写真左】長郭・その1
 二条の堀切を見た後、今度は尾根の東斜面を少し下がりながら行くと、独立した長い郭が見えてくる。
【写真左】長郭・その2
 先端部から西方を見る。長郭の軸線はほぼその上にある主郭の土壇(櫓)と重なるが、ここから直接主郭に向かうことは出来ない。かなり険しい切崖があるからである。
 尚現在郭周囲は雑木が繁茂しているため視界は良くないが、この位置からは口羽方面が見えるため、主として東方を扼する位置にある。



 師光の祖は元弘3年(1335)5月、六波羅を落とされた探題北条仲時らが遁れて、近江番場で自害した際、彼らと共に従軍していた高橋(大九郎佐衛門)光国である。光国は従って北条氏側であったが、もともと高師直・師泰兄弟(三隅城・その2(島根県浜田市三隅町三隅)参照)のいきのかかっていた人物である。
【写真左】蓮華寺にある北条仲時以下432名の墓石
 所在地 滋賀県米原市蓮華寺
 参拝日 2015年10月24日

 元弘3年(1333)5月9日、近江番場にて佐々木道誉(勝楽寺・勝楽寺城(滋賀県犬上郡甲良町正楽寺4)参照)らに追われ一族ら432人自刃。仲時享年28歳。
 この中に高橋光国も随臣し殉死した。中央の大きな墓が仲時で、光国の墓もこの墓石群の中にあるだろう。近江・蓮華寺(滋賀県米原市番場511)参照) 



 光国が北条氏と運命を共にしたとき、その子光義は備中松山城に残り、尊氏方に与し、その戦功によって感状も賜っている。光義には三人の男子があり、後の藤掛城主となる師光は次男といわれている。

 前述したように、高橋氏が高師直・師泰と深い関係をもっていた裏付けとなるのが、師光という名が示すように、おそらく師光の「師」は高兄弟の「師」から偏諱を受けていたと思われる点である。
【写真左】備中松山城
 所在地 岡山県高梁市







 そして、この石見・高橋氏の祖ともいえる師光が、当地(阿須那木須田)に下向したのは、通説では足利尊氏の命といわれているが、資料によっては、正平6年(1351)2月26日、摂津国で高師直・師泰兄弟が上杉能憲に殺害され、このため備中を追われ石見に下向してきたという説(『大和村誌 上巻』)があり、こちらの方がより事実に近いかもしれない。従って、このことから高橋氏の石見(阿須那)下向時期については、上述したように二説考えられる。
【写真左】本丸・その1
 本丸の入口は西南側にあるが、写真はその南端部から北方向を見たもので、奥には中央部に高くなった櫓(土壇)が見える。
 土壇から南方向に延びる郭の長さは凡そ25m前後ある。
 ここからさらに北に進む。



 さらには、生田・高橋城(広島県安芸高田市美土里町生田)でも触れているが、1361年(康安元・正平16)、師光は嫡男貞光を従え、出羽弾正左衛門尉実祐を二ツ山城(島根県邑南町鱒淵永明寺)で討ち、出羽氏を君谷へ追放しているが、この命を出したのは尊氏でなく、足利直冬といわれる。

 というのも、すでに足利尊氏は正平13年(1358)に死去しており、直冬が石見国でもっとも勢威を拡大している時期でもあったからである。因みに、二つ山城を陥落させた直後、師光は鱒淵(旧瑞穂町)に本城を築いている。
【写真左】本丸・その2 櫓(土壇)
 南北に延びる本丸のほぼ中央に設置されているもので、規模は東西幅10m×奥行2m×高さ2m前後のもの。
【写真左】本丸・その3
 櫓台から北側に延びる郭を見たもの。南側より若干長く、30m近くあるかもしれない。
【写真左】本丸・その4
 北側から櫓台を見る。
 なお、現在本丸からの眺望は周囲に雑木があるため、あまり期待できない。
 


高橋氏の領域

 上掲した説明板や、岸田裕之氏の講演でも紹介されていたが、1470年(文明2)ごろ、毛利氏との争いから、大九郎久光は、引退して幼い命千代に家督を譲り、その幼主を支えるべく、一族16名が笠連判状を残している。その内訳は次の通りである。

 岸田氏も述べているように、この名簿から分かることは、その姓名が殆ど当時各々が領地していた土地名を名乗っていたことから、この時期高橋氏が治めていた支配地域が確認できることである。具体的にこの名簿の右側にその地区を付記して置く(管理人による)。

石見国内(島根県)
  1. 雪田民部少輔 光理     邑智郡邑南町雪田
  2. 上出羽◇ 光教        邑智郡邑南町出羽
  3. 下出羽藤兵衛尉 光明     邑智郡邑南町出羽
  4. 口羽下野守 光慶       邑智郡邑南町上・下口羽
  5. 与次郎 清光          邑智郡邑南町阿須那与次郎山
  6. 長田備前守 光季      邑智郡邑南町上田長田市
  7. 井戸大膳助 光益     飯石郡飯南町井戸谷井戸(井戸城主か) ⇒北端(井戸は厳密には出雲国になるが、石見国との国境に当たる)
安芸国内(広島県)
  1. 山形河内◇ 光朝     北広島町の壬生   ⇒西端
  2. 重延大和守 光秀      安芸高田市美土里町横田重信
  3. 北越後守 光康       安芸高田市美土里町北 
  4. 横田常陸守 朝光      安芸高田市美土里町横田(松尾城主)  ⇒南端
  5. 生田右馬助 秀光      安芸高田市美土里町生田(生田・高橋城主か)
  6. 岡長門守 光基      三次市作木町森山の岡  ⇒東端
その他
  1. 山城守 光直           不明
  2. 繁安筑後守 光通          不明
  3. 新見◇後入道 浄鳳        不明
※ ◇印は判読困難

 上記のうち、下段の「その他」で示した三人の武将は、おそらく備中高梁時代から高橋氏を支えてきた譜代家臣と思われ、特に新見某などは、楪城(岡山県新見市上市)の新見氏の庶流と考えられる。
【写真左】二の丸・その1
 本丸北端から険しい切崖を下ると二の丸が控える。
 写真は、二の丸側から本丸の切崖をみたもので、伐採など整備はされていない。


 またこの連判状とは別に、以前紹介した面山城(広島県安芸高田市高宮町佐々部字志部府)の佐々部氏もまた高橋氏に仕えている。

 その時期は文明年間の久光時代よりもかなり遡った南北朝期と考えられ、芸石・高橋氏が尊氏派又は直冬派となって活躍していた段階ですでに麾下となっていた可能性もある。従って、文明年間ごろの高橋氏の支配領域は、東端部は佐々部氏領地(高宮)まで拡大していたと考えられる。
【写真左】二の丸・その2
 ご覧のように熊笹などが繁茂しているため、遺構の状況が明瞭でないが、尾根幅は次第に細くなるものの、長さは本丸の約半分程度ある。

 この先の尾根を下っていくと、一旦鞍部となった先に小郭群が連続し、櫓状の頂部があるようだが、藪コギのため断念した。


 次稿では、藤掛城周辺部、及び戦国期毛利氏の調略によって当城で自刃した城主高橋興光の墓などを紹介したいと思う。


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安芸・松尾城(広島県安芸高田市美土里町横田)