2015年10月31日土曜日

宇都宮氏館(福岡県築上郡築上町大字松丸字立屋敷)

宇都宮氏館(うつのみやしやかた)

●所在地 福岡県築上郡築上町大字松丸字立屋敷
●別名 城井取手屋敷・城井鎮房の隠居の宅
●形態 居館跡
●規模 150m×120m
●遺構 空堀・土塁・建物跡・柵列
●登城日 2014年10月18日

◆解説(参考資料 HP「ふるさと歴史発見-築上町」等)
 前稿大平城のある本庄から城井川をおよそ12キロほど下っていくと、次第に谷間が広がり、松丸という地区に入ると、ほぼ中央にこんもりとした丘が見える。これが後期宇都宮氏の居館跡とされている。
【写真左】宇都宮氏館跡遠望
 南側から見たもので、周囲は平坦になっているが、この箇所だけ独立した小丘となり、周囲は植林された樹木で囲われている。


貝原益軒

 元禄7年(1694)4月の初め、福岡藩主黒田家より命を受けた儒学者貝原益軒は、豊前・豊後国の史料調査に出かけた。

 同月6日、城井谷に入った益軒は、城井氏の菩提寺「天徳寺」方面に向かうが、その手前の谷間に差し掛かり、

 「松丸村の上、道東の側に城井鎮房が隠居の宅にせんとて構えたるところあり、方六十間ばかり、まわりに小土手つき、から掘あり。されど爰にはいまだ住せず。一説には此の処も城井が取出の塞なりと云う。

  と『豊国紀行』に記している。これがおそらく今稿の「宇都宮氏館」といわれた箇所であろうといわれている。
【写真左】南側から向かう。
 同氏館跡とされる区域はほぼ民有地となっており、「関係者以外立ち入り禁止」の札がたっていたため、とりあえず、その外側の道を進む。
【写真左】土塁か
 南側一部は墓地になっており、しかもその周囲は雑草に覆われていて遺構の確認が困難だが、右側は土塁のような高まりが残る。
【写真左】これも土塁のような
 館跡の周囲は植林され、しかも私有地であるため、これ以上踏み込めなかったが、中の殆どは畑地となっている。
 耕作地となっていることから屋敷跡として残っていたであろう建物の礎石などはおそらくほとんどないと思われる。
【写真左】遠望
 東側から見たもので、屋敷跡地のみ小高い丘となっている。
【写真左】宇都宮氏館跡から城井谷上流部を見る。
 細長い城井谷だが、館跡から南に遡ると、大平城、城井ノ上城などがこの写真の奥に控える。
【写真左】宇都宮氏館跡位置図
 左が北を示す。

 宇都宮氏館跡からさらにおよそ4キロほど登った所には宇都宮氏の菩提寺天徳寺がある。当院については次稿で紹介したい。



岩戸見神社と熊谷氏

 宇都宮氏館跡の近くには岩戸見神社が祀られている。当社は宇都宮氏が関東より勧請したといわれので、鎌倉初期に創建されたものだろう。
【写真左】岩戸見神社の鳥居













 のちに城井谷11カ村の氏神と定め、祭礼に神楽が奉納された。
 城井谷には少なくない神楽団が存在しているが、特に当社に残る「伝法寺岩戸神楽」は町の指定無形民俗文化財とされている。

 きっかけは明治7年に当社宮司熊谷房重氏が地元氏子に伝授したたといわれている。

 ところで、この伝授した宮司熊谷氏の名前から想像するに、同町の宇留津城(福岡県築上郡築上町大字宇留津)に残る須佐神社が、管理人の住む出雲の高櫓城跡(島根県出雲市佐田町反辺慶正)で紹介した熊谷氏と関係があるのではないかと指摘したが、この岩戸見神社の宮司も熊谷氏を名乗っていることを考えると、やはり豊前宇都宮氏が滅んだあと、毛利氏麾下であった熊谷氏の一部が神官として当地に残ったのではないかと思わざるを得ない。

【写真左】正光寺と岩戸見神社の案内・石柱

2015年10月27日火曜日

大平城(福岡県築上郡築上町大字寒田)

大平城(おおひらじょう)

●所在地 福岡県築上郡築上町大字寒田
●高さ 480m(比高250m)
●築城期  不明
●築城者 宇都宮氏(城井氏)
●城主 宇都宮氏
●遺構 郭・土塁等
●登城日 2014年10月19日

◆解説(参考サイト『築上町歴史散歩HP』、『肥後国衆一揆』荒木栄司著等)
 大平城は前稿城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)からおよそ4キロほど北東に向かった位置に所在する。
【写真左】大平城遠望
 登城口付近に設置された説明板に添付された写真で、北側から見たもの。

 写真の右側に向かうと城井ノ上城に繋がる。
 なお、大平城の東方には「求菩提(くぼて)山(標高782m)」が聳えているが、この山も英彦山と同じく、往古修験道の山として知られ、福岡・大分の県境に位置する。


 
現地の説明板より

“大平城址(おひらじょうし)

 天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州国分けで豊前六郡は黒田孝高に与えられ、城井重房は伊予国転封を命ぜられた。しかし鎮房はこれに従わず、一時は赤郷柿原(あかごうかきばる)に身を寄せたが、大村助右衛門からここ大平城を奪還し、黒田氏に反乱をおこした。

 ここは越崎平(えっさきべら)といい、本丸、二ノ丸、馬場を備えた宇都宮後期の山城で、城台、石蔵、水の手などの地名が残る。
  築城町・築城町教育委員会”
【写真左】大平城縄張図
 大平城は全周囲が切り立つ形の山に構築されている。

 小規模な山城だが、主郭付近とは別に南側にも頂部が控えているが、この箇所も櫓的な機能を有していたのかもしれない。


秀吉島津征伐宇都宮氏

 秀吉が九州征伐を行った際、宇都宮氏は秀吉に対し積極的な態度を示していない。それまで宇都宮氏は大友氏に属していたが、大友氏の衰退によって同氏を離れ、敵対していた島津氏に秋月氏らとともについていた。

 その後、秀吉の圧倒的な大軍を率いて九州に入ってくると、秋月氏は直ちに秀吉に恭順を示した。宇都宮氏も一応与同の態度を示したが、鎮房自身は病気を理由に息子朝房を代理に立てて、わずかな兵を出したにすぎなかった。
【写真左】登城口
 大平城を囲むように県道「犀川豊前線」が走っているが、この道は急坂急カーブが多く、この日東側の豊前市から来たため、登城口を見過ごしてしまい、途中でUターンしてたどり着いた。

 ここから登り始めるが、しょっぱなから急傾斜の直登となる。



 天正15年(1587)5月8日、島津義久は剃髪して秀吉に降伏した。1ヶ月後の6月7日、秀吉は筑前筥崎(福岡市)で、諸将を集め、九州諸大名の封域を定めた。これがいわゆる九州国分けである。
【写真左】眼下に犀川豊前線を見る
 登城途中、眼下に犀川豊前線が見える。









 この九州国分けによって豊前六郡は黒田官兵衛に与えられ、鎮房はそれによって押し出された形となった。

 その結果、鎮房に対して発給された朱印状には伊予に転封という断が記された。その内容は、驚くことに今治で12万石と伝えられている。転封とはいえ破格の加増石高である。
 このため、別の説では伊予でなく、同じ九州の上筑後に200町というものがあるが、常識的にみればこちら(後者)の方が事実だろう。しかし、どちらにしても鎮房はこれを拒んだ。
【写真左】東側の郭段
 尾根筋を直登していくと、やがて傾斜は緩くなり、東側尾根に配置された郭段が見えだす。

 ここから主郭までおよそ100mほどの距離になるが、尾根幅はさほど変化はなく、このまま主郭に向かう。


 宇都宮氏にとって、豊前は鎌倉時代から400年もの長い間営々と築き上げた土地である。名族としての誇りもあったのだろう。

 秀吉から嫡男朝房宛てに発給されたこの朱印状を鎮房は突き返した。このため、秀吉の逆鱗に触れることなり、宇都宮氏一族の処遇は宙に浮いたままになった。
【写真左】切崖
 これも東側郭段の途中から見たもので、尾根の北側は険阻な傾斜となっている。








佐々成政検地肥後国衆

 ところで、宇都宮氏に発給された秀吉による朱印状は、同氏だけでなく、他の在地国人領主たちに対しても行われている。その内容は、九州征伐の際、秀吉に途中から協力した者も含め、概ねその石高は減じられたものの、旧来の領地の安堵を保証したものだったといわれている。

 特に、肥後国については、この朱印状は島津氏討伐を急ぐあまり、その通過点である当地の国衆(国人領主等)に対しては、無用な混乱を避けるため発給されたものだった。
【写真左】東尾根郭群の一段下がった箇所
 東尾根の郭群は尾根軸線とは別に、南側の方にも細長い郭が付属している。

 因みに、この尾根と西側の尾根に囲まれた谷はやや緩やかな傾斜となっている。


 肥後国は秀吉が九州討伐に入る直前に、島津氏が占領下に置いていたが、もともとこの地域は一人の戦国大名による統治ではなく、50から60前後の中小の地侍的な国人が地域ごとに独自に治めていた。

 そのため、彼らは島津氏が秀吉に降服した段階でも、件の朱印状によって所領安堵されたものと理解していた。
【写真左】主郭
 三方の尾根が交差する位置に構築されているが、全体に西方向の尾根にシフトして延びている。

 長径50m×短径20mの規模
 ここから先ず西の尾根に延びる郭群に向かう。


 天正15年(1587)秀吉の国分けが終わった6月末、秀吉の命を受けた佐々成政が隈本城に入った。

 肥後国に佐々成政が赴いたのは、前述したように中小の国衆が治めている状況を整理し、最終的には地主的役割をもった彼ら国衆を廃止する目的があった。さらには肥後国衆たちは、成政の家臣として仕えなければならないという計画があったとされている。
 
 そして、肥後国衆の廃止の先には、「本百姓体制」という制度が描かれ、これらを具体的にならしめるために行われたのが「代官」佐々成政による検地だった。いわずもがな、この検地は秀吉の「太閤検地」のいわば九州版ともいえるものである。
【写真左】西尾根の郭群
 主郭から西に降っていくと、次第に尾根幅が狭くなるが、長さ約50mほどの郭が連なる。

 写真は、西端部から主郭を見上げたもの。


肥後国衆反乱宇都宮氏

 秀吉によるこうした検地の内容が次第に分かるにつれ、肥後国の国衆たちに不安と動揺が広がった。
 そして、先祖代々受け継いできた国衆たちにとって、土地を手放さざるを得ない状況が分かりかけると、一気にその不満は成政に向けられた。この年の8月に既に一部地域で武装蜂起があったとされるから、成政入国からわずか2か月の間に起きたことになる。
【写真左】土塁
 西尾根郭群には北側に高さ約2mほどの土塁が残る。

 北側(道路側)は大分崩落しているが、主郭西端部を始点として約30mほどの長さの規模を持つ。


 さて、この年(天正15年)こうした肥後国による反乱が勃発してから約2か月後の10月、豊前宇都宮鎮房らは前稿でも述べたように、転封による不服を動機として蜂起している。

 宇都宮氏らのこうした反乱も、上述したような肥後国衆らの蜂起がきっかけの一つとも言われている。
【写真左】南側の郭段
 東西尾根の郭群に比べて、南側の方は3,4段の小さな郭があるのみで、長さは30m弱と短い。






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2015年10月13日火曜日

城井ノ上城(福岡県築上郡築上町大字寒田)

城井ノ上城(きいのこじょう)

●所在地 福岡県築上郡築上町大字寒田
●別名 萱切城・茅切城・城井郷城
●築城期 鎌倉時代~南北朝期
●築城者 宇都宮(城井)氏
●城主 宇都宮氏
●高さ 標高500~700m前後
●遺構 表門・裏門・三丁弓ノ岩等
●登城日 2014年11月18~19日

◆解説(参考資料 築上町歴史散歩HP、サイト『城郭放浪記』等)
 城井ノ上城を訪れたのは昨年の11月である。きっかけはこの年大河ドラマ「軍師官兵衛」が放映され、当城の紹介があったことからだが、その後当城をアップする時宜を失い、気が付いたら約1年近くも経ってしまった。
【写真左】城井ノ上城遠望
 北麓を走る犀川豊前線から見たもの。

 







現地の説明板より

“宇都宮氏城井ノ上城址

 天正15年(1587)、宇都宮(城井)鎮房と嫡男朝房は、豊臣秀吉の九州統一(島津氏攻め)に協力した。しかし九州国分けでは鎌倉時代より豊前の国を治めた宇都宮氏一族の領地の豊前6郡は、黒田官兵衛孝高の所領となり、鎮房は転封を命ぜられた。
【写真左】城井ノ上城案内図
 城井川中流域には、宇都宮氏菩提寺とされる天徳寺があるが、この場所に「築上町観光散策マップ」が掲示されている。

 城井ノ上城は同町最南端の位置にあって、東西に連なる1000m級の切り立つ山並みを超えると、景勝地・耶馬渓(大分県中津市)や、日本三大修験山の一つ「英彦山(ひこさん)」に繋がる。


 これを不服とした鎮房と下毛郡の野仲鎮兼を筆頭とした宇都宮氏一族は、各地で黒田氏に蜂起したが、次々と鎮圧されていった。鎮房は寒田(さわだ)大平城(ここから北東3kmの山頂)を拠点とし、ここ城井ノ上城を籠城所として最後まで抵抗したが、ついに和睦した。

 しかし、天正16年4月20日、黒田長政は鎮房を中津城で謀殺し、朝房も肥後で殺され、豊前宇都宮氏400年の歴史は幕を閉じた。
【写真左】三丁弓の岩
 登城口に向かう前の場所にあって、「射手三名おれば敵一兵も通さず」ということから名づけられたという。
 登城口(城戸)はこの先にあるから、その手前の外備という。

 岩壁には数か所の穴があり、そこに隠れて敵を待ち伏せしたともいわれている。




 下の絵図に描かれるように、城井ノ上城は周囲を岸壁に囲まれた地形で、自然の岩の表門と裏門があり、隠れ城と呼ばれる。貝原益軒の『豊国紀行(ほうこくきこう)』には、「このかう屋敷は城井氏が敵をのがれてたてこもる所なり」と書かれる。
【写真左】絵図
 説明板に添付してある絵図で、『城井谷峡図』天保13年(1842)大倉種周(たねちか)(国立公文書館蔵)とある。

 三丁弓の岩は、ここを防ぐに三丁の弓だけで足りたことに因んで呼ばれる。”
【写真左】「宇都宮鎮房役に村田雄浩さん」の看板
 麓には大河ドラマ「軍師 官兵衛」に出演した城井ノ上城主・宇都宮鎮房役が村田雄浩(たけひろ)さんに決定したという看板が設置されていた。

 俳優・村田雄浩さんは、コミカルな役が多いが、管理人としては前からこの人は時代劇、特に侍・武士の役が一番似合う役者さんだと思っていた。もっと時代劇に出て重厚な演技を見せてほしいものだ。


豊前宇都宮氏

 宇都宮氏の本貫地はその名が示すように、宇都宮市のある下野国、すなわち現在の栃木県といわれている。豊前宇都宮氏の租となる信房は平安末期、朝廷(京都)に仕え中原氏を名乗っていたという。

 中原氏といえば、以前とりあげた石見国の松山城(島根県江津市)の築城者である川上孫二郎が、近江国から川上荘の地頭として着任する前、藤原氏後裔の中原房隆を名乗っていたので、あるいは同族であったかもしれない。
【写真左】登城口
 大河ドラマの影響もあって、この日も10人近くの人が訪れていた。
 登城口付近には「慈母観音堂」及び「水子地蔵尊堂」という御堂が祀られており、そこに数台の駐車できるスペースが設けられている。

 この位置から城井ノ上城中心部まで約15分で、裏門までは40分の距離である。


 さて、同氏については 馬ヶ岳城(福岡県行橋市大字津積字馬ヶ岳)の稿でも簡単な紹介をしているが、豊前国に入った信房が最初に本拠としたのが木井馬場である。木井馬場は現在の京都郡みやこ町の犀川(さいがわ)木井馬場附近で、この地区には信房が最初に築いたといわれる神楽城や毘沙門城(サイト『城郭放浪記』参照)などが残る。因みにこの地域は往古豊前国府政庁がおかれた場所でもある。
【写真左】表門
 城井ノ上城は一般的な山城とは大分様子が違う。

 とにかく巨大な岩塊や絶壁、細長い渓流などで構成されている。
 人工的に手が加えられた箇所もあるかもしれないが、基本的に自然の地形をそのまま要害の施設として利用している。

 このように、特異な山城を本拠とした宇都宮氏一族は、丁度四国山脈に本拠を持った田尾城(徳島県三好市山城町岩戸)の脇屋・小笠原氏などのような山岳武士としての特性をもっていたものと思われる。


 信房から数えて5代目となる頼房となった南北朝時代になると、本拠地は東隣の築城町本庄に移した。このころ宇都宮氏は土着し城井氏を名乗るようになる。

 他の一族がそうであったように、南北朝期は宇都宮氏も武家方と宮方(南朝)に分かれて対立をしたという。しかし、頼房がその混乱を収拾し、豊前各地に野仲氏、山田氏、西郷氏、友枝氏、佐田氏などといった庶流が根を下ろすことになる。その後、7代冬綱の代になると勢威は衰えるものの、周防の大内氏に属し、豊後の大友氏などの幕下になりながらもその同氏の存続を保持していった。
【写真左】もう一つの門
 表門から本丸に向かう途中にもこのような左右の巨石で囲まれた門があった。
 特に名称はついていないが、この左右の石はひょっととして宇都宮氏一族がこの位置に設置したものかもしれない。


秀吉の九州征伐

 戦国時代になると、九州は大友氏と島津氏の激しい勢力争いが始まり、宇都宮氏は否応なしにこの中に巻き込まれ、勢力を失っていった。そして、秀吉による九州征伐が始まる前、九州の版図は島津氏の台頭によって大きく変わり始め、豊前宇都宮氏はそれまで大友氏の傘下であったが、大友氏の弱体化によって、島津氏へ鞍替えした。

 しかし、秀吉の九州征伐が始まると、宇都宮鎮房・朝房父子は島津攻めに協力した。ところが、説明板にもあるように、その後の秀吉による処置は鎮房父子にとって耐えがたいものがあり、一族は各地で蜂起することになる。
【写真左】「城井ノ上城跡」の看板
 この位置が主郭と思われる箇所だが、一般的な山城のような削平された平坦地ではなく、広い谷間の一角となっている。

 説明板より
“城井ノ上城跡
 周囲を岸壁に囲まれた谷で、隠れ城と伝えられる。『豊国紀行』『城井谷絵図』では「キノカウ家鋪 城井タテコモル」と記述されている。さらに奥へ行くと、表門と同様に岩が開口している裏門がある。”
【写真左】さらに奥に進む
 次第に傾斜はきつくなり、足元はガレバ然として歩きにくい。
【写真左】裏門・その1
 ゴロゴロとした石の上を登っていくと、突然右側から明るい陽射しが照らしてきた。上を見上げると、広島県の帝釈峡にある雄橋(おんばし)のような岩の橋が見える。これが裏門だ。
【写真左】番人の穴
 裏門に向かう途中の左側の岩には大きな穴がある。「番人の穴」という。確かに人一人が入れる大きさだ。
 ここで敵の監視をしていたということなのだろう。

【写真左】裏門・その2
 両側の崖ともほぼ垂直な絶壁だが、右側の崖には多少の段がある。







鎖の改修工事

 さて、裏門に向かうには右側の絶壁をよじ登らなくてはならない。いつも手にしている杖はじゃまになるので、ここで置いていく。家内は怖くてとても登る自信はないからここで待っているという。鎖があるから大丈夫だというが、それでも納得しない。

 そんなやり取りをしていると、上の絶壁の中腹から子供の声がする。見ると、大人の男性二人と子供一人が楽しそうに狭い踊り場で昼食をとっている。
 我々の会話が聞こえてきたらしく、「今新しい鎖をつけたから、奥さん大丈夫だよ。あがってきなさい。」という。
【写真左】更新された鎖とポール
 中段の踊り場から下を見たもので、ステンレス製の四角いポールをアンカーで岩場に固定し、その間を鎖で繋いでいる。
 工事用の発電機は下に置いているが、これもここまで人力で背負って運んできている。


 彼らは地元の方で、この城井ノ上城の登城コースなどを整備している人たちだった。しかも、子供は小学校の1,2年生の男の子で、もう一人の男性がその父親だという。
 家内はあんな小さな子でもあそこに登っているということに驚いたらしく、また登らないと、せっかく整備された方に申し訳ないと思ったのか、意を決して私の後に続いた。

 中腹で待っている三人の所までたどり着くと、新しく設置した鎖は先ほど終わったばかりで、最初の利用者があなた達だという。上から見ていて、どうやら施工に問題がなかったので、これで竣工検査は合格です、と笑顔混じりにいわれた。

 家内もここまで登ってきたので、一安心し皆さんと暫く談笑した。なんでも、大河ドラマのおかげで、今年に入って急に登城者が増えたため、以前設置していた古い鎖やアンカーボルトなどを更新している最中だという。当城に登城できるのも、こうした地元の方々の地道な活動があるからである。感謝である。


 このあと、さらに上に向かい裏門の下に向かう。
【写真左】裏門の真下
 「根上の榊」としるされた木が立っている。
【写真左】裏門を見上げる。
 高さは7,8m位あるだろうか。
【写真左】反対側から見上げる
 裏門はいわゆるトンネル状となっているが、左右に延びる尾根はそもそも狭いので、すぐに裏側の谷に向かって傾斜している。
 体力に自信のある方は、この反対側から回り込んで、裏門の上部になる橋の上まで登るという。
 とりあえず向かってみる。
【写真左】裏門の橋上部
 手前まで向かったが、下以上に橋(尾根)幅が狭く、表面は突起した岩の塊で、とても歩く勇気はなく断念した。
 写真の下に門(穴)がある。



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2015年10月7日水曜日

愛犬・チャチャ丸嬢の旅立ち

 唐突ながら、管理人の登城同伴犬だったチャチャ丸嬢の悲報をお知らせします。

♀ 愛犬チャチャ丸嬢の旅立ち

 18年前、彼女は我家にぬいぐるみのような姿でやってきた。そして、手のひらにも乗るほど小さく、お尻には付け足しのような2,3センチ程度のシッポがついていた。

 特別な血統書付の犬でもなく、きちっとしたしつけができなかった飼い主のせいか、これといった芸もなく、ただただ家族の顔を見れば、しっぽをせわしなく動かし、一緒に遊んでほしいとせがんでいたごくごく普通のミックス犬だった。
【写真左】美作の山城登城にて
 2009年8月

 水に浸かることが好きでなかったが、この日の美作での登城は猛暑であったため、自ら渓流に足を踏み入れ、涼を求めた。






 管理人が山城に興味を持ったのはずいぶん前からだが、実際に登城し始めたのは、彼女が4,5歳になるころである。

 山城登城を彼女と一緒に行う前、最初にしなければならないのが、現地に行くまでの自動車に慣れることだった。

 初めて彼女を車に乗せたとき、わずか2キロほどの行程だったが、さすがに勝手が違ったのか、車に酔ってしまい嘔吐してしまった。しかし、2回目からは全くそんなそぶりも見せず、このときからドライブが彼女の楽しみの一つになった。その後、長距離ドライブを兼ねた山城登城の旅が彼女とともに始まることになる。
【写真左】2006年1月 東郷湖(鳥取県)にて












 当方は専ら飲み物や食べ物、資料などをいれたリュックを背負い、首にはデジカメ・磁石などをかけ、家内はリードをつけて彼女と歩くのだが、最初の頃は若かったせいか、度々登城道コースから逸れて、随分と世話を焼かせた。山城登城の道といっても山道である、当然彼女の嗅覚には獣の匂いがプンプンしていたのだろう。むべなるかな、である。
【写真左】近くの神社へ初詣
 2005年正月

















 それでも登りのときは中型犬としては大変な馬力で(いや、犬力で)、家内をぐいぐい引っ張ってくれた。おかげで登城の場合はとても楽をするのだが、下山は大変だった。

 せっかく整備された九十九折の道でも、彼女にとってはそのコースは意味をなさない。とにかく「直滑降」で降っていく。当然下山のときの彼女のリードは管理人の担当になった。

 比高が余りない山城は、本丸に辿りついてからさほど長い休憩などはしないが、2時間近くもかかるような山城となると、さすがにこちらも本丸にたどり着くと、飲み物やちょっとした食事も口にすることがある。最初のころそんな山城登城で、一度彼女にもおやつを与えたところ、狂喜乱舞となった。

 それからはこのことが完全に彼女の頭の中にインプットされた。その後、山城登城は彼女にとって、本丸にたどり着けば、大好きなおやつが頂けるという楽しみからか、一段と登城スピードが速くなったように思う。
【写真左】日向ぼっこ
 2008年5月













 晩年はさすがに弱ったため、同伴登城はせず車の中で休ませていたが、振り返ってみれば、彼女との登城数は600か所を超えるだろう。藪コギ、ガレバといったおよそ犬の散歩道とは程遠い場所を愚痴の一つも言わず(いえないが…)、付き合ってくれた。

 見晴らしのいい本丸で腰をおろし、となりでは彼女の「ハー、ハー」という息遣いを聞きながら、眼下に広がる景色を随分と見させてもらった。
【写真左】後部座席の後ろから
 2007年8月

















 彼女が急激に弱ったのは、このひと月ほどである。自力で中々立つことができず、前足で踏ん張ろうとすると、ハの字に両足が開き、すぐにうつぶせ状態に戻る。夜になると長い間泣き続けた。

 2週間前からは全く食がとれなくなり、殆ど横臥のままになった。10月6日の夜10時、家内が様子を見にいったところ、すでに息は切れていた。彼女の18歳となる誕生日まであと1ヶ月というところだった。人間でいえば、90~100歳前後の年齢になるという。大往生である。

 永い眠りについた彼女を行きつけの動物病院につれていき、旅立ちの手続きをお願いした。殆ど病気などしたことはないが、定期的な予防注射や、以前飼っていた猫のお世話をお願いしていたこともあり、先生はよく覚えていたらしく、「この子は、本当に長生きしましたね。」と声をかけていただいた。
【写真左】花に包まれて旅立つ
 2015年10月6日









 彼女と一緒の時を過ごせたことは我々夫婦にとって、成人した二人の息子と同じく、家族の一人としての思い出ともなった。

 楽しい思い出をありがとう ―― チャチャ――

                                    合掌

2015年10月1日木曜日

下高城(広島県東広島市河内町宇山)

下高城(しもたかじょう)

●所在地 広島県東広島市河内町戸野祖利
●高さ 300m(比高90m)
●築城期 南北朝期か
●築城者 不明
●城主 上山氏か
●遺構 郭・竪堀等
●登城日 2014年5月8日

◆解説
 下高城は、前稿で紹介した安芸・障子嶽城(広島県東広島市河内町宇山)のおそらく支城と思われる城砦で、所在地は同稿で添付した地図にもあるように、障子ヶ岳城の南方約1キロの沼田川を眼下に見下ろす位置に築かれている。
【写真左】下高城遠望
 写真下は沼田川で、瀬野川福富本郷線(県道33号線)の脇に架かる橋から見たもので、西方から撮影している。
【写真左】沼田川
 右側が北を示し、下高城方面になる。なお、この川をさらに遡っていくと、福富町に至り、川は南から造賀川が、北は河内川(沼田川)に分岐する。


 また、同図でも記されているように、下高城よりさらに南に500mほど沼田川に近づく位置には、狐城という城砦も記されている。

 なお、同図には示されていないが、狐城とは別に沼田川から約700m程北進した位置に、飛戸城という城砦や、沼田川対岸の南側に山根城という城砦も現地の案内板にあったが具体的にどの山なのか確認できなかった。
【写真左】山根城か
 下高城に向かう前、上記の写真に見える橋を越えた南側に小規模な山が連なっているが、そのうち西側の川に最も接近した山が山根城と思われる。
【写真左】下高城・飛戸城に向かう道
 写真右側の道が沼田川と並行して流れる瀬野川福富本郷線で、矢印の方向へ下っていくと、小早川氏の居城高山城・新高山城に向かう。
 下高城はこの分岐点から北に分かれる枝線を進む。
【写真左】下高城登城口
 先ほどの道路を進んで行くと、左側に小さな案内板が設置してある。
 この箇所から登る。なお、この道路は当時堀切若しくは切通しのような形態であったと考えられる。
 駐車スペースはこの場所では幅員が狭いため確保できない。このため、少し進んだ峠当たりの空き地に停める。
【写真左】堀切
 現地はあまり手入れされていないため、写真では分かりづらいが、最初に小規模な堀切が見える。
【写真左】主郭の切崖
 北側から見たもので、登城するにはこの右側にある道を登っていく。
 なお、この写真の右側には数段で構成された郭が繋がっている。
【写真左】主郭に向かう。
 主郭はこの写真の左側にあり、この道はいわゆる犬走りになるのだろう。
【写真左】尾根にたどり着く
 写真は主郭方向と反対側の南側を見たもので、傾斜はあるものの削平された郭。
 この尾根を下がっていくと沼田川に出会う。
【写真左】主郭方面を見る。
 上の写真とは反対に、尾根上部に構成された郭段と先端部にある主郭がかすかに見える。
 当然ながら主郭に向かうにつれて尾根幅は狭くなっていく。
 この位置からも3段程度の郭段となっていることが分かる。
【写真左】主郭・その1
 「平成10年3月建立」と書かれた標柱が建っている。
 なお、標柱が建っている箇所は小規模ながら土塁のようになっているが、実際は櫓の役割をしていたのではないかと思われる。
【写真左】主郭・その2
 「下高城跡」と記されている。
【写真左】土塁
 主郭附近を一通り見終わったあと、再び下の段にもどり、西側に広がる削平地にはご覧のような明瞭な土塁が残っている。

 主郭を中心とした尾根の東側は急峻だが、西側はやや甘い傾斜のためか、こうした土塁が構築されたのだろう。


狐城

 なお冒頭でも紹介している狐城は、当城から南に約400m程下がったところに配されているが、おそらく当城は下高城と対となった城砦と考えられ、麓の沼田川周辺部における変事の際、相互に連絡し、上山氏の居城・田屋城や障子ヶ岳城へ伝達する役目を担っていたのではないかと考えられる。