2015年6月25日木曜日

源頼政の墓(兵庫県西脇市高松町長明寺)

源頼政(みなもとのよりまさのはか)

●所在地 兵庫県西脇市高松町長明寺
●長命寺開基 法道仙人
●探訪日 2014年11月22日

◆解説(参考文献 西脇市HPなど)
 前稿金鑵城の東を流れる加古川を遡っていくと、黒田官兵衛の生誕地黒田庄にたどり着くが、その手前の高松町には古刹長明寺が建立されている。
 当院の境内奥には、摂津源氏の源仲政の長男で、後に平家の政権下で唯一源氏の長老として活躍した源頼政の墓が祀られている。
【写真左】源頼政の墓・その1
 長明寺周辺は「頼政公ゆかりの里」として整備されている。
 墓所は長明寺本堂の裏の坂を上っていくと、ご覧の木立に囲まれたところに建立されている。

 なお、頼政の墓として一般に知られるのは、後段でも紹介するように、討死した宇治川の畔にある宇治平等院に建立されているものである。



現地の石碑より

“鵺(ぬえ)退治の由来
 仁平3年夏、近衛天皇は奇病になやまされておりました。深夜になると黒雲が御所をおおい、鵺の鳴き声が聞こえて、その度に天皇は苦しまれた。薬も名僧たちの祈願も効なく、やがて雲の中に住む妖怪のしわざと考え、弓の名手源頼政に妖怪退治が命じられた。
 きっと見上げた頼政は力一ぱい弓をひき「南無八幡大菩薩」と心の弓に祈念して矢をはなつと見事命中、落ちてきた怪物を家臣の者の早太が刺し殺した。火をともして見ると、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、恐ろしいという以上である。天皇は感心され獅子王という名剣を下された。
    (平家物語から)
   高松町郷土史研究会”
【写真左】「頼政公ゆかりの里」案内図
 文字が小さいため分かりづらいが、源頼政の墓はほぼ中央に描かれ、その下に長明寺などが記されている。
 なお、この場所から東に聳える愛宕山などは、「清水東条湖県立自然公園」が隣接している。



【写真左】参道
 南側に駐車場があり、そこに車を停めて先ずは長明寺に向かう。
 







源義家の東国支配

 源頼政の話に入る前に、ここで源氏について改めて概説しておきたい。
 源氏は清和天皇(850~881年)の流れを汲み、清和源氏とも呼ばれているが、源満仲の代に三人の男子(頼光・頼信・頼親)があり、
  • 頼光 ⇒ 摂津源氏
  • 頼信 ⇒ 河内源氏
  • 頼親 ⇒ 大和源氏
にそれぞれ分かれたとされる。

 頼政はその中の摂津源氏の系譜に繋がる。また、後に源氏棟梁となった八幡太郎義家や頼朝などは河内源氏である。いずれもその名が示すように、当時の清和(天皇)源氏が居た地域は、畿内(河内・摂津・大和及び近江など)である。
【写真左】御朱印蔵跡
 確か参道脇だったと思うが、この場所に御朱印蔵があった。

碑文より

“御朱印蔵跡
 御朱印蔵には徳川三代将軍以来の御朱印と長明寺縁起長明寺什物が保管されていたが、平成6年1月倒壊寸前の土蔵を撤去し、内蔵していた朱印長明寺縁起什物は長明寺住職がこれを保管している。
 尚釈迦如来涅槃像大軸は西脇市歴史資料館に保管を委嘱してある。
   平成13年7月建立”


 これに対し、平氏は主として関東地区に多く住んでいたといわれている。これが大きく入れ替わったのは、永保3年(1083)に始まった「後三年の役」(出雲・生山城(島根県雲南市大東町上久野生山)天霧城(香川県仲多度郡多度津町吉原)参照)からである。

 この年の9月、陸奥守兼鎮守府将軍として赴任した八幡太郎義家(源義家)は、清原家衡と真衡の争いで、真衡につき、家衡を討った。そして、その4年後の寛治元年12月26日、義家は出羽金沢柵をを攻略、清原武衡・家衡を誅殺、こうした戦において武功を挙げた家臣達に対し、義家は東国において恩賞を与えていった。これが源氏の東国における勢力を拡大していくきっかけとなった。
【写真左】長明寺本堂
 山号は高松山で、本堂には十一面観世音菩薩が祀られている。
 左が本堂で、右の奥には鐘楼があり、その右が庫裡がある。
 なお、この写真にはないが、境内左側には阿弥陀堂も建立されている。

 源頼政の墓はこの写真の左側にある坂道を少し登った所にある。


義親の反乱

 承徳2年(1098)10月23日、時の白河法皇から義家はついに院昇殿を許され、武家としては平氏より先んじることになる。

 しかし、義家の努力もつかの間で、嫡男義親は父義家の死後、対馬守として九州に任じられたとき、略奪を働き、さらに地元の官吏を殺害した罪で隠岐国配流が決まった。康和4年(1102)12月28日のことである(「百錬抄」等)。
【写真左】源頼政公の像
 境内には鵺退治の様子を描いた頼政の像が建立されている。

 ところで、当院境内では毎年4月29日、頼政公をしのぶ頼政祭りが行われている。弓の達人でもあったことから、地元高校生などにより弓道が披露されたり、さらには短歌・詩吟・剣舞なども行われているという。


 ところが、義親は隠岐に行かず、出雲国に留まり目代を殺害(康和5年・1103)、さらに嘉承2年(1107)12月19日、流人となった義親は再び同国にて目代を殺害、これに対し、ついに因幡守・平正盛の追討を受け、嘉承3年(1108)1月6日、同国にて義親は討たれた。彼の頸はそれから23日後の同月29日、正盛の手によって京へ運ばれた。(鶴ヶ城跡(島根県出雲市多伎町口田儀清武山)参照)

 義親のこうした一連の犯罪がなければ、源氏(河内源氏)はそのまま朝廷内で確固たる地位を維持できたのかもしれない。
【写真左】頼政の歌碑
 頼政は歌人としてもすぐれた作品を残しているが、当地にもそのうちの一句が刻まれている。






“深山木(みやまぎ)の その梢とも見えざりし
 さくらは花に 顕(あら)はれにけり”


源頼政と以仁王 

 さて、義家や義親など河内源氏の紹介が長くなったが、ここから摂津源氏系の頼政の話に入りたい。
 頼政は冒頭でも述べたように、摂津源氏の流れを汲む。始祖・頼光のあと頼国と続いたが、そのあとを継いだのは多田頼綱である。彼は頼国の五男で、曽祖父満仲が持っていた多田荘を摂関家に寄進したことなどから、源頼綱という名称より、一般的には多田頼綱としての呼称が定着している。
【写真左】「源三位 頼政公」と記された墓所前
 この階段を上がったところに頼政の墓がある。







 因みに、この多田荘というのが、現在の兵庫県川西市にある多田神社を中心とする多田院附近で、このほか、宝塚市に川西市の飛地となっている満願寺町にある満願寺は源満仲が帰依し、源氏一門の祈願所とした寺である。
【写真左】多田神社
 所在地:兵庫県川西市多田院多田所町
 多田神社縁起によれば、満仲は安和元年(968)年に神託を受け、一族郎党とともに摂津国豊島郡に移住し、鉱山を開発し、天禄元年(970)に多田院を創建したといわれる。

参拝日 2017年6月18日


 頼政が生まれたのは長治元年(1104)といわれている。平清盛が元永元年(1118)生まれであるので、清盛よりも14歳年長である。

 彼は後に源三位(げんざんみ)と呼ばれるように、当時の源氏の中では最も出世した人物で、平家の政権下にあって中央政界に重きをなし、清盛からも信頼を受けた。崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱(1156年)では、源義朝(為義の嫡男)らとともに清盛(後白河天皇)方につき、また3年後の平治の乱では、藤原経宗・惟方さらには、二条天皇、美福門院と結びつき、いずれも勝者側となった。
【写真左】頼政公辞世の句が刻まれた石碑
 かなり崩し文字で刻字されているため詠み難いが、おそらく次の句だろう。






“埋もれ木の 花咲くことも なかりしに
 身のなる果てぞ 悲しかりける”



 しかし、その後頼政は平家が後白河院側と軋轢を起こしだすと、次第に平家と距離を置くようになる。治承4年(1180)2月21日、清盛は高倉天皇を譲位させ、帝と清盛の娘・徳子の間に生まれた安徳天皇を即位させた。
【写真左】源頼政の墓・その2
 ご覧の通り、墓石は五輪塔や宝篋印塔の様式でないため、建立されたのは頼政の時代でないようだ。
 想像だが、江戸時代に建立されたのではないかと思われる。



以仁王(もちひとおう) の挙兵

 これに対し、日ごろから不満を持っていた以仁王 が平家討伐の令旨(りょうじ)を出した。以仁王 は後白河法皇の第三皇子で、藤原季成の女との間にできた子であるが、後に法皇の妹・八条院暲子内親王の猶子となって皇位への望みをつないでいた。

 安徳帝の践祚により、その望みを絶たれた以仁王 が頼ったのが源頼政である。以仁王 の令旨が出されたのは前述したように治承4年である。つまり、頼政はこのとき、76歳前後であるから当時としては高齢である。
【写真左】高松頼政池
 墓地を過ぎて山の方に向かうと、ご覧の溜池がある。
 頼政にちなんで「頼政池」と命名されている。





 以仁王 が令旨を出したのが、安徳天皇践祚から1か月余経った4月9日である。このあと、以仁王 は平家側から追補を受け、近江園城寺に立て籠った。それを救うべく動いたのが頼政である。一旦二人は当院から脱出し、奈良興福寺に向かったが、途中の宇治川(平等院)で平家側と交戦、二人とも討死した。治承4年(1180)5月26日のことである(一説には治承3年とも)。(源頼政の墓・宇治平等院(京都府宇治市宇治蓮華116)参照)

 それから1週間後、清盛は天皇・法皇・上皇に対し福原に遷都の奏請を行った(11月遷都)。

 この年の8月17日、源頼朝は伊豆で挙兵、以後世に言う「源平合戦」が繰り広げられことになるが、以仁王 の挙兵は、源氏の挙兵を促すきっかけともなったことは論を待たないだろう。

猪早太(いのはやた)と頼政

 ところで、当地西脇市のJR加古川線西脇市駅の近くには、頼政の忠臣とされる「猪早太供養碑」が建立されている。頼政の鵺退治で最後のとどめを刺したのが、猪早太という武将であったという伝説が残る。彼は実在した武将で、この付近は「播磨鑑」によれば、頼政の知行所とされ、「野村の産地」と記されている。

 
演目「頼政」

 さて、出雲・生山城(島根県雲南市大東町上久野生山)で紹介したように、源義家の家臣・鎌倉権五郎景政が、のちに歌舞伎の演目(「暫く」)の主人公にもなったことを述べたが、本稿の源頼政もまたいろいろな芝居に登場している。

 一つは「能」の演目で、題名も「頼政」である。世阿弥の作といわれているが、内容は先述した以仁王 に絡む宇治平等院での討死を題材に、頼政が亡霊となって出てくるという筋書き。
 もう一つは浄瑠璃及び歌舞伎で、「鵺退治」を題材にしているが、最近ではあまり上演されていないようだ。

 これらとは少し趣が変わるが、管理人の住む島根県では、石見地方に古くから伝わる「石見神楽」の演目の中に「頼政」がある。
【写真左】菖蒲御前の供養塔
 頼政の隣には室・菖蒲御前の供養等が祀られている。








頼政室・菖蒲御前

 ところで、頼政の側室といわれているのが、菖蒲前(あやめのまえ)である。

 彼女は頼政が討死したあと、逃れて安芸国下原村(現東広島市西条町御薗宇)に潜み、やがて後鳥羽院より賀茂郡一円を賜り、二神山城(広島県東広島市西条町下見)を築くが、度々攻められ、元久元年(1204)、安芸小倉大谷の地に入った。
【写真左】安芸国(広島県)にある菖蒲御前の墓

 所在地:広島県東広島市八本松町原 小倉神社境内奥
 参拝日 2014年9月22日

 因みに、この近くにも猪早太の墓がある(吾妻子の滝(広島県東広島市西条町御薗宇)参照)


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2015年6月12日金曜日

金鑵城(兵庫県小野市昭和町小字大谷・夢の森公園)

金鑵城(かなつるべじょう)

●所在地 兵庫県小野市昭和町小字大谷・夢の森公園
●高さ 95m(比高50m)
●築城期 室町時代か
●築城者 不明
●城主 中村氏(赤松氏家臣)
●遺構 郭・土塁・堀切・井戸等
●指定 小野市指定文化財
●登城日 2014年11月22日

◆解説(参考文献「サイト『城郭放浪記』」他)
 金鑵城は兵庫県小野市にあって、東播磨を流れる加古川の西方に伸びる青野ヶ原の台地に築かれた山城である。特徴的なのは、この場所が元は弥生時代の集落であったことである。
【写真左】金鑵城
 東方を望む櫓台。城域の東端部に設置されたもので、復元櫓であるが、この箇所から加古川を中心とした広大な平野が眺望できる。




現地の説明板より

“金鑵城跡
 当城は、青野ヶ原台地上の遠望がきく、要害の地を選んで築かれた山城です。ここからは、河合城(かわいじょう)、堀井城(ほりいじょう)、小堀城(こぼりじょう)など室町時代から戦国時代にかけて市内に築かれた中世城郭を見渡すことができます。
【写真左】案内図
 小野市観光マップという案内図が現地設置されている。この場所は「金鑵城遺跡広場」と隣接して「夢の森公園」があり、市民憩いの場となっている。
【写真左】金鑵城遺構配置図
 現地に設置されているものだが、色が大分薄くなっていたため、管理人によって少し加筆したもの。





 城主は、播磨を治めていた赤松氏の有力な家臣中村氏とされ、後に三木城の別所氏の持城となっています。

 台地先端部に「主郭」と「西の郭」があり、その間には幅約20m、深さ9mの堀切が掘られ、木橋がゆいいつの通路となっていました。主郭は、東西50m、南北80mの規模で、周囲には、土塁と呼ばれる土の壁がめぐらされていました。北西部に土塁が途切れるところがあり、城内への入口、虎口と考えられています。そこから城内に入ると礎石建物(建物跡1~3)、倉庫施設、煮炊き施設、集石遺構などがありました。また、北東隅部からのびる尾根の先端部には、見張りのための櫓が設けられていました。
【写真左】堀切に架けられた木橋
 北端部に当たる所で、手前に「西郭」があったとされ、奥に主郭が控える。

 なお、弥生時代には当然ながら堀切はなく、奥の主郭と連続した平坦地として構成され、下段にしめす「6号住居」を北端部に置き、主郭部には1~5号まで住居があったとされるが、おそらく弥生時代には堀切箇所にも数棟の住居があったものと思われる。


 城内からは、甕(かめ)、壺、擂鉢などの陶器、茶碗などの磁器、茶臼などの石製品、土錘(どすい)などの漁労具、刀、鞘、笄(こうがい)などの武具類、瓦、釘、壁などの建築資材、硯、水滴など文具類や銅銭などの多様な遺物が出土し、当城が長期間にわたり武士達の生活と防御の場となっていたことがわかります。
【写真左】木橋から堀切を望む。
 当城の中でも最大の遺構で、最大幅約20mを誇り、深さは最大で5m以上はあると思われる。
【写真左】堀切
 堀切底部から見たもので、現在は法面が緩やかになっているが、当時はもっと鋭角に深く掘られていたものと思われる。

 この箇所の堀切がこれだけ大規模なものとなったのは、当城の位置が関係していると思われる。

 というのも、金鑵城は南北に伸びる青野ヶ原台地の尾根軸線からあえてずれた東端部に設置されているため、当然ながら西方の尾根と連続する。このため城域に入る西側(北側)で南北方向にこうした大規模な堀切を設け、遮断する必要があったものと思われる。


中村氏

 金鑵城の城主は赤松氏の有力な家臣中村氏とされている。播磨国における中村氏については、以前取り上げた波賀城(兵庫県宍粟市波賀町上野)でもすでに紹介しているが、金鑵城の中村氏も同じ赤松氏の家臣であったことから、同族(庶流か)と思われる。
 ただ、金鑵城と波賀城は同じ播磨国に所在するものの、波賀城は北播磨にあり、金鑵城は東播磨にあってその距離は60キロ余り隔てている。
【写真左】主郭入口付近
 左側の入口が木橋を渡ったところのもので、奥の開口部が虎口とされている。
 現地はごらんのように綺麗に整備された土塁が郭を囲繞している。



 赤松氏については、白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)でも述べたように、もともと東播磨の佐用庄を本拠とし、のちに播磨及び備前・美作並びに因幡南部までも支配をした名族である。

 また、説明板にもあるように、金鑵城が所在する小野市(東播磨)には当城の他に、赤松氏一族が関係する諸城としては下記のものがある。
  1. 堀井城 小野市河合西町字構
  2. 岡城 小野市粟生町小字一文字山
  3. 赤松氏館 小野市下来住町小字平野

同氏家臣であった中村氏が、北播磨と東播磨に分散していることを考えると、中村氏は赤松氏とかなり密接な関係を持った一族であったものと推察される。
【写真左】主郭・その1
 入口側から南東方向を見たもので、郭は中間部ですこし右に折れる形となっている。
【写真左】建物1
 主郭内には礎石建物跡が3か所あるが、その中の最大のもの。
 東西15m×南北10mを誇る。
【写真左】復元井戸
 説明板より

“井戸跡(イメージ復元)
 金鑵城跡の「かなつるべ」という城の名前は、伝承によれば城内に井戸があり、その井戸の水を金(かね)の「つるべ」でくみ上げていたことからついたとされています。
 井戸の場所や形がわかっていないことから「一遍聖絵」などを参考にして復元してみました。”
【写真左】主郭・その2
 中央で少し折れて南東方向に伸びる箇所で、ここに2か所の礎石建物が認められている。

 このあと、東端部に突出している櫓台に向かう。
【写真左】櫓台
 主郭からおよそ30mほど細く伸びた連絡路が渡され、その先端部に櫓が設けられている。
【写真左】櫓台の北側にある小郭
 櫓台よりさらに北の下がった位置にも道が残されているが、大手道だったかもしれない。
【写真左】小郭側から櫓台を見る。
 下に降りて櫓台を見たもので、この位置からは険峻な光景に見える。
 この後、再び上に戻る。
【写真左】東方に加古川を望む。
 東播磨の中でも特にこのあたりには広大な平野が広がる。
【写真左】北東方面を望む
 この先の加古川を遡っていくと、黒田官兵衛の生誕地といわれる黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)に繋がる。





金鑵城遺跡竪穴住居

 参考までに、当城が金鑵城となる以前の遺跡についても紹介しておきたい。
現地の説明板より

“金鑵城遺跡

 城が築かれる以前には、弥生時代の集落が営まれていました。当集落の所在する青野ヶ原台地は、標高約94mで、台地下とは60mの比高差があります。このような高い場所に営まれた集落は、高地性集落と呼ばれています。この集落は、弥生時代の中期から後期(1~3世紀ころ)にかけて、日常生活の不便な高いところをわざわざ選んで設けられたもので、瀬戸内海地域や大阪湾岸に広く分布しています。見張り、軍事的施設、争乱による逃げ場所、烽火台などの役割が想定されています。
【写真左】金鑵城遺跡竪穴住居配置図
 ご覧のように、主郭部には5ヵ所の住居跡があった。

 当遺跡は、加古川沿いの内陸部に営まれためずらしい例で、目の前に加古川が見渡せることから、古くからの交通路でもあった加古川を通して伝わってくる情報をつかみ、それをメッセージとして段丘下の集落へ伝えていたのでしょう。
【写真左】6号住居
 西の郭部に残るもので、手前に張り出し部(出入口)を設け、周囲は高床とし、中央の円形部には炉跡があったとされる。



 6棟の竪穴住居を検出し、1~6号住居としています。1号と6号住居は、円形のものですが、他のものは隅のみが丸い隅丸方形のものです。すべてが同時期のものではありませんが、出土遺物からすれば、弥生時代中期末ごろに中心があるようです。平面復元した1号住居は、直径約5mの規模ですが、北東部に入口とみられる長さ約3mの張り出し部があります。柱は7本で、壁の周囲には高床がめぐり、中央部には炉か煮炊き施設とみられる大きな穴が認められました。”