2015年5月21日木曜日

妻鹿・国府山城(兵庫県姫路市妻鹿町甲山)

妻鹿・国分山城(めが・こうやまじょう)

●所在地 兵庫県姫路市妻鹿町甲山
●別名 妻鹿城・功山城・甲山城
●高さ 98m(比高98m)
●築城期 南北朝期
●築城者 妻鹿長宗
●城主 妻鹿氏・黒田職隆・官兵衛
●遺構 石垣・土塁・郭等
●登城日 2014年11月21日
 
◆解説(参考文献『黒田家略系図』荘厳寺所蔵等)
 前稿御着城(兵庫県姫路市御国野町御着)から、西に2キロ余り向かうと、北方の福崎方面から流れてきた市川という河川に突き当たる。ここからこの川を約3キロ半ほど下ると、東岸に100m足らずの小丘が見えるが、これが甲山と呼ばれ、南北朝期妻鹿氏が築城したといわれる妻鹿城、別名、国分山城である。
【写真左】国府山城遠望
 南麓部にある専用の駐車場側から見たもの。

 アングル的には西麓を流れる市川から遠望した写真が見栄えがいいが、この日は時間的に余裕がなく、この角度から撮った。
【写真左】石碑
 国府山城は別名妻鹿城とも呼ばれている。南麓には「妻鹿城址」と刻まれた石碑が建立されている。

 登城口は、この近くにある荒神社の脇にある。


 戦国期には、黒田官兵衛がそれまで居城としていた姫路城を秀吉に譲り、自らはこの国府山城に移ったといわれている。

現地の説明板より

“国府山城

 国府山城(功山城とも)は城郭の観点から見て、砦のような小規模な城だが、大変優れた城であった。
 先ず第一は大変堅固な要砦をなしているということ。
 市川は妻鹿の河口で二つに分かれ、一つは現在のように南に流れ、別の流れは現在の浜国道の南沿いに流、今は埋め立て地となっている妻鹿港に流れていて、天然の堀となっていた。
【写真左】妻鹿 国府山城址 平面図
 荒神社の脇に設置されているもので、写真では文字が小さいため分かりずらいが、中央上段部が主郭となっており、空堀・竪堀・石垣・狼煙・かまど・馬駈け跡等が図示されている。

 登城口はこの図でいえば、中央の下段方面になる。


 また南の一部には松原山があり、東には御旅山、妻鹿山が連なっている。北は峻険な切崖をなし、従って妻鹿村全体が大規模な城郭となっていた。
 第二は、瀬戸内海を一望のもとに眺めることができ、見晴しの大変よい城である。名城の条件を満たしている。
 第三は、市川は当時現在の京口川とつながっており、姫路城近くまで船で行くことができた。軍の移動も物資の運搬にも大変便利よく、真北に位置する姫路城の枝城としては申し分なき城であった。

 軍師官兵衛も一時期この城を居城としており、築城の名手黒田官兵衛はこの城から始まったといっても過言ではない。”
【写真左】登城開始
 荒神社の脇から、しばらくなだらかな道が続く。










官兵衛、姫路城から国府山城に移る。
 
 ところで、黒田官兵衛の出自については、以前とりあげた黒田城(兵庫県西脇市黒田庄黒田字城山)でも少し触れているが、官兵衛の父とされる職隆は官兵衛の実父ではなく、養父であり、実父はこれまで祖父といわれてきた重隆であることが指摘されてきている。
【写真左】井戸跡
 最初に見えてくる遺構で、直径1m弱の小さなもの。









 いずれ官兵衛の出自については、あらためて別稿で取り上げる予定だが、今稿では大要に留めたい。

 そこで、先ず父とされる重隆だが、現在の西脇市黒田庄にあった黒田城の城主で、約35年間当城の主であった。彼は永禄10年(1567)8月17日没しているが、官兵衛は天正15年(1544)に生まれているので、父重隆が亡くなった時は、13歳であったことになる。

 さらに、通説ではこれまで官兵衛の兄弟などはいなかったとされてきているが、官兵衛には実兄とされる治隆がおり、彼は黒田城を父・重隆から引き継いだものの、黒田城の西方を流れる加古川の対岸・石原の石原氏、及び丹波・赤井氏との連合軍に襲撃され討死、これにより黒田城は落城した。これにより、兄治隆が黒田城の最後の城主となった。
【写真左】門石跡
 このあたりから少し登り勾配となっており、左右には門を設置するための礎石などがあったものと思われる。城域の入口ということだろう。



 官兵衛が一時、姓を小寺としているが、これは官兵衛が姫路城代であった小寺職隆の猶子、すなわち養子になった(『小野藩一柳家古文書』小野市好古館)からで、その後小寺職隆が御着城へ移ったあと、官兵衛は姫路城主となっている。
 小寺職隆は、小寺則職の子で、代々置塩城(兵庫県姫路市夢前町宮置・糸田)を居城としていた赤松氏の重臣である。

 さて、官兵衛が秀吉に姫路城を譲り、当城・国府山城に移った時期については、天正元年(1573)など様々な時期がいわれているが、確定していない。
【写真左】かまど跡
 門石から入ってすぐに左側に進んだ箇所にあるが、全体にこのあたりは広い平坦地となっており、カマドも含めた平時の生活遺構があったものと思われる。
【写真左】馬駈け
 かまど跡から元のコースに戻り、少し登ると開けた場所に出る。現地には「馬駈け」と表記されたものがある。東西に凡そ100mほど伸びた細長い平坦地で、いわゆる馬場跡と思われる。
【写真左】経塚跡
 国府山城の南端部にあるもので、甲山経塚(こうやまきょうづか)と呼ばれている。

説明板より

“甲山経塚

 甲山は御旅山の北西端に位置し、経塚はその緩やかな山頂部の突端に造営されている。
 経塚とは、経文を容器(経筒)に入れて土中に埋納した遺跡である。経典を後世に伝え、その仏教的な作善行為によって極楽往生を願う経塚の造営は、平安時代中期以降に全国的に盛行した。
【写真左】甲山経塚から南方に市川河口を俯瞰する。
 河口は姫路港につながり、その先には播磨灘が広がる。
 南北朝期の妻鹿氏が城主であったころは、おそらく当城も海城の機能を有していたものと思われる。



 甲山経塚は、昭和42年に地元有志の調査によって発見され、その後の調査で立石状に露頭した岩の周囲で3基の埋納杭が確認された。埋納杭は板石で囲んで構築されていた。

 遺物は土師質外容器・経筒、須恵器甕、青白磁合子、泥塔、銅鏡、銅銭などが出土した。このうち泥塔は塔身に二仏の座像が陽形の笵で浮き出されている。同一型式のものが甲山南麓の荒神社に御神体として祀られていた。類例が乏しく珍しいものである。須恵器甕は香川県の甕山窯の製品で、平安時代中期から後期のものと考えられる。

 また、経塚周辺から鎌倉時代から室町時代の瓦質土器土釜・土師器香炉・白磁皿などが出土しており、中世を通じて信仰されてきた可能性がある。
   平成23年6月    姫路市教育委員会”
【写真左】土塁跡
 経塚を過ぎるとここから尾根筋を伝ってやや上り勾配の道となる。この土塁にいたるまでに
3,4ヵ所の郭段が散見される。
【写真左】狼煙郭
 登城道の途中に設置されたもので、石積を施した高台が残る。

 この狼煙の目的は内陸側との連絡もあっただろうが、むしろ播磨灘を往来する船との交信が主なものであったと思われる。
【写真左】二層の隅櫓跡
 中腹部にあるもので、狼煙郭より西側にあり、市川を望む箇所に設置されている。

 また、このあたりから西側には主郭に向かって土塁や礎石が長く伸びる。
【写真左】主郭が見えてきた。
 登り勾配ながらさほど急傾斜ではない。
【写真左】主郭・その1
 南北に伸びる郭で、およそ奥行30m×幅20mの規模。
 西側に眺望が開ける。
【写真左】主郭・その2
 北方向に姫路城・廣峯神社・置塩城を見る。
 奇しくも当城と姫路城を結んだ延長線上の北には置塩城が位置する。
【写真左】主郭・その3
 西南方向を見る。
 JR山陽線より南側の街並みで、戦国期はおそらく遠浅の海が広がっていたものと思われる。

 このあと、主郭から北の尾根伝いに進む。
【写真左】井戸郭の案内板
 「急傾斜につき 危険ですよ!」の看板もあり、降りるのを断念。
【写真左】庭園郭
 主郭から尾根伝を北に進むと、ご覧の郭がある。奇岩が横たわり、「庭園郭」と命名されている。

 この遺構があるところから、当城は有事のみの城塞ではなく、平時の城館としても使われたようだ。
【写真左】磐座(いわくら)
 さきほどの庭園郭からさらに進むと、2,3か所の郭があり、その先にはご覧の磐座跡がある。
 これは、さらに大きな奇岩が鎮座している。

 祭祀用のものと思われるが、戦国期というより、前半で紹介した「経塚」が埋納された平安期以降のものかもしれない。
【写真左】帯郭
 帰りのコースとなるが、尾根終点から降りて、東側に向かうと、長い帯郭がある。
 写真の右側に主郭などがある。
【写真左】専用駐車場
 国府山城登城者のための駐車場で、地元妻鹿自治会さんのご好意で設置されている。

 山城登城の際、もっとも手間取るのが駐車場の確保だが、ここまで行き届いていると嬉しくなる。お礼を申し上げたい。

2015年5月9日土曜日

御着城(兵庫県姫路市御国野町御着)

御着城(ごちゃくじょう)

●所在地 兵庫県姫路市御国野町御着
●別名 天川城、茶臼山城
●築城期 永正16年(1519)以前
●築城者 小寺政隆など
●城主 小寺政隆、則職・政職
●形態 平山城
●遺構 土塁・濠
●備考 播磨三大城
●登城日 2014年11月21日

◆解説
 御着城は兵庫県姫路市の御着に所在し、戦国期には黒田官兵衛の元主君であった小寺政職(塩田城(兵庫県宍粟市山崎町塩田)参照)が城主を務めていた平城である。

 当城は、黒田官兵衛が在城していた初期の姫路城からは、東南東に約5キロほど向かった位置にあり、官兵衛の妻・光(てる)の生誕地とされる加古川市の志方城(兵庫県加古川市志方町志方町720)志方城からはおよそ9キロほど離れている。
【写真左】御着城の石碑
 南側から見たもので、下段で示すように石碑の左側に本丸があり、石碑及び道路がある個所が濠とされ、その右に二ノ丸があったといわれる。


播磨御着

 当地名である「御着」は、往古、神功皇后外征の折、この地に上陸、お立ち寄り遊ばされたので、「御着」と言い慣わしたといわれている。

 史料として初めて出てくるのは、『太平記』である。南北朝期、塩冶判官高貞(加古川城・称名寺(兵庫県加古川市加古川町本町)参照)が、高師直の手の者に追われて出雲へ逃走することになるが、その途中「御着宿より道を変え小塩山へ向かった。…」と記されている。
 このことから、当時御着は畿内と西国を往来する宿場町として成立していたと思われる。
【写真左】御着城跡 案内図
 赤地「現在地」とされた箇所が石碑のあるところ。
【写真左】「御着城跡縄張推定図」
 中央部分が本丸で、その右に堀を介して二ノ丸があったとされる。

  二ノ丸の南側も堀として表示しているが、実際はこれほどの大きさはなかったのかもしれない。







現地の説明板より・その1

御着城 二ノ丸跡

 昭和52年度から54年度まで御国野小学校跡地再開発にともなう発掘調査が行われ、14世紀後半から16世紀後半にわたる遺構と青磁・白磁等の貿易陶磁器や備前焼・瀬戸焼等日本製陶磁器、瓦や鉄・銅製品等の遺物が検出された。

 御着の文献上の初見は『太平記』にみえる山陽道の御着宿であり、14世紀後半の遺構・遺物はその頃のものとみられる。
【写真左】二ノ丸跡
 元学校跡地であったようで、現在校庭が残る。

 おそらく、このグランドの南半分(手前)は堀であったと思われる。



 御着城は15世紀前半に柵をめぐらせた居館として現れ、15世紀後半、明応4年(1495)に御着納所で小寺則職が薬師寺氏とともに播磨守護の段銭徴収にあたっており、この頃、小型の堀や溝がみられるようになる。

 16世紀に入ると本丸に瓦葺き建物が現れ、16世紀半ばには土塁の構築と大規模な整地、本丸と二ノ丸を隔てる大型と中型の堀が現れ、各段に防御機能を高める。
 これは播磨守護赤松義村と浦上村宗の対立に幕府管領細川氏の内紛が関わり、享禄3年(1530)小寺政隆は庄山城で浦上村宗と戦い戦死、御着城も開城、天文7年(1538)には、山陰から尼子氏が播磨に侵攻するなど動乱の播磨を背景としている。
【写真左】二ノ丸から本丸に向かう。
 二ノ丸と本丸の間には南北に堀が巡らされていた。
 奥に天守風の市役所東出張所が建っているが、この辺りが本丸付近。
【写真左】本丸跡
 すでに整地されているため当時の詳細な状況は分からないが、形態としては比高のあまりない平山城(平城)であったものと思われる。



 16世紀後半には礎石建物や瓦葺建物が現れ、土塁は再三増築され、基底部幅は当初の5.5mから約10mに達し、部分的に石垣も構築され大規模な城郭に発展している。

 永禄12年(1569)に羽柴秀吉ら織田軍2万が播磨に侵攻し、別所三木氏と龍野赤松氏は織田方、小寺氏は反織田方であった。黒田官兵衛が龍野赤松氏と青山合戦を行ったのはこのときのことである。
【写真左】黒田家廟所
 市役所東出張所の脇を抜け西に進むと、官兵衛の祖父・重隆と生母(明石氏)の二人を祀る黒田家霊所がある。

 享和2年(1802)資材を九州から運んで造られたという。昭和56年姫路市指定史跡となった。
 中央二基の墓が重隆と生母のもの。


 その後御着城主小寺政職は、織田方となるが天正6年(1578)荒木村重の離反に呼応したため、織田信忠・羽柴秀吉群は御着城周辺を焼き払い、火山(御着南山)に布陣した(樋山陣という)が、御着城から樋山陣に猛攻を加え、信忠・秀吉軍は的形大鳥地区の引入谷まで撤退したという。

 秀吉は三木城攻囲中に官兵衛の叔父小寺休夢斎に御着城開城の手立てを命じ、天正7年(1579)御着城は開城し、翌年破却された(天正8年開城とする史料もある)。

    平成26年11月  姫路市教育委員会 
               姫路市文化財保護協会”
【写真左】御着付近史跡要図
 現地には御着城をはじめ他の史跡を表示した案内図もある。

 天川を挟んで西側には壇場山古墳・山の越古墳などがあり、さらにその北には国分寺もあった。
 旧山陽道は御着城の南方にあり、交通の要衝でもあった。


前段の説明板・その1と重複する箇所もあるが、もう一つの説明板も紹介しておきたい。

現地の説明板より・その2

“御着城跡

 御着城は茶臼山城・天川城とも呼ばれ、播磨守護赤松氏の家臣小寺氏の居城。
 永承16年(1519)小寺政隆が築城、則職・政職と継承され、天正6年(1578)か7年に羽柴秀吉の播磨侵攻で滅亡したとされるが、嘉吉年間(1441~44)にはすでに構居が設けられていたとされ、明応年間(1492~1501)には赤松氏の播磨支配の拠点として守護所の機能を持つ城郭として機能していた。
【写真左】小寺大明神
 南側の道路を挟んだところには「小寺大明神」が祀られている。

 宝暦5年(1755)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」に「今此所ニ小寺殿社アリ」と注記されており、小寺氏一族及び当城に関係した人々を祀っているという。



 昭和52~54年の発掘調査で、御着城が14世紀後半から16世紀後半まで存続し、16世紀半ばに大・中型の堀や土塁が築かれ本格的な縄張りが行われたことが判明。中世の人々の生活に深くかかわる土器・陶磁器・木製品・石製品等の遺物も検出された。

 宝暦5年(1755)の「播州飾東郡府東御野庄御着茶臼山城地絵図」には、城の中核に本丸と二ノ丸、西と南は天川を利用した二重の堀、北と東には四重の堀、外郭部に家中屋敷や町家の記載があり、惣構えの城が描かれている。現在、御着城跡の中央を東西に国道2号線が走り、本丸跡に市役所東出張所・御着城公園・御国野公民館がある。
     平成13年3月
       姫路市教育委員会”
【写真左】五輪塔と石仏
 同じく小寺大明神の境内にあるもので、旧御国野小学校時代の校庭を発掘調査した際、出土したものを復元。

 秀吉が御着城を攻めたとき戦死したものではないかとされている。

2015年5月3日日曜日

廣峯神社(兵庫県姫路市広嶺山52)

廣峯神社(ひろみねじんじゃ)

●所在地 兵庫県姫路市広嶺山52
●創建 天平6年(734)
●主祭神 素戔嗚尊・五十猛命
●社格 県社・別表神社
●指定 国指定重要文化財(本殿・拝殿)
●札所 神仏霊場巡拝の道74番等
●神事 御田植祭、疫神祭、御柱祭
●備考 廣峯山城・黒田家屋敷跡
●高さ 300m
●登城参拝日 2014年9月3日

◆解説(参考資料 兵庫県産業労働部国際局観光振興課編「あいたい兵庫ガイドブック2014春夏・秋冬版」等)
 廣峯神社は姫路市にあって、姫路城から北へ約6キロほど向かった廣峯山に建立された神社である。

 後段でも述べるように、当社の大別当が黒田官兵衛の主君・小寺政職の弟であったことや、黒田家という御師屋敷があったことから、官兵衛ゆかりの地とされている。
【写真左】廣峯神社
 一般の者は直接この位置まで自家用車で来ることは出来ない。
 下の方に専用の駐車場(下段案内図参照)に停めて、そこから徒歩で向かう。
【写真左】案内図
 中央に廣峯神社があり、駐車場は下の方に図示されている。黒田家はこの図でいえば左上の方に御師家の一つとして赤地で示されている。







【写真左】参道登り口
 駐車場から暫く歩くとご覧の箇所に出る。左の道は車道だが、車で往来できるのは地元の方のみのようだ。

 一般参拝者・観光客は徒歩で左の車道を通ってもよいが、このコースでは途中の史跡探訪ができない。
 このため、案内標識に従って右側の表参道といわれる道を進む。


パンフ・ひめじ官兵衛プロジェクト推進協議会編より

“廣峯神社の由縁

 廣峯神社は2千年以上前に素戔嗚尊がご鎮座され、奈良時代にこの山を訪れた吉備真備が、御神託を受けて社殿を建立したと伝わっています。唐で陰陽道を極めた真備が、この学問を日本に広めたいと考え、素戔嗚尊を「星の運行を司る神」で「祇園精舎の守り神である牛頭(ごず)天王の化身」であるとして、日本の暦を司る神としました。
【写真左】階段脇の石垣
 表参道は暫く階段の道が続くが、このあたりから脇に石垣が見える。
 50家以上もあったとされる御師屋敷跡のもので、井上家跡のもの。
【写真左】井上家屋敷跡・石碑
裏には、 
元禄時代以前より代々廣峯神社に仕え奉り。思い出深い住まいを神社並びに先祖に報告祈願をし、屋敷を清らかな明るい平地となし、いこいのところとなす。 平成15年吉月吉日
の碑文が刻まれている。
【写真左】土塀跡
 大分朽ち果てているが、当時の御師屋敷はこうした土塀で囲まれていたのだろう。





 牛頭天王は疫病の神として崇められ、平安時代に都で疫病が流行ったとき、清和天皇の夢枕にお告げがあり、廣峯の御分霊を京都にお迎えしたところ疫病が収まり、それを祝って始められたのが祇園祭で、その後建立されたのが八坂神社です。

 鎌倉時代より廣峯神社は祇園本社として崇敬を集め、室町時代には熊野にも劣らぬほどの参詣者が山を訪れたと記されています。”
【写真左】天祖父社
 井上屋敷跡を過ぎると、同じく右側に当社が祀られている。
 境内は参道より約2m程石垣で高くしてある。



黒田官兵衛と廣峯神社

 江戸時代の「夢幻物語」によれば、官兵衛の祖父重隆は廣峯神社に参詣。御師・井口大夫から黒田秘伝の目薬を依頼され、ほどなく艶福長者となったとされています。

 当時の廣峯神社の大別当は官兵衛の主君・小寺政職の弟であり、廣峯神社の御師の中に官兵衛と同じ家紋を持つ黒田姓の家があることからも、黒田家と廣峯神社の深い関係がうかがえます。

 廣峯神社は農耕の神として崇められ、農業指導なども行っていました。備中高松城の水攻めや普請など土木工事に長けていたのは、御師達が農地改革など土木工事の知識を持っていたからでしょう。”


御師屋敷の黒田家

 この廣峯神社には社家や下級神官で組織された御師(おし)制度があり、彼ら御師は、東は若狭から西は安芸までの御札を配って廻ったといわれる。

 下段で紹介するように、廣峯神社本殿の裏山に繋がる一角には、これら御師の屋敷跡が残され、黒田官兵衛の時代には50家以上もあったとされる。その中の一つに、黒田家という屋敷跡があり、この家が御師をしながら目薬を売っていたといわれていた官兵衛の祖父・重隆と関係があったのではないかといわれている。

【写真左】廣峯神社が見えてくる。
 手前の両側に土塀が見えるが、この箇所にもそれぞれ西脇家・肥塚家といった御師屋敷跡が残る。
 奥には廣峯神社の休憩所が見え、さらに後方に白弊山が鎮座している。
【写真左】廣峯神社・入口付近
 この階段を登ると、本殿拝殿などに至る。
【写真左】宝篋印塔
 階段途中の右側に祀られているもので、国指定重要文化財。
 無銘であるが様式上から考えて室町時代初期のものといわれるもの。もともと廣峯神社の背後、俗称「吉備ツ様」といわれている地に埋没していたのを現在に移転したという。「吉備ツ様」というのは、後段で紹介する吉備社がまつられている白弊山付近と思われる。
【写真左】随神門(表門)
 姫路市指定重要有形文化財(昭和42年指定)
元禄10年(1697)頃のものとされ、同時期の代表的名工・大古瀬十郎兵衛の大棟鬼瓦が使われている。
【写真左】本殿・拝殿
 現地の説明板より

“本殿 附宮殿三基

 国指定重要文化財(昭和35年6月9日指定)
 構造形式:桁行11間、梁間3間、一重、入母屋造、正面1間通り庇付き、檜皮葺

 ここに社殿が建てられたのはかなり古く、京都祇園の八坂神社は、貞観11年(896)ここより遷座されたとされている。なお、本殿床下には平安時代初期の一間社流造社殿の掘立方柱の遺構がある。現本殿は文安元年(1444)の再建で、正面幅が神社本殿建築として我が国最大級の規模である。(以下略)…”
【写真左】本殿及び拝殿平面図
 下段が拝殿で、上段が本殿



拝殿

 国指定重要文化財(昭和35年6月9日指定)
 構造形式:桁行10間、梁間4間、一重、入母屋造、本瓦葺

 本殿の前面に軒を接して建っており、本殿に相応した大規模な建物である。敷地が本殿に向かって上り斜面となっているため、建物前面は一種の舞台造りとなっている。現拝殿は寛永3年(1626)姫寺城主本多忠政が再建した。(以下略)…”
【写真左】大河ドラマ「軍師官兵衛」ロケの写真
 昨年放映されていたNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」のとき、紹介された広峯明神での撮影風景写真。

 初回の平成26年1月5日放映されたもので、御師が供を二人連れて地方に旅立つシーンなどが撮影された。
【写真左】廣峯神社から姫路市内を俯瞰する。
 奥に見えるのは姫路港と播磨灘。姫路城はこの写真のほぼ中央部に当たるが、未だこの頃は改修工事中であったためか、確認できなかった。
【写真左】廣峯神社の裏側
 境内の隅からぐるっと回り込むと裏側にも小祠が2,3基祀られている。
 このあと、吉備社などが祀られている白弊山を目指す。
【写真左】家守家跡
 御師屋敷の一つで、すでに建物などは朽ち果てているが、瓦片などがそのまま残っている。
 なお、この付近には家守家のほか、藤井家跡や内海家跡などがある。
 ここからさらに上を目指すが、傾斜が段々ときつくなり、山城らしき雰囲気が感じられる。
【写真左】吉備社
 白弊山山頂部に祀られているもので、冒頭で紹介したように、廣峯神社を建立した吉備真備を祀る。
 なお、この地には右隣りに素戔嗚尊を祭神とする荒神社が祀られ、両社の間には磐座という石が鎮座する。
 なお、白弊山を山城とすれば、この位置が主郭となるのだろうが、これ以外の山城遺構らしきものは殆ど確認できない。
 このあと、下りは黒田家や魚住家などがあるルートを使った。
【写真左】黒田家屋敷跡・その1
 かなり傾斜のある下り坂の途中に残るもので、母屋とされる敷地は、間口10m余×奥行30m弱程度の規模となっている。

 見方によっては、山城の郭段跡に屋敷が建てられたのではないかとも考えられる。
【写真左】黒田家屋敷跡・その2
 黒田家の標識
【写真左】黒田家屋敷跡・その3
 現地には瓦片が散在し、礎石らしきものもみえるが、ほとんど整備されていないようだ。
【写真左】黒田家屋敷跡・その4
 左側が黒田家屋敷になるが、ご覧の通り土塀と石積を混在させたような基礎で屋敷が建てられていたようだ。
 なお、この下の段も日常生活のためにつかわれたような空き地が残る。