2015年3月30日月曜日

八ツ尾城(広島県府中市出口町)

八ツ尾城(やつおじょう)

●所在地 広島県府中市出口町
●高さ 346m(比高300m)
●築城期 建仁2年(1202)
●築城者 杉原伯耆守光平
●遺構 郭・堀切・竪堀・土塁等
●備考 府中八幡神社・妙見山
●登城日 2015年3月17日

◆解説(参考文献 「日本城郭体系第13巻」、サイト「城郭放浪記」等)
 八ツ尾城については以前取り上げた同市内にある幡立山城(広島県府中市本山町)でも少し紹介しているが、幡立山から南へ約600mほど下った八尾山に築かれた城砦である。
【写真左】八ツ尾城及び、幡立山城遠望
 東方の桜ヶ丘付近から見たもの。
【写真左】八ツ尾城遠望
 同じく東側からアップしたもの。
 後段で紹介するように、右側に見える鉄塔付近に見ごたえのある堀切・竪堀がある。


現地の説明板より

“八ツ尾城跡(標高345.9m)

 「西備名区」に杉原伯耆守光平が1202年、源頼家より備後守守護職を賜り鎌倉より来たり当城を築き住すとある。

 代々鎌倉に奉仕しているが、11代杉原彦三郎光親のとき、天文のはじめ他州に移っている。その跡を木梨系の杉原氏が3代続いて城主となり、杉原理興のとき、山名氏の神辺城を落とし入れ、天文7年(1538)神辺城に移り、当城は空城となる。
【写真左】幡立山城から八ツ尾城を見下ろす
 2013年10月26日に登城した幡立山城本丸から見たもの。





 この間、南北朝時代1362年に山名時氏により攻められ、8代城主光房の二男詮光は開城した。

 その後城は、杉原に返されたが、いざという時は、山名氏の行営となった。この他、宮内村の桜山茲俊の旗上げのとき、占領されており、亀寿山の戦いでは、八ツ尾城(城主杉原基康)が、毛利元就の本陣となり、宮一族と戦い戦勝している。(出口郷愛会)”
【写真左】府中八幡神社
 登城口となる南麓には府中八幡神社が祀られている。








 現地の説明板より

“府中八幡神社
 府中八幡神社は大昔、現社殿の裏山にある「宮の壇(天狗松ともいう)」といわれる場所に八尾(八ツ尾)城の守護神として祀られました。

 創文は芦品郡志によれば、嘉吉3年(1443)山名持豊の目代宮田備後守政輝が八尾城に赴任して建立しました。
 天文7年(1537)八尾城主杉原理興(タダオキ)が神辺城に移ったため、神社は一時さびれたが承応2年(1653)郷民相い計り社殿をこの羽中山に移しました。
【写真左】登城口
 八幡神社側からの登城口は神社境内の右側にある天満宮や金盛稲荷神社の横を通っていくと、谷を挟んで両側にある。この日はそのうち右(東側)の道から向かった。
 なお、この八ツ尾城の登山道は、さらに北にある亀ヶ岳や幡立山城へ向かうルートでもある。


 寛文12年(1672)府中市の庄屋河面市右衛門直賢が願主となり、元禄5年現在の末社天満宮の社殿を八幡神社の本殿としましたが、寛保2年(1742)更に新たな本殿を造営、昭和36年焼失、昭和44年現社殿が再建されました。
 末社には天満宮をはじめ、府中の産業である家具建築の神、鉄工の祖神などが祀られています。(出口郷愛会)”
【写真左】分岐点
 奥(上)が八ツ尾城方面、左に進むと、後ほど紹介する「府中八幡宮跡」や石鎚神社・大仙神社に繋がる。
 先ずはこのまま上に向かう。



築城期

 説明板にもあるように、杉原伯耆守光平が1202年、すなわち建仁2年築城したとされている。この年は、光平に守護職を任じた頼家自身が7月23日に征夷大将軍に補せらているので、光平が守護職を得たのも頼家が将軍になってからだろう。

 因みにこの年は、栄西が頼家の外護により京都に建仁寺を創建し、禅宗の布教を本格的に開始する時期でもある。しかし、この1年後の建仁3年9月、将軍となって間もない頼家は、北条時政や大江広元によって伊豆修善寺に幽閉され、明くる元久元年7月18日、頼家はその修善寺で謀殺されることになる。
【写真左】休憩小屋
 八ツ尾城の登城道はここまで谷と並行するため直登となり、急坂である。このため道中はほとんど階段状となっている。この小屋には祠(早午明神)などが祀ってある。

 中に箒やバケツなど清掃道具などが整然と並べてあり、当山(当社)周辺を定期的に管理しているのだろう。


杉原氏

 説明板にもある史料「西備名区」によれば、築城者であった杉原氏は光平から始まり、以後光親まで11代の城主を記している。
  1. 初代 光平
  2. 2代  員平
  3. 3代  光綱
  4. 4代  盛綱
  5. 5代  忠綱
  6. 6代  親綱
  7. 7代  時綱
  8. 8代  光房
  9. 9代  直光 
  10. 10代 満平 
  11. 11代 光親
  12. 12代 基康 
【写真左】東に延びる尾根
 休憩小屋を過ぎると、九十九折の道となり、次第に西に向かって道が進む。
 写真は途中に見えた分岐点で、この道を進むと東側の尾根先端部に行くが、この日はスルーしてしまった。このあたりの尾根先端部から本丸に向かって郭段が連続している。



 9代直光のとき、すなわち康安2年(1362)のころ、山名時氏(山名寺・山名時氏墓(鳥取県倉吉市巌城)参照)は宮田直貞に命じ備後を攻略した。そして、時氏が入国したが、このとき新市亀寿山城(広島県福山市新市町大字新市)主・宮兼信は、時氏に反抗、このため、時氏は八ツ尾城にて足利直冬を宮氏と戦わせたとされている。

 そして、「日本城郭体系」では、9代直光、10代満平は城主とは名ばかりであったとし、八ツ尾城主杉原氏はその支配を弱め、庶流であった木梨杉原氏(鷲尾山城(広島県尾道市木ノ庄町木梨)参照)や、山手銀山城にいた杉原氏が台頭していたという。
【写真左】妙見社
 大正4年に建立された鳥居を潜り少し登ると、南側に展望の効いた明るい広場が見えるが、その一角にこの妙見社が祀られている。
【写真左】相方城遠望
 妙見社から南東方向に相方城(広島県福山市新市町大字相方)が見える。
【写真左】桜山城及び亀寿山城を遠望する。
 同じく妙見社から見たもので、芦田川を挟んで相方城の北方に、桜山城(広島県福山市新市町大字宮内)と、亀寿山城(広島県福山市新市町大字新市)が対峙している。

【写真左】妙見社奥の切崖
 同社の向背に本丸が控えている。
このあと、左側に進み、八ツ尾城の西側に回り込む。
【写真左】本丸へ向かう
 西側の登山道途中にご覧の標柱があり、そこから約7,8m登った所に本丸がある。
【写真左】本丸・その1
 南北に伸びた長径50m×短径20mの規模を持つ。別名千畳敷と呼ばれている。
【写真左】本丸・その2
 北側から南を見る。
 南端部から下に3段の郭があり、それぞれ二の丸・三の丸・四ノ丸と呼ばれているが、尾根幅に比べ奥行はあまりなく、いずれも小郭である。現地は笹に覆われ明瞭でなく、むしろ前述した「妙見社」が祀られている箇所の方が郭としては大きい。
【写真左】本丸北端部より幡立山城を遠望する。
 冬期はこのように見えるが、春になると緑に覆われた木立で見えないかもしれない。
 なお、この写真の右には亀ヶ岳が控えている。
 このあと、北端部から降りて北の丸に向かう。
【写真左】井戸跡か
 本丸の北側切崖から北の丸に接続する角に見えたもので、かなり深い窪みが残る。
 水が確保できそうな場所である。
【写真左】北の丸・その1
 本丸から比高差およそ10m程下がった位置にあり、長径40m×短径8m前後の規模のもの。
【写真左】北の丸・その2
 土塁
 北の丸の北端部には土塁が残る。
写真左側は北の丸中央部から伸びた道で、ここでぐるっと右に旋回して、当城最大の堀切群に向かう。
【写真左】堀切・その1
 北の丸を過ぎた途端、深さ7,8mの位置に尾根を断ち切った堀切が眼下に現れる。
【写真左】堀切・その2
 下に降りて西側から見たもので、右側が北の丸、左側に行くと幡立山城に繋がる。
 このあと、手前の堀切は竪堀状となって西の谷に向かうが、その南側の尾根にも堀切が設置されている。
【写真左】堀切・その3
 西側に伸びる尾根に設置されたもので、この堀切の溝は、上の堀切の溝と合流し、その後、北尾根と西尾根に挟まれた谷に降る。
【写真左】西の丸
 さきほどの西尾根の堀切を超えると、ここから6段で構成された郭段があり、これらを総称して西の丸とされている。
 この日はこの先に向かっていないが、総延長60mの規模を持つ。
【写真左】北尾根
 北尾根の堀切をすぎると、奥に鉄塔が見える。その先は下り斜面となっており、向背に聳える幡立山は、一旦鞍部まで降りてから再び登っていくようだ。
 このため、八ツ尾城が独立峰であることが分かる。
 なお、この箇所には遺構として特記されていないが、この10m前後の細長い尾根も、北からの攻めに対する防衛を目的とした郭の役目があったものと思われる。

 このあと下山するが、下山コースは谷を挟んだ西側の道を選ぶ。
【写真左】旧府中八幡宮跡
 現在麓に祀られている八幡宮があったところで、八ツ尾城(妙見山)の中腹より下方の位置にある。
 現在は石碑があるが、小郭の規模となっている。

2015年3月22日日曜日

楢崎城(広島県府中市久佐町字城山)

楢崎城(ならざきじょう)

●所在地 広島県府中市久佐町字城山
●高さ 270m(比高150m)
●別名 二子城・朝山二子城
●築城期 正慶2年・元弘3年(1333)
●築城者 楢崎豊武
●形態 直線状連郭式
●遺構 郭・空堀・石垣・石垣井戸
●登城日 2014年10月7日

◆解説(参考文献「日本城郭体系第13巻」等)
 楢崎城はJR福塩線河佐駅の東方1キロに聳える標高270mの小山に築かれた城砦である。
【写真左】楢崎城遠望
 西側から見たもの。麓には安全寺が建っている。










現地の説明板より

“新府中歴史○○めぐり
  安全寺と五輪塔

 正慶2年(1332年)宇多加賀守豊武が芦品郡の地頭として着任、姓を楢崎と改め居城を築いたのが楢崎城です。

 7代の間、芦品郡と神石郡の一部を統括しました。楢崎氏の菩提寺が竹馬寺で現在の安全寺です。安全寺の境内に歴代城主の墓があり、竹馬寺跡(安全寺より800m西)に楢崎城の武将家臣の墓碑群があります。40基近い五輪塔と宝篋印塔2基が、手をつなぎ語り合っているかのように立ちながらならんでいます。
   府中商工会議支所”
【写真左】歴代城主の墓と石碑
 西麓にある安全寺の境内にはご覧の墓がある。
 安全寺の前身竹馬寺はこの場所ではなかったが、後にこの場所へ移設され安全寺と改名されたようだ。したがってこれらの墓も同時に移設されたもの。
 登城口はここから一旦西側に戻ったところにあるが、管理人はこのままこの場所から直登し、途中から登城道に合流して向かった。



楢崎氏

 説明板にもあるように、当地に入国した宇多豊武はその後、姓を楢崎と改めている。また「日本城郭体系」によれば、楢崎という姓は、入国する前に在住していた近江国犬上郡楢崎村から名乗ったという。その時期は、芦品郡に入った正慶2年(1332)からおよそ20年後の文和年間(1352~56)といわれる。その後の継嗣は次の通り。
  1. 初代 豊武
  2. 2代 豊真
  3. 3代 満景
  4. 4代 宗豊
  5. 5代 信豊
  6. 6代 宗真
  7. 7代 通景
  8. 8代 豊景
 楢崎城主最後の第8代豊景の代のとき、毛利氏に攻められ降伏、その後永禄から慶長年間(1558~1615)の間、毛利氏幕下の武将として仕え、活躍したといわれる。
【写真左】登城道
 登城道は西側から回り込み、次第に南進した後、左方向に鋭角に曲がり、そのあと直進して本丸に繋がる。
 写真は途中の南側斜面に取り付く道。


出雲国馬潟原の合戦

 出雲尼子氏と毛利氏の戦いについてはこれまで紹介してきたが、楢崎氏が毛利氏に仕えて、最初に軍功を挙げたのがこの出雲における馬潟原の戦いである。

 この戦いは、白鹿城(島根県松江市法吉町)・その2でも述べたように、凋落の見え始めた尼子氏を攻略すべく、元就が病をおして永禄5年(1562)出雲に発向、松江に荒隅城(島根県松江市国屋町南平)を築き、尼子氏居城であった広瀬の月山富田城と、それを支援する松田氏一族が拠る白鹿城との連絡を分断させる戦いであった。
【写真左】堀切
 楢崎城の本丸がある頂部と、そこから北西に向かって尾根が続き、一旦鞍部を介して向背の山が控える。この箇所には2条の堀切がある。
 この写真はそのうち北端部のもので尾根幅が絞られた箇所である。


 馬潟原というのは、松江市を東西に流れる大橋川の東南部にある現在の馬潟地区で、富田城から白鹿城へ向かうにはこの大橋川を渡河しなければならなかった。

 白鹿城に籠る尼子方の兵糧が底を突き始めたのは、この年(永禄6年)8月の半ば過ぎからで、元就は徐々に白鹿城を取り囲み、同月13日、外郭を焼き、籠城の尼子方は富田城からの支援なしでは持ち堪えることが不可能となった。このため、富田城からは兵糧と併せ、所々を押さえていた毛利氏の陣を打ち破る必要があった。
【写真左】南側の登城道
 途中で登城道は左に旋回し、本丸の南斜面に取り付いている。もっともこの道は近年設置されたような幅広のもので、当時の大手道がこの箇所であったかどうかは分からない。

 
 しかし、毛利方は広瀬月山富田城から白鹿城への補給路を分断する要所を綿密に設定していた。特にこの馬潟から北に向かって大橋川を渡河した現在の津田町付近は、最も重要な場所で、元就らによるこの判断が功をそうした。
【写真左】石垣
 本丸下の腰郭側にあるもので、幅7m前後の規模のもの。









 楢崎豊景らが馬潟原で月山富田城から救援に駆けつけた尼子勢と戦ったのは、永禄6年(1563)9月23日のことといわれる。この戦いの1ケ月後の10月29日、兵糧の尽きた白鹿城を攻略、城内の主だったものは自害、他は富田城などに逃げ込み、白鹿城はここに落城した。
【写真左】郭段
 本丸の東側に付随するもので、この先を下っていくと、当城最大の堀切があるはずだが、藪化していて踏査できない。




その後の楢崎氏

 楢崎氏の事績としては上記の出雲国馬潟原の戦いのあと、備後神辺城の内紛処理などをしたことが知られている。

 また、元亀元年(1570)、美作・高田城(岡山県真庭市勝山)においては、城主三浦貞広が山中鹿助の合力によって一旦奪われた当城を奪還したが、その6年後の天正4年(1576)3月、毛利・宇喜多連合軍によって再び攻略されることになり、そのあとに城主として入ったのが楢崎元兼である。

 元兼はおそらく豊景の嫡男か一族のものだろう。因みに、彼が高田城に在城した期間は天正11年(1583)ごろまでで、高松城攻めのあと、楢崎元兼に代わって入ったのは、宇喜多秀家である。
【写真左】本丸・その1
 およそ長径(東西)80m×短径20mの規模を持つ。手前左右は樹木があり中央部までの道周りだけが整備されている。
【写真左】本丸・その2
 本丸中心部にはご覧の小屋が建てられている。
【写真左】「楢崎山城址之碑」
 本丸跡には当城の石碑があるが、明治44年3月に楢崎氏の末裔が建立とある。
【写真左】龍王神社
 本丸北側には龍王神社が祀られている。
【写真左】基壇
 龍王神社の後ろ(北側)は約1m程度高くなった基壇がある。物見櫓の役目もしていたのかもしれない。
【写真左】宝篋印塔
 基壇の後ろには宝篋印塔1基が確認できた。
 このあとさらに、北に進む。
【写真左】本丸北端部
 錆びついた鉄棒の施設が残るが、この先は切崖となって、さらに細長い腰郭があるが、藪化していて明瞭でない。
【写真左】本丸から西方を俯瞰する。
 冬期に訪れれば手前の樹木の葉が枯れて見通しもよくなるだろうが、この日は余りよく見えない。

 西麓には久佐町の街並みが広がる。


◎関連投稿
正霊山城(岡山県井原市芳井町吉井)

2015年3月19日木曜日

大内氏遺跡・凌雲寺跡(山口県山口市中尾)

大内氏遺跡・凌雲寺跡
          (おおうちしいせき・りょううんじあと)

●所在地 山口県山口市中尾
●高さ 標高140m(比高10m)
●創建期 永正4年頃(1507)
●開基 大内義興
●指定 国指定史跡
●遺構 石垣・惣門その他
●備考 城郭寺院か
●参拝日 2014年7月31日

◆解説
 大内氏遺跡・凌雲寺跡(以下「凌雲寺」とする)は、山口市中尾にあって、以前紹介した高嶺城(山口県山口市上宇野令)の北西約4キロの位置に所在する。
【写真左】凌雲寺跡
 東西に走る石垣跡












 現地の説明板より

“大内氏遺跡・凌雲寺跡
    昭和34年11月27日指定

 凌雲寺は、大内氏30代義興を開基、了庵桂悟を開山として永正4年頃(1507)この地に創建されたと伝えられています。廃寺の年月は不明ですが、おそらく大内氏滅亡の後、いつの時代にか廃されたものと思われます。
【写真左】凌雲寺跡平面図
 右方向が北を示す。西側(上部)に川が流れているが、その川を渡河すると切崖状の傾斜面があり、城郭寺院の要素を併せ持ったものであることが分かる。


 寺は舌状をなして南に延びる台地上に営まれたもので、注目すべきは台地の南端を東西に横切る長い石垣です。これはこの寺の惣門の遺構と伝えられ、長さ約60m、高さ3m余りで、幅は2m余りあります。
 巨岩をもって築かれ豪壮な石垣であり、寺の位置、地形等から考え、有事に備えての城塞の役を兼ねたものかと思われます。

 指定区域内には凌雲寺開山塔、大内義興及びその婦人の墓と称する石塔三基が残っています。”
【写真左】遠望
 西側から見たもので、手前には床の深い川が流れている。









大内義興

 大内義興については、鏡山城(広島県東広島市西条町御園宇)でも紹介したように、大内義隆(大内義隆墓地・大寧寺(山口県長門市深川湯本)参照)の実父である。
 そして、義興の父政弘は、応仁の乱が終結するするころの西軍の総大将として畿内で活躍しているが、文明9年(1477)この戦いがおわると山口に帰還している。義興はちょうど父政弘が山口に帰還した文明9年に生まれている。

 因みに、後に覇を争うことになる出雲の尼子経久は、長禄2年(1458)に生まれているから、義興より19歳年上になる。
【写真左】案内板
 少し手前の方に駐車場があり、そこから歩いて向かう。民家の脇の細い道を進む。







足利義稙を奉じて上洛

 明応の政変により、室町幕府第10代将軍であった足利義稙(義材・義尹)は失脚、幽閉状態の身となり、小豆島に配流されるという直前に側近の手引きにより京都を脱出、前管領であった畠山政長を頼り越中に下向した。

 その後、敵対していた細川政元と和睦したことにより、越前の朝倉貞景(一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)参照)のもとに身を寄せた。しかし、政元との和睦は再び決裂し、争った結果敗北し、周防の大内義興の庇護を受けることになる。
【写真左】西側斜面
 昭和34年に指定を受けているが、その前まではおそらく田畑として使われていたのだろう。

 それまでに小規模な圃場整備など手を加えていたかもしれないが、大規模な土砂の移動はなかったものと思われるため、この法面などは当時のものと殆ど変らないと考えられる。


 永正4年(1507)6月23日、その政元は、細川澄之及び薬師寺長忠らによって謀殺され、その1か月余の8月、今度は政元を殺害した澄之が細川高国・政賢らによって殺害された。これにより細川澄元は同月2日、足利義澄に会い、家督を確認させた。

 こうした畿内の情勢は逐次周防大内氏の元に届けられていたのだろう、大内義興が足利義稙を奉じて入京を図る決意をしたのは、この年(永正4年)の12月である。
【写真左】大内義興の墓など・その1
 坂道を登ったところにあり、義興の墓をはじめ、宝篋印塔一基、五輪塔が2,3基祀られている。




 ところで、周防国のとなり石見国ではこの段階で、三隅・福屋・周布・吉見の諸氏、そしてこのころ三隅氏・吉見氏らと敵対していた益田氏までも大内義興につき従った。

 ◎石見国の上洛従随者
  1. 三隅藤五郎興信
  2. 吉見三河守成頼
  3. 佐波常陸介誠連
  4. 高橋志摩守清光
  5. 福屋太郎左衛門国兼
  6. 小笠原兵部大輔長隆
  7. 周布左近将監和兼
  8. 同       武兼
  9. 中島主殿
  10. 都野又四郎
  11. 出羽孫次郎
  12. 祖式・久利等の諸氏
  13. 大谷維忠(益田大谷城主:益田宗兼の命により)
これら石見の諸将は一旦周防の大内氏のもとに集結、永正4年(1507)12月15日、義興、義稙らと周防灘から出向した。一旦安芸国の蒲刈(丸屋城(広島県呉市下蒲刈町三ノ瀬)参照)に船を停め、その後鞆ノ津(大可島城(広島県福山市鞆町古城跡)参照)に接岸したとき、四国からも義興に馳せ参じた軍勢(伊予河野氏など)もあった。
【写真左】大内義興の墓など・その2
【写真左】塚か
 近くにはこんもりとした築山のような箇所があり、墓石の一部もしくは祠のようなものがある。
 このあと、遺跡中央部のほうへ向かう。



 義興らはこの鞆の浦で翌年(永正5年)の4月7日まで留まっている。常識的に見ると、随分とのんびりした航海だが、義興らが瀬戸内を航行している間(3月ごろ)、畿内で義興らのために協力していた細川高国が、足利澄元と不和になり、伊賀の仁木高長へ奔ったことや、敵対していた足利義澄が在京していたことなどから暫く様子を見ていた為である。

 しかし、その義澄がその後近江に奔ったため、4月27日、遂に和泉の堺浦に碇を降ろした。その後、伊賀から戻った細川高国や、畠山尚順らが彼らを出迎え、その後、二人は先駆して京へ侵攻した。6月8日のことである。ちなみに、この上洛において、出雲の尼子経久は、義興ら瀬戸内ルートとは別に、京に向かっている。おそらく、高国らが京へ侵攻した際、経久は高国らと行動を共にしていたと思われる。
【写真左】惣門の案内板
 探訪したのが7月の終わりという一番暑い盛りで、しかも「まむし注意」という表示板を見たとき、これ以上先を進むのをためらったが、慎重に歩きながら惣門跡に向かう。



 さて、事実上主(あるじ)のいない幕府側は、ついに義稙に使者を送り和議を申しれることになった。
 7月1日、義稙は義澄の官爵を奪取、再び室町幕府征夷大将軍の地位を得た。当然ながら、義興はその最大の功労者として、管領職に任じられ、畿内・中国・西海を統治することになる。
【写真左】惣門が見えてきた。
 惣門は下(南)にあり、伸び放題の雑草のため、どのあたりが道なのかよく分からない。





 その後義興は、永正15年(1518)まで在京することになるが、彼が室町幕府の将軍義稙や、管領細川高国と蜜月だったのはこの時期がピークで、先に出雲に帰った尼子経久や、安芸の武田元繁らが義興の支配地を侵すようになったため、中央(京)での強力な地盤を築けないまま、山口へ帰還することになる。
【写真左】惣門・その1
 現在は南側にこの石垣が残っているが、当時はこの位置から北にかけて「コ」の字の形で、取り囲むような石垣もあったのではないかと推察される。


 以上のように大内義興が足利義稙を奉じて上洛し、以後義興は約11年間在京することになるため、今稿の「凌雲寺」が創建されたのは、義興が上洛する直前だったと考えられる。
 そして、上洛した後は、了庵桂悟にこの凌雲寺普請を委ねていたものと思われる。
【写真左】惣門・その2
 近づいてみると、予想以上に幅がある。
【写真左】周囲を見渡す
 一見するとのどかな棚田風景にみえるが、それぞれの段に寺坊などが建てられていたのかもしれない。