2015年2月20日金曜日

越前・丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞町1)

越前・丸岡城(まるおかじょう)

●所在地 福井県坂井市丸岡町霞町1
●別名 霞ヶ城
●指定 天守(国重要文化財)
●築城期 天正4年(1576)
●廃城年 明治4年(1871)
●築城者 柴田勝豊
●城主 本多氏、有馬氏
●形態 連郭式平山城、独立式望楼型2重3階
●登城日 2014年6月16日

◆解説
 越前・丸岡城(以下「丸岡城」とする)は、現存天守では最古の建築様式をもつ平山城である。

 昨年(2014年)6月に当城を含め北陸地方を探訪した際、最初に訪れたのがこの丸岡城である。当地に着いたのが、夕方の5時前だったこともあり、登城できるのか不安だったが、なんとか天守まで登ることができた。
【写真左】丸岡城
 現存する12天守の中では、小ぶりな部類に入るが、漆喰と木製の壁をバランスよく配置したデザインは管理人の嗜好に合う。



現地の説明板より

“丸岡城の今昔
 丸岡城の歴史は、柴田勝家の養子(甥ともいわれる)である柴田勝豊が、織田信長の一向一揆の征伐後の1575年に丸岡町豊原の山に城を築いたときから始まります。でもその時の城は、城とはいっても一時しのぎの砦のようなものだったと考えられます。
【写真左】案内図
 現地に設置されているもので、中央に丸岡城があり、その周りが霞ヶ城公園となっている。

 丸岡城の南東には城主一族の1人有馬家墓所がある高岳寺があり、その西には本多家墓所の本光院、そしてそこから西に向かったところには、後段で紹介する中野重治生家跡や、新田義貞墓所がある称念寺が図示されている。


 勝豊は翌年の1576には、「まるこの岡」に移って本格的に築城をはじめました。これが丸岡城です。これは、やがて国内の統一が進み、戦のための城より、領内を治めるための意味を持つ城となっていきました。
【写真左】登り階段付近
 右の階段を上がると丸岡城に繋がる。左の建物は歴史民俗資料館だが、この日は既に閉館時間を過ぎていたため、入館していない。



 勝豊以降、丸岡城の主は、柴田勝家滅亡後に丹羽長秀家臣の青山修理亮宗勝に替わりました。

 そして関ヶ原合戦後結城秀康が越前国主として福井城に入ると、丸岡城主は秀康の家老の今村掃部助盛次になりましたが、結城秀康の子である松平忠直の時代になって、家老の本多伊豆守富正と今村掃部助盛次間での争いが起き、それに破れて改易となった盛次に替わって、1613年、城主になったのが本多成重でした。
【写真左】天守前の緑地
 当城の周辺部は公園として整備されている。天守閣以外の遺構はほとんど公園整備のためほとんど残っていないようだ。



 以後、丸岡城は本多家(43,000石)が4代、有馬家(50,000石)が8代の城主を経て、明治維新をむかえました。

 城郭や城下町は、本多家の時代、成重から三代重昭の間に完成したとされています。丸岡城天守閣の建築年は定かでありませんが、勝豊の時代か、遅くとも成重の時代までには建てられていたようです。現存する天守としては、日本で最も古い様式を残しています。”
【写真左】伝説「人柱お静」
説明板より

"これは柴田勝家の甥、柴田勝豊が天正4年(1576)に丸岡に築城の際、天守閣の石垣が何度積んでも崩れるので、人柱を入れるように進言するものがあった。そしてその人柱に選ばれたのが二人の子をかかえて苦しい暮らしをしていた片目のお静であった。

 お静は一人の子を侍に取り立ててもらうことを約束に、人柱になることを決意し、天守閣の中柱の下に埋められた。それからほどなくして、天守閣は立派に完成した。しかるに勝豊は他に移封し、お静の子は侍にしてもらえなかった。

 お静の霊はこれを恨んで、毎年、年に一度の藻刈りをやる卯月のころになると、春雨で堀には水があふれ、人々は〝お静の涙雨″と呼び、小さな墓をたて霊をなぐさめた。
「ほりの藻刈りに降るこの雨は、いとしおお静の血の涙」という俗謡が伝えられている。”


 説明板にもあるように、築城者は柴田勝家の甥・勝豊とされ、天正4年(1576)に築かれた。従って、前稿の北ノ庄城(福井県福井市中央1丁目)築城の翌年、すなわち織田信長が安土城を築いた年と同じである。
【写真左】再現模型
 当時の様子を再現したものだが、内濠は五角形の形をなし、天守郭部分の規模に比べ、かなり大きなものだったことが分かる。


日本一短い手紙

 ところで、管理人にとって、丸岡城について最初に知るきっかけとなったのは、
 「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」
で有名になった、「日本一短い手紙」からである。

 これは、徳川家康の家臣・本多重次(しげつぐ)が、のちに丸岡城主となる息子・本多成重に宛てた手紙である。天正3年(1575)、当時三河の長篠の戦(長篠城(愛知県新城市長篠市場、岩代、池内)参照) に従軍していた重次が、妻に宛てた手紙で、文中の「お仙」というのは、成重の幼名・仙千代のことである。
【写真左】1階部分
 中に入るとご覧のような展示物が掲示されていてる。

 丸岡城が他の現存天守と根本的に違う点は、通し柱が使われていないことである。
 1階部分で上階(2,3階)の荷重を全て支える構造のため、特に1階では多数ある柱のうち、6本の柱が大きく、これと連結された巨大な梁が横たわり、当時としては特異な設計だったと考えられる。


 手紙が差しだされた時期を考えると、重次の妻はまだ三河国にいたころで、丸岡城や越前国と直接の繋がりはないが、その後慶長18年(1613)に「お仙」すなわち、成重が丸岡城主になったことからこの手紙が、丸岡城と併せて知られることになったのだろう。
【写真左】2階に上がる階段
 急勾配で蹴上高が高い。階段というより梯子に近い。








 丸岡城主になって間もない、翌慶長19年(1614)、成重らは越前国主・松平忠直に従い大阪冬の陣に出陣する。晩年、忠直が改易(元和9年・1623)になった際、幕府に召し返されるなど不運が続くが、寛永元年(1624)、譜代大名となって城下町の建設に尽力した。
【写真左】天守閣から丸岡の街並みを見る。
 丸岡城の高さはあまり高くないが、周囲も全体に平坦地が多く、遮るものがなく、当時は城下と併せ、所領地の大半がこの場所から俯瞰できたものと思われる。



中野重治太閤さんまい

 さて、話は変わるが、当地丸岡町は戦前戦後にかけて活躍したプロレタリア作家・中野重治の生誕地でもある。場所は同町一本田という丸岡城から西に1キロ余り向かったところだが、残念ながら管理人は今回訪れていない。

 重治の妻は、個性的な演技で特に老婆役で一世を風靡した名女優・原泉である。二人とも既に故人だが、この原泉は島根県松江市の出身で、実は管理人の遠い縁戚にあたる。
【写真左】側面を見る。
 壁には狭間や石落としなどが見える。









 ところで、重治の生誕地である一本田には、「太閤さんまい」と呼ばれる中野家墓地がある。この名の由来は、太閤検地の際、先祖が検地でやってきた担当武士らに対し、いろいろと便宜を図ったことから、その礼として土地を与えられたという。
【写真左】石垣
 野面積み形式となっている。
 この中で「人柱」として「お静」さんが眠っているということだろうか。





 ちなみに「さんまい」はおそらく「三昧」の字をあてるものだろうが、北陸地方では「さんまい」は「火葬場」もしくは「墓地」といった意味があるので、太閤検地の際、最初からこの土地の使用目的を墓地として決めたうえで与えたものだろう。
【写真左】マルクスブルク城・丸岡城姉妹城提携調印記念の石碑
 1989年4月、ドイツのラインラント=ブファルツ州ブラウバッハにあるマルクスブルク城と姉妹城の提携を結んでいる。

2015年2月17日火曜日

北ノ庄城(福井県福井市中央1丁目)

北ノ庄城(きたのしょうじょう)

●所在地 福井県福井市中央1丁目
●築城期 天正3年(1575)
●築城者 柴田勝家
●廃城年 天正11年(1583)
●形態 平城
●遺構 石垣
●登城日 2014年6月17日

◆解説
 昨年(2014年)訪れた北陸地方の城跡探訪のとき、最初に泊まったホテルがJR福井駅前だったこともあり、ここから歩いて数分のところに北ノ庄城があることが分かり、チェックアウトする前の早朝散歩を兼ねて訪れた。
【写真左】北ノ庄城跡
 福井市の街中にあり、現在西側を「北ノ庄城址公園」、東側を「柴田公園」としている。

 跡地にはご覧の北ノ庄城を模したミニチュア版のものが建っている。


現地の説明板より

“柴田勝家が築いた北ノ庄城

 織田信長は、一向一揆を壊滅させた直後の天正3年(1575)8月に越前49万石を柴田勝家に与えた。勝家は足羽川と吉野川との合流点に北ノ庄城を構築した。現在の柴田神社付近が本丸と伝えられる。
【写真左】案内板
 通りの歩道部分に案内板が立っている。専用の駐車場はないので、車で来る場合は、近くの有料駐車所に置いていかれることをお勧めする。



 天正9年(1581)4月、北ノ庄を訪ねてきたポルトガルの宣教師・ルイス・フロイスは、本国あての書簡の中に、『此の城は甚だ立派で、今、大きな工事をしており、予が城内に進みながら見て、最も喜んだのは、城および他の家の屋根がことごとく立派な石で葺いてあって、その色により一層城の美観を増したことである…』と報告している。


【写真左】北ノ庄城「想像図」
 現地には当城の姿が想像図であるが描かれている。

 出典/西ヶ谷恭弘著・イラストレーション香川元太郎 「復元図譜 日本の城」1992年理工学社より



 また、羽柴秀吉が勝家を攻めたときに、その戦況を小早川隆景に報じた天正11年5月15日付の書簡の中では、北ノ庄城について『城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候…』と記しており、九層の壮大な天守閣であったことが知られる。
【写真左】歩道側から見る。
 現在ではビルの谷間にあるという風景だ。
【写真左】配置図
 下段が歩道部に当たる。








 勝家はまちづくりにも創意を施し、城下の繁栄のために一乗谷から社寺・民家等を北ノ庄へ移転させるなどに努めた。足羽川に架かる橋(久十九橋)を半石半木の橋に架設したといわれる。
 柴田勝家は今日の福井市の基礎を築いた人である。

 画像/福井ライオンズクラブ会員・東郷靖夫 模写”

柴田勝家とお市

 賤ヶ岳城(滋賀県長浜市木之本町大音・飯浦)で紹介したように、北ノ庄城における戦いは、賤ヶ岳の戦いでほとんど勝負が決定していた状態で行われた。その敗因は佐久間盛政が柴田勝家の命を聞き入れず、リスクの高い戦いを挑んだことにあるとされるが、これとは別に最大の理由は、前田利家による戦場離脱がもっとも大きいとされている。秀吉側からの巧妙な調略が功をそうしたわけだが、勝家からすれば、利家は明らかな「裏切り」行為と写っただろう。
 
 ところで、この北ノ庄城は、天正3年(1575)築城である。従って、信長が築いた安土城が天正4年(1576)であるので、勝家は信長より1年早く当城を築いたことになる。
 説明板にもあるように、「城中に石蔵を高く築き、天守を九重に上げ候…」と記されている。安土城が地下1階、地上6階の城郭であったので、層数だけからいえば、北ノ庄城の方が多い。さすがに主君・信長ほどのドハデな建築意匠ではなかったと思われるが、上段に紹介している「想像図」の如く、おそらく当時としては壮大な城郭だったと考えられる。
【写真左】柴田勝家像
 随分とイカツイ顔で、まるで金剛力士像のようだ。
説明板より

“柴田勝家(~1583)

 勝家は尾張国愛知郡に生まれ、織田信長の重臣となる。天正3年(1575)8月、越前一向一揆を滅ぼした信長は、越前の大部を勝家に与えた。勝家は北ノ庄に城郭を築き、壮大な天守閣を造営した。

 信長の亡き後、天正11年(1583)4月、賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に敗れた勝家は、同月24日北ノ庄城にて、妻のお市の方と共に自害した。墓はお市の方とともに、福井市左内町の西光寺にある。享年62歳と伝えられる。

辞世の句
「夏の夜の 夢路はかなき跡の名を
    雲井に掲げよ 山ほととぎす」
【写真左】お市の方
 美人であることはこの絵からも分かるが、それ以上に意志の強い戦国期の女性という雰囲気が感じられる。

説明板より

“お市の方(~1583)
 お市の方は、織田信長の妹で絶世の美人といわれ、政略的婚姻により近江の小谷城主浅井長政に嫁ぎ、1男3女をもうけた。
 天正10年(1582)10月、3人の娘を連れて柴田勝家に嫁ぐが、翌年4月24日羽柴秀吉に滅ぼされた。勝家はお市の方に娘と共に城を出るように諭したが、お市の方は娘3人を秀吉の陣におくったのち、北ノ庄城で夫婦静かに盃を交わし、辞世の和歌を残して自害した。画像は淀殿の命によって描かれたもの。享年37歳と伝えられる。

辞世の句
「さらぬだに うちぬる程も夏の夜の
    夢路を誘う ほととぎすかな」
  画像/重要文化財 高野山持明院蔵”

茶々(淀殿)、お初、お江

 北ノ庄城の戦い後、残ったお市の三人の娘である。
【写真左】茶々
説明板より

“茶々(淀殿)(~1615)
 お市の方の長女茶々は淀殿とも呼ばれた。
 母はお市の方で父は浅井長政。長政は織田信長に滅ぼされた。お市の方は3人の娘をともなって柴田勝家と再婚し、越前北ノ庄へ移ったが、その後、勝家が羽柴秀吉に敗れたとき、茶々は2人の妹(お初・お江)と共に城から逃れた。
 茶々は秀吉の側室となって寵愛を受け秀頼をもうけたが、慶長19年(1614)徳川家康の大軍と交戦することになり、翌元和元年5月8日、秀頼と共に大阪城中で自害した。享年49歳と伝えられる。”
【写真左】お初
説明板より

“お初(~1633)
 お市の方の二女お初は、姉茶々と妹のお江と共に秀吉に引き取られ、のちに従兄弟の京極高次に嫁ぎ忠高をもうける。高次は慶長5年(1600)関ヶ原合戦ののち、若狭国小浜城主(所領9万2千石)となる。
 慶長14年お初は夫と死別後、剃髪して常高院と号した。この頃からたびたび淀殿を訪ねている。大坂の陣には徳川家康の命を受け、大阪城に使者として入り、姉淀殿との和平の交渉をした。寛永10年(1633)8月27日、江戸において死去。享年66歳と伝えられる。
  画像/小浜市・常高寺蔵”
【写真左】お江
 お江については、以前紹介した小浜城(福井県小浜市城内1丁目)でも取り上げているのでご覧いただきたい。

説明板より

“お江(1573~1626)
 三女お江は、豊臣秀勝などと再婚を重ねた後に、徳川2代将軍秀忠の正室となる。秀忠との間には7人の子宝に恵まれた。長男家光は3代将軍に、次男忠長は駿河大納言となる。長女千姫は淀殿の長男秀頼の夫人になり、次女珠姫は加賀藩前田家の養女、三女勝姫は福井2代藩主松平忠直に嫁いでいる。四女初姫は京極忠高室、五女和子(東福門院)は後水尾天皇に嫁ぎ中宮となる。寛永3年(1626)9月15日、江戸城において生涯を終えた。享年54歳。
  画像/東郷靖夫 模写”
【写真左】石垣跡
説明板より

“北ノ庄城石垣
 柴田神社周辺は、柴田勝家の築いた北ノ庄城(1575~83)天守閣跡と伝えられています。
 ここに展示している石は、勝家築城の北ノ庄城の石垣遺構と考えられます。

 発掘調査の結果からは、この石垣は本来、高く積まれていたが、江戸時代、結城秀康の福井城築城に際し取り除かれ、石垣の根石のみが残った状態であると考えられます。
 石垣は、ここより南でも同様に見つかっています。石垣の前面には、堀が広がっていました。
  福井市教育委員会”
【写真左】柴田神社
 左が柴田神社で、右側には三姉妹神社が祀られている。
【写真左】歩道から西側を見る。
【写真左】堀跡
 かなり浅いものだが、当時はもっと深かったものと思われる。
【写真左】石垣と堀跡

2015年2月14日土曜日

朝倉義景墓所(福井県大野市泉町)

朝倉義景墓所(あさくらよしかげぼしょ)

●所在地 福井県大野市泉町
●指定 大野市指定史跡
●備考 義景公園
●参拝日 2014年6月17日

◆解説
 前稿越前・大野城(福井県大野市城町)でも紹介したように、大野城の麓には一乗谷を本拠とした朝倉義景の墓がある。この場所は、織田信長に攻められ、大野郡(市)に逃れたが、最後は裏切った同族の朝倉景鏡に襲撃され、あえなく自害した所といわれている。
【写真左】「朝倉義景史跡」と刻銘された石碑
 なお、この付近は「名水のまち越前おおの」というキャッチフレーズがついた「義景公園」という場所にもなっている。
 夏場などは涼を求めて地元市民などが訪れるようだ。


説明板より

“大野市指定史跡 朝倉義景墓

 朝倉義景は、一乗谷に本拠地を置く戦国大名である。幼名は長夜叉丸。天文17年(1548)に父の朝倉孝景が急死し、16歳で家督を継承した。元服後は孫次郎延景と称し、天文21年(1552)に室町幕府将軍足利義輝の「義」の一字を賜り、義景と改めている。
【写真左】墓所の配置図
 中央に義景の墓があり、少し文字が小さいが、①は鳥居景近墓、②は高徳院・祥順院・愛王丸墓。③は瀧池家墓が建立さている。


 義景は、織田信長に対抗するため近江への出兵を繰り返し、天正元年(1573)の戦いに大敗すると、一乗谷に撤退し、最終的に大野郡の六坊賢松寺に逃れた。しかし、織田軍に通じた大野郡司である従兄弟の朝倉景鏡の襲撃に遭い自害した。

 六坊賢松寺は既に廃寺となっている。場所は定かではないが、今の曹源寺(大野市明倫町)あたりにあったのではないかとの説もある。
 江戸時代特有の形をしている五輪塔(義景墓)は、寛政12年(1800)、旧家臣の子孫によって曹源寺境内に建立され、文政5年(1822)に現在地に移設されたものである。
【写真左】朝倉義景の墓・その1
 説明板にもあるように、義景が実際に自害した場所は特定されていない。

 しかし、当時逃れた六坊賢松寺という場所が、推測される現在の明倫町曹源寺とすれば、当該墓所から北東へわずか200m余りほどの距離なので、さほどの誤差はないと思われる。
【写真左】朝倉義景の墓・その2

 なお、曹源寺は寛政12年(1800)ごろまではあったようで、当時朝倉家旧臣であった松田氏(花倉)が、最初に当院に墓を建立し、文政5年(1822)に、同氏が現在地に移したとされる。


 五輪塔の後方には、義景の近臣・鳥居景近と高橋景倍の墓がある。さらにその後方に、義景の母高徳院、同夫人の祥順院、次男愛王丸を合祀した墓が、明治44年(1911)に旧家臣の子孫によって建立された。
 また、文政9年(1826)に建立された一乗後主廟碑、旧家臣瀧池家の墓、明治34年(1901)に荒廃していた墓所を有志らが募金し、修理した時の石塔がある。”


朝倉義景

 朝倉義景については、以前取り上げた一乗谷朝倉氏遺跡・庭園(福井県福井市城戸ノ内町)ですでに紹介しているが、越前朝倉氏第5代当主である。説明板にもあるように、天正元年(1573)の織田信長との戦いで大敗し、その結果自害している。

【写真左】一乗谷朝倉氏居館
所在地 福井市城戸ノ内町











【写真左】鳥居景近の墓(左)
 右の墓は、景近と同じく側近の高橋景倍の墓。







 元亀元年(1570)6月28日、織田信長は徳川家康と与し、近江姉川において、浅井長政(小谷城・その1(滋賀県長浜市湖北町伊部)参照)、及び朝倉義景の一族・景健(かげたけ)連合軍と戦い降した。

 しかし、その後、9月本願寺光佐(顕如)が、三好三人衆に応じて挙兵、門徒らが信長の陣営を急襲した(「石山合戦始まる」)ため、信長は一旦、朝倉義景・浅井長政と和睦し、岐阜に戻った。
【写真左】義景の母親・高徳院の墓
 
 戒名 高徳院殿昌壽宗繁大姉








 一時的といえ和睦の意味が、双方不可侵の形をとっていたわけだが、翌元亀2年(1571)9月、今度は延暦寺衆徒が朝倉義景を支援しているのを知った信長は、これに怒り、延暦寺を焼打ちにした。

 また、このころから、信長は将軍として担ぎ出した足利義昭と不和になり、元亀3年(1572)には、「異見十七箇条」を義昭に提示し、失政を諌めた。
 これに対し、義昭は翌天正元年(1573)2月26日、武田信玄・本願寺顕如・朝倉義景・浅井長政らと信長打倒の計画を謀った。
【写真左】義景の正室・祥順院の墓
 
戒名 祥順院月峰清玉大姉








 同年4月4日、信長は上洛して、足利義昭を二条城に囲み、7月18日、宇治槙島城にあった義昭を攻め、義昭は河内若江城に逃れた。事実上の室町幕府の滅亡である。

 休む間もなく、信長は今度は越前に矛を向け、朝倉義景討伐に向かった。8月20日、信長の猛攻の前に、義景は落ち延び先の大野郡賢松寺で、匿ってくれた従兄弟の朝倉景鏡の裏切りによる襲撃に遭い、ここに自害した。享年41歳。

義景辞世の句

 七顛(転)八倒 四十年中 無他無自 四大本空

 かねて身の かかるべしとも 思はずば今の命の 惜しくもあるらむ
【写真左】瀧池先祖累代之墓
旧家臣瀧池家の墓である。
なお、義景の息子愛王丸の墓については、管理人は確認していないが、戒名は次の通り。

戒名 華林宗春大居士
【写真左】義景庵
 全体が公園となっており、一角には「義景庵」と命名された休憩所が建っている。
 城下町のため、通りの道幅は狭いが、奥にしっかりとした観光客用の駐車場も設置されている。
【写真左】越前大野城を遠望する。
 ほぼ真北に越前大野城の天守が見える。

2015年2月13日金曜日

越前・大野城(福井県大野市城町)

越前・大野城(えちぜん・おおのじょう)

●所在地 福井県大野市城町
●指定 県指定史跡
●高さ 249m(比高90m)
●築城期 天正3年(1575)
●築城者 金森長近
●城主 金森氏・松平氏・土井氏など
●城郭構造 梯郭式平山城
●天守構造 複合連結式二重2階
●遺構 石垣・堀など
●登城日 2014年6月17日
 
◆解説
 越前・大野城(以下「大野城」とする)は、以前取り上げた平泉寺白山神社(福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上)から南西に約10キロ向かった越前大野市にあって、復元された天守を持つ近世城郭である。
【写真左】越前・大野城遠望
 北西麓側から見たもの。かなり離れた場所から撮ったものだが、小さいながらも天守が確認できる。



 現地の説明板より

“金森長近
 織田信長の部将です。軍功により天正3年(1575)に信長から大野郡の3分の2を与えられ、越前大野城を築城しました。
 越前大野城は平山城の形式で、亀山の山頂に本丸が置かれ、亀山の東麓に二の丸や三の丸、内堀や外堀が配されました。
 また長近は、城下町の建設も行い、亀山の東側に今の町割りの木曽となる街路や水路を整備しました。
 本能寺の変後、豊臣秀吉に仕え、天正14年(1586)、飛騨国を与えられ、大野から飛騨高山へと移り、その地で再び城と城下町を建設しました。”
【写真左】亀山公園(大野城)案内図
 大野城は南西側から北東部に向かって細長い小山・亀山に築かれている。
 登城口は、この日登城口とした「南登り口」と、「西登り口」、「北登り口」の3か所ある。
 なお、東麓部には武家屋敷跡や藩主隠居跡などがあるようだが、これらについては当日探訪していない。



天空の城・越前大野城

 このところ、但馬竹田城が「天空の城」として有名になり、急激に多くの観光客が訪れるようになったが、この越前大野城もまた「天空の城」と呼ばれるようになった。当城は但馬竹田城とは違って、雲の上に天守閣が聳えるものである。
【写真左】「南登り口」付近
 大野城の規模は、面積約11.4haで、東斜面は急斜面が多い。







 標高249mで、比高は80~90mとさほど高くないが、他のサイトで紹介している雲海の中に浮かんだ当城の姿は、天守を見せていることもあって、但馬竹田城とはまた別の趣がある。
 ただ、この雲海が姿を見せる時期は一年のうちでも11月ごろに限られているようで、管理人が訪れたこの時期(6月)などは無理のようだ。
【写真左】百間坂
 江戸期、大野藩の家臣達が本丸に向かう際、使われた坂で、写真の右側の道。
 今でも使用できるが、傾斜や階段が多いため、この反対側の整備された道(明治時代以降に造られた)を進む。(下の写真参照)


金森長近

 築城者は信長の家臣であった金森長近である。美濃土岐氏の庶流とされる大畑氏が、近江国野洲郡金森(現・守山市金森)に居を構え、当地名から金森を名乗ったのに始まるという。長近の父金森宗近が18歳になったとき、近江を離れ、尾張の織田信長の父・信秀に仕え、その後息子長近も信秀から信長へと仕えた。
【写真左】南側の道
 ブロックなどで整備された道だが、一般の者は車などでは通れない。右側の石積も近代になって改修されたもののようだ。

 なお、この日城内を何度もウオーキングしている人たちがいたが、高低差がかなりあるのでいい運動になるだろう。



 多くの戦歴を持つ武将で、特に天正3年(1575)、越前の一向一揆を降したあと、その武功が認められ、当地大野郡の3分の2を与えられた。
 信長亡き後は、賤ヶ岳の戦いとなったとき、柴田勝家に属していたが、途中から前田利家らと共に秀吉に従うことになり、天正13年(1584)の佐々成政らによる「富山の役」において、成政方だった飛騨の三木自綱を下し、その後飛騨3万3千石で越前大野城から、飛騨高山へと転封された。
【写真左】「大野丸」のレリーフ
 登城道の途中には、江戸末期に建造された帆船「大野丸」のレリーフが建立されている。

説明板より

“大野丸

 旧大野藩主土井利忠は早くから北辺開発の雄図を抱き、安政3年(1856)内山隆佐らに蝦夷地を探検させ、同5年幕府の許可を得て、サハリン(樺太)の開拓に従事した。

 北海は風波が荒く、丈夫な船でなければ通航が自在でないので、武蔵国羽田において、2本マストの西洋型帆船を造らせた。
【写真左】土井利忠像
 南側登城道の南端部に差し掛かると、幕末期の藩主土井利忠の像が建立されている。


 船は安政5年6月に竣工し、大野丸と名付けられた。長さ18間(約32.4m)、幅4間(約7.2m)深さ3間(約5.4m)。乗員は30名であった。同年8月吉田拙蔵が船長となり、神戸、下関を経て敦賀に回航されたが、各地から来観するものが多く、賞賛のまととなった。
 大野丸は、安政6年3月から敦賀蝦夷地間を往来し、早川弥三左衛門らの力もあずかって、開拓の事業は大いに進展した。
 同年8月には、奥尻洋で座礁したアメリカ船を救い、幕府の褒賞と米国の感謝を受けた。
 元治元年(1864)8月、根室沖で遭難した大野丸は、建造後6年有半で惜しくも沈没した。”
【写真左】尾根南端部から本丸方面を見る。
 ここから北東方向に伸びる尾根が続き、その方向に向かうと本丸に至る。
【写真左】北側の休憩所付近
 本丸の東側に北東に向かって道が伸び、一旦この休憩所までくると、ここから向きを変えて南西方向に向かって少し坂道が続く。この道を進むと本丸に至る。
 右側には「越前大野城」と刻銘された石碑が建つ。
【写真左】金森長近像
 休憩所付近には築城者であった金森長近の像が建立されている。
 出家している姿だが、これは柴田勝家が賤ヶ岳で敗れると、秀吉に降伏した際、剃髪したといわれている。

 それにしても異常に頭が大きく、胴体と比べるとアンバランスに見える。
【写真左】大野城天守
説明板より

“越前大野城跡(福井県指定史跡)

 越前大野城跡は、大野盆地の西側い位置する標高約250mと、その東側に縄張を持つ平山城跡です。織田信長の部将・金森長近により天正年間(1573~93)の前半に築城されました。

 越前大野城は亀山を利用し、外堀・内堀をめぐらし石垣を組み、天守閣を構えるという中世の山城にはみられなかった新しい方式の城でした。

 江戸時代の絵図には、本丸に望楼付き2層3階の小天守・天狗櫓などが描かれています。本丸の石垣は、自然石をほとんど加工しないで積み上げる「野面積み」といわれるものです。
 江戸時代には町の大火により、城も幾度か類焼し、安永4年(1775)には本丸も焼失しましたが、寛政7年(1795)に再建されました。廃藩後、城の建造物は取り壊され、石垣のみが残されました。”
【写真左】野面積み
 大阪城などに使われているような大きな石はないが、この工法は水はけが非常によく、堅固な造りだとされている。
【写真左】天守に向かう階段付の坂
【写真左】虎口
 上の坂道とは別に、西側に設けられたもので、山城的には食違い虎口の形態か。
【写真左】権現宮跡
 天守に入る前の郭段に権現宮という祠があったようだ。
【写真左】大野城から戌山城(いぬやまじょう)を見る。
 天守閣から西方1キロに戌山(犬山)城が見える。

 康暦の政変(土居構(愛媛県西条市中野日明)参照)で細川氏を放逐した斯波義将が、畠山氏の越中守護職と交換し、越前守護職を得た際、義将は弟の義種に大野郡を任せた。そして、義種は犬山にこの戌山城を築城した。
 その後、朝倉氏の時代になると殆ど使われていなかったが、金森長近が大野城を築城する前、短期間居城としていたという。

 管理人は登城していないが、サイト「城郭放浪記」さんの写真を見ると、見ごたえのある遺構が残っているようだ。この近くに登ると、「天空の城・大野城」が見られるらしい。標高324m。比高160m。
【写真左】大野城から朝倉義景の墓を遠望する。
 南麓には次稿で予定している「朝倉義景の墓」が見える。
【写真左】東方を俯瞰する。
 奥の山並みを超えると岐阜県の郡上市に至る。
【写真左】北方を俯瞰する。
 大野城の東方を横断する大河・九頭竜川が右手に流れているが、この川を下ると、平泉寺白山神社(福井県勝山市平泉寺町平泉寺56河上)などがある勝山市に繋がる。