毛利元秋墓所・宗松寺跡
●所在地 島根県安来市広瀬町広瀬富田
●創建 不明
●遺構 石垣・溝
●備考 宝篋印塔
●遺物 陶磁器・瓦
●探訪 2014年2月23日
◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」等)
今稿も前稿に続いて新宮谷に残る史跡を取り上げる。
新宮谷に入ってしばらくすると、左側の農道脇に「毛利元秋の墓」と書かれた案内板がある。この場所は、宗松寺跡といわれ、この地に毛利元秋の墓が祀られている。
【写真左】毛利元秋の墓・その1
宝篋印塔の形式で、小ぶりな墓石である。
現地の説明板より
“毛利元秋公墓所(宗松寺跡)
1566年(永禄9年)尼子義久が毛利の軍門に降ったのち、2年間余、毛利方の武将天野隆重が城督として城を預かっていたが、隆重の懇請により、1569年(永禄12年)毛利元就五男元秋が入城した。
没年は、1585年(天正13年)34歳。この地に葬られた。”
【写真左】宗松寺跡・その1
新宮谷に入って、新宮党方面に向かうと、途中で農道わきに標識があり、田圃の西側に当寺跡が残っている。
ここをまっすぐに進むと、元秋の墓が見えてくる。
毛利元秋
毛利元秋はこれまで、神魂神社(島根県松江市大庭町)、満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)・その2、などで紹介しているが、元就の五男といわれ、母は側室で三吉氏から嫁いできたといわれている。
弘治元年(1555)10月、陶晴賢を厳島に破ったあと、元就はしばらく防長の平定に奔走するが、弘治3年(1557)3月にはほぼ両国をその支配下に治めた。この戦いで武功を挙げた者の中に、周防国の国人領主・椙杜(すぎもり)隆泰(鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)参照)がいた。
【写真左】宗松寺跡・その2
奥に進んで行くと、最初に元秋の墓が右側にあり、その西側には3段程度の削平地が残る。
おそらく、これらの段に宗松寺関連の寺坊が建っていたものと思われる。
隆泰には嫡男が居なかったため、元就は五男・元秋を養子として送り込んだ。そして元秋は、椙杜元秋と名乗ることになる。
その後、元就が月山富田城を攻略した永禄9年(1566)の11月21日、尼子氏に代わって、当城を守備したのが天野隆重(財崎城(広島県東広島市志和町志和堀)参照)である。因みに、前城主であった尼子義久兄弟が富田城を下城するのは、それから5日後の28日だったとされている(「萩閥108」)。
月山富田城の城番・天野隆重はその後、永禄11年(1568)6月ごろまで守城しているが、隆重はその頃齢65を数えていた。また、富田城にて尼子氏放逐をやり遂げたものの、その後の鹿助らの動きも不気味に感じていたのだろう。
【写真左】毛利元秋の墓・その2
墓石はこの墓以外にも上の段に数基残っているが、近世のものがほとんどのようだ。
この年の6月10日、毛利元就は椙杜元秋に富田城を守らせ、同国にて3,500貫の地を与えることとした(「萩閥30」)。元就のこの命はおそらく、隆重による懇請がその背景にあったものと思われる。ただ、実際に元秋が富田城に入ったのは、明くる永禄12年(1569)1月16日である(「萩閥3」)。
富田城へ入城した椙杜元秋は、このとき椙杜氏から再び毛利氏へと姓を戻した。当時15歳前後であったといわれるから、加冠(元服)を兼ねた富田城新城番だったと考えられる。その後、隆重は元秋を補佐していくことになる。
【写真左】墓所から新宮谷を見る。
丁度この辺りからこの谷が北と南に分かれる。
中央の谷を進むと、鹿助屋敷跡へ、左側の方へ進むと新宮党屋敷跡にそれぞれ繋がる。
山中鹿助らによる富田城奪還の戦い
元秋が富田城に入ったその年(永禄12年)の6月23日、山中鹿助幸盛は尼子勝久を擁して隠岐国から島根半島北岸の千酌浜に船を着け、そこから南方に聳える忠山に入った。尼子再興軍による出雲国における戦いの始まりである(忠山城(島根県松江市美保関町森山)参照)。
7月初旬、元就は直ちに富田城に対し、主だった銃兵を派遣させ防備を固めさせた。富田城を中心として出雲国内における尼子再興軍は神出鬼没というべきゲリラ戦法で毛利方を攪乱した。富田城を守備する元秋・隆重らは手薄ながら頑強に戦い、尼子方を退けた。
その後元亀2年(1571)まで尼子再興軍による戦いが断続的に行われていくが、遂にこの年(元亀2年)8月、伯耆国末吉城で鹿助を捕え(後に逃走)、最期の砦であった尼子氏の真山城(島根県松江市法吉町)が落城し、尼子勝久は敗走、事実上出雲国における尼子再興軍の戦いは終結を迎えた。
ところで、この戦いの終結の朗報を聞く2か月前の6月14日(元亀2年)、元就は安芸吉田の郡山城の邸で、波乱にとんだ75歳の人生を終えた。
【写真左】月山富田城と毛利元秋墓所を遠望する。
月山富田城の西方に聳える京羅木山からみたもの。
元秋の事績
さて、富田城番を務めた元秋であるが、その後の意思決定や裁断は事実上吉川元春に委ねられている。
おもな事績は次のようなものであった。
(もうりもとあきぼしょ・そうしょうじあと)
●所在地 島根県安来市広瀬町広瀬富田
●創建 不明
●遺構 石垣・溝
●備考 宝篋印塔
●遺物 陶磁器・瓦
●探訪 2014年2月23日
◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」等)
今稿も前稿に続いて新宮谷に残る史跡を取り上げる。
新宮谷に入ってしばらくすると、左側の農道脇に「毛利元秋の墓」と書かれた案内板がある。この場所は、宗松寺跡といわれ、この地に毛利元秋の墓が祀られている。
【写真左】毛利元秋の墓・その1
宝篋印塔の形式で、小ぶりな墓石である。
現地の説明板より
“毛利元秋公墓所(宗松寺跡)
1566年(永禄9年)尼子義久が毛利の軍門に降ったのち、2年間余、毛利方の武将天野隆重が城督として城を預かっていたが、隆重の懇請により、1569年(永禄12年)毛利元就五男元秋が入城した。
没年は、1585年(天正13年)34歳。この地に葬られた。”
【写真左】宗松寺跡・その1
新宮谷に入って、新宮党方面に向かうと、途中で農道わきに標識があり、田圃の西側に当寺跡が残っている。
ここをまっすぐに進むと、元秋の墓が見えてくる。
毛利元秋
毛利元秋はこれまで、神魂神社(島根県松江市大庭町)、満願寺城(島根県松江市西浜佐田町)・その2、などで紹介しているが、元就の五男といわれ、母は側室で三吉氏から嫁いできたといわれている。
弘治元年(1555)10月、陶晴賢を厳島に破ったあと、元就はしばらく防長の平定に奔走するが、弘治3年(1557)3月にはほぼ両国をその支配下に治めた。この戦いで武功を挙げた者の中に、周防国の国人領主・椙杜(すぎもり)隆泰(鞍掛山城(山口県岩国市玖珂町字谷津)参照)がいた。
【写真左】宗松寺跡・その2
奥に進んで行くと、最初に元秋の墓が右側にあり、その西側には3段程度の削平地が残る。
おそらく、これらの段に宗松寺関連の寺坊が建っていたものと思われる。
隆泰には嫡男が居なかったため、元就は五男・元秋を養子として送り込んだ。そして元秋は、椙杜元秋と名乗ることになる。
その後、元就が月山富田城を攻略した永禄9年(1566)の11月21日、尼子氏に代わって、当城を守備したのが天野隆重(財崎城(広島県東広島市志和町志和堀)参照)である。因みに、前城主であった尼子義久兄弟が富田城を下城するのは、それから5日後の28日だったとされている(「萩閥108」)。
月山富田城の城番・天野隆重はその後、永禄11年(1568)6月ごろまで守城しているが、隆重はその頃齢65を数えていた。また、富田城にて尼子氏放逐をやり遂げたものの、その後の鹿助らの動きも不気味に感じていたのだろう。
【写真左】毛利元秋の墓・その2
墓石はこの墓以外にも上の段に数基残っているが、近世のものがほとんどのようだ。
この年の6月10日、毛利元就は椙杜元秋に富田城を守らせ、同国にて3,500貫の地を与えることとした(「萩閥30」)。元就のこの命はおそらく、隆重による懇請がその背景にあったものと思われる。ただ、実際に元秋が富田城に入ったのは、明くる永禄12年(1569)1月16日である(「萩閥3」)。
富田城へ入城した椙杜元秋は、このとき椙杜氏から再び毛利氏へと姓を戻した。当時15歳前後であったといわれるから、加冠(元服)を兼ねた富田城新城番だったと考えられる。その後、隆重は元秋を補佐していくことになる。
【写真左】墓所から新宮谷を見る。
丁度この辺りからこの谷が北と南に分かれる。
中央の谷を進むと、鹿助屋敷跡へ、左側の方へ進むと新宮党屋敷跡にそれぞれ繋がる。
山中鹿助らによる富田城奪還の戦い
元秋が富田城に入ったその年(永禄12年)の6月23日、山中鹿助幸盛は尼子勝久を擁して隠岐国から島根半島北岸の千酌浜に船を着け、そこから南方に聳える忠山に入った。尼子再興軍による出雲国における戦いの始まりである(忠山城(島根県松江市美保関町森山)参照)。
7月初旬、元就は直ちに富田城に対し、主だった銃兵を派遣させ防備を固めさせた。富田城を中心として出雲国内における尼子再興軍は神出鬼没というべきゲリラ戦法で毛利方を攪乱した。富田城を守備する元秋・隆重らは手薄ながら頑強に戦い、尼子方を退けた。
その後元亀2年(1571)まで尼子再興軍による戦いが断続的に行われていくが、遂にこの年(元亀2年)8月、伯耆国末吉城で鹿助を捕え(後に逃走)、最期の砦であった尼子氏の真山城(島根県松江市法吉町)が落城し、尼子勝久は敗走、事実上出雲国における尼子再興軍の戦いは終結を迎えた。
ところで、この戦いの終結の朗報を聞く2か月前の6月14日(元亀2年)、元就は安芸吉田の郡山城の邸で、波乱にとんだ75歳の人生を終えた。
【写真左】月山富田城と毛利元秋墓所を遠望する。
月山富田城の西方に聳える京羅木山からみたもの。
元秋の事績
さて、富田城番を務めた元秋であるが、その後の意思決定や裁断は事実上吉川元春に委ねられている。
おもな事績は次のようなものであった。
- 元亀2年(1571)8月28日、真山城落城を祝し、神馬を神魂神社に奉納す(「神魂神社文書」)。
- 同年11月27日、出雲国荒島の土地を安芸国厳島社に寄進す(「野坂文書」)。
- 元亀3年(1572)6月20日、別火(べっか)七郎に揖屋社別火職を安堵す(「井上文書」)。
- 天正9年(1581)10月24日、出雲国荒島の土地を一畑寺に寄進す(「一畑寺文書」)。
そして、このあと元秋が一時富田城を離れた節が見えるのが次の史料である。
- 天正11年(1583)6月、毛利元秋、富田城に移る(「寛政諸家譜」)。
これはおそらく、この前年備中高松城攻めにおいて、秀吉軍と毛利軍が対峙した際、元秋も当地に従軍していたと思われる。
一旦富田城に帰還したものの、その2年後の天正13年(1585)5月3日、病気により34歳で夭逝した(「吉川家文書」)。