鳥坂城(とさかじょう)
●所在地 愛媛県西予市宇和町久保
●別名 岩の森城
●築城期 戦国時代
●築城者 村上吉継
●高さ 330m(比高60m)
●遺構 郭・土塁・堀切・竪堀・井戸等
●登城日 2014年1月28日
◆解説(参考資料「サイト「愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』、永禄期の南伊予の戦乱をめぐる一考察 川岡勉(日本史学研究室)等)
大洲市と南の西予市を結ぶ国道56号線(宇和島街道)の境には鳥坂峠がある。現在国道は鳥坂隧道という長さ凡そ1キロ余りのトンネルが両市を繋ぎ、便利にはなっている。しかし、それでも車で大洲側からこの峠を越えるときは、急坂・急カーブなどが多い。
ましてや中世戦国期では、このトンネルの上にあった峠道をこえることはかなりの負担が伴っただろう。現在、その旧道は遍路道となっており、最高地点は標高470mである。
【写真左】鳥坂城遠望
東麓側から見たもので、高くなったところが主郭部分に当たる。
鳥坂隧道トンネルを抜けると、すぐに右手に杉山となった小丘が見える。鳥坂城である。
伊予宇都宮氏と西園寺氏
永禄9年(1566)11月、毛利氏が山陰の雄・尼子氏の居城・月山富田城をついに陥落させた。このころ中央では尾張の織田信長が美濃を攻め寄せ、あくる10年、斉藤龍興を稲葉山城に破り、岐阜城と名を替え入城した。
こうした戦国期東西の騒乱の中で、四国の伊予国における版図もまた大きな変化を迎えていた。伊予国の盟主といわれた河野氏は、本拠地中予・東予はかろうじて支配下に治めていたものの、南予に至っては、支配はおろか逆に土佐国一条氏などからの脅威に晒されていた。
【写真左】鳥坂峠を遠望する。
手前に見える道が旧道(遍路道)で、鳥坂城の東麓を回り込むように繋がっている。
写真奥の山を越えると大洲市に至る。
ところで、伊予の河野氏と土佐の一条氏の間に挟まれていたのが、大洲を本拠とする宇都宮氏とその南方の宇和を支配していた西園寺氏である。
両者は弘治2年(1556)ごろ、領土を巡って争いを起こしている。この戦いは河野氏(通宣)の仲裁で一旦和睦を結んでいるが、一時的なもので、この対立もまた永禄年間における毛利氏の伊予出兵の直前まで続くことになる。
【写真左】大洲藩鳥坂口留番所跡
西予市側の旧道麓には藩政時代の番所跡が残されている。
戦国時代鳥坂城が要衝であったように、江戸時代になっても重要な場所であった。写真の左奥にはその建物が残されている。
きっかけとなったのは、記録上永禄9年(1566)土佐一条氏が豊後の大友氏の支援を受けて、宇和の西園寺氏を攻略したことからとされている。
このため、土佐国と境を接する南予(現在の北宇和郡・松野町、鬼北町)の広見川(四万十川支流)沿いには、以前紹介した河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)をはじめとして、夥しい中小の城砦が残っており、その激しさを物語る。
【写真左】四国のみち 案内板
この坂(旧道)を1.3キロ登ると鳥坂峠にたどり着く。
鳥坂城の登城案内などは全くないので、とりあえず負担のかからない旧道を進む。
さて、翌10年(1567)、豊後大友氏の支援を受けて北進してきた一条氏が、敵対する西園寺氏を攻略してきたことに意を強くしたのだろう、大洲宇都宮氏が河野氏に対し、明確に敵対する構えを見せた。
こうなると、西園寺氏は北から宇都宮氏、南からは一条氏によって挟み撃ちにされる構図となる。そして、西園寺氏が攻略されると、河野氏は完全に伊予において孤立することになる。
【写真左】旧道側の登城開始ヵ所
東麓の登り坂となった旧道を進むと、今度は左に旋回し、再び鞍部となった箇所から右へと道は回り込むようになっている。
鳥坂城側はこの写真の左側になるため、この附近からなだらかな斜面を探しながら登城を開始した。
なお、鞍部となった旧道の北(西側)には広大な削平地が確認できた。鳥坂城の主郭付近はさほど大きなものでないことから、陣所跡であったかもしれない。
河野氏の南予攻め
河野氏はこのため急きょ阻止すべく兵を挙げた。動いたのは河野氏重臣・来島通康と平岡房実である。この時の最初の戦略は、武力よりも調略、すなわち宇都宮氏等に対して、内部を混乱させるべく、内応や誘降といった懐柔策を主体とするものであった。
その標的とされたのが、前稿で紹介した大野直之や、地蔵ヶ嶽城(大洲城)から北へ約6キロほど向かった山間地・上須戒を治めていた土豪・城戸孫三郎一族らである。
【写真左】主郭北端部の岩塊
縄張は主郭を北端に配置した梯郭式に近い。
この日は東側(旧道側)の斜面まで回り込み、上を目指したが、この面には郭の痕跡はあまり認められず、むしろ切崖だったせいか、踏み込む場所がなく、結局南側までまわってから主郭を目指した。
鳥坂城(峠)・高島山の戦い
そしてその年(永禄10年)の秋ごろになると、河野氏(来島・平岡氏)はさらに南下し、喜多郡(大洲市)、宇和郡(西予市)の境目となる鳥坂峠の西麓に鳥坂城を築いた。これに対し、一条氏側は鳥坂峠東方の高島山に陣を布いた。
河野氏の中心人物であった村上通康はこの年の9月、現有の戦力で一条氏側と戦うことに限界を感じ、安芸の毛利氏に使者を送り、支援の要請を行った。しかし、これに対し毛利氏側ではすぐに伊予にむけて一族が出陣することはできなかった。豊後の大友氏との戦いが行われていたからである。
最終的には毛利氏(小早川隆景ら)が出陣することになるが、支援を要請した村上通康は陣中で急病に罹り、ほどなくして急逝してしまった。
【写真左】南側の郭段
この位置からは比高の低い郭段が連続していたため、比較的容易に進むことができる。
竹林がないともう少し形状が分かりやすいのだが。
結局毛利氏の伊予出陣の態勢が整ったのは、豊後で戦っていた乃美宗勝(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照)が安芸に戻り、さらに来島村上氏の主将・村上吉継らと協議することができたその年(永禄10年)の晩秋である。
毛利氏のこうした遅延の間に、土佐一条氏は着々と南予に侵攻、国境沿いの三間・両山の国人衆らを味方につけ、さらには圧迫をうけていた西園寺氏を従属させた。そして、一条氏は、前記したように毛利・河野氏の本陣とした鳥坂城から東方へ直線距離で4キロ余り離れた(徒歩では10キロ以上の距離になる)タイマツ峠の北方に聳える高島山(H:572m)に陣を構えた。
【写真左】主郭付近
主郭としての区画部分は、およそ10m四方の規模だが、周辺部と若干の比高を持たせた低い郭がつながっている。
おそらくこれらも一体のものとして使用されたものだろう。
一方、毛利方はいち早く伊予に入った村上吉継が鳥坂城を守備し、高島の陣から度々攻撃を受けながらもなんとか持ちこたえていた。この頃、主に鳥坂城を攻めたてていたのは、前稿菅田城(愛媛県大洲市菅田町菅田)城主であった菅田(大野)直之や、土佐の幡多衆の重鎮津野定勝らであった。もちろん鳥坂城側が常に守勢に立たされていたわけではなく、緒戦では一条氏側の高島の陣を攻めたが、戦力の差はいかんともしがたく、撃退された。
【写真左】石碑
主郭付近には下記の碑文が刻まれた石碑が建立されている。
“ 寄付者 梶原タヨ
同意者 古谷綱左衛門
昭和13年3月5日
久保正信青年會”
こうした形勢の中、永禄11年2月4日、一条氏軍は遂に鳥坂城に向けて総攻撃を開始した。劣勢の鳥坂城は、落城寸前まで陥ったものの、村上吉継の度重なる奮闘でこの時も持ちこたえたという。このためその後はしばらくこう着状態が続き、両陣営のにらみ合いとなった。
【写真左】仏像
奥には仏像が祀られている。
毛利氏の伊予上陸
毛利氏の主力部隊が伊予に上陸したのはこの年の3月中旬から下旬とされている。ただ、その前に小早川隆景の命を受けた軍が先に伊予に入り、一条氏側の要衝とされていた大洲城(愛媛県大洲市大洲)や、八幡山城を攻略している。おそらく大洲侵攻のルートは村上水軍といった水軍領主を使い、肱川を遡ってきたものだろう。
毛利氏の伊予出兵が整いかけた矢先の4月、豊後の大友氏が豊前・筑前方面へと北進を開始した。このため、毛利氏側は一部を伊予に残し、主力は一旦安芸に戻り、再び九州へ出兵することになる。
【写真左】土塁
主郭の北側を中心として残っているもので、高さは50cm前後だが、当時はもう少し高く構成されていたものと思われる。
伊予における毛利氏側の動きは、おそらく常に豊後の大友氏に知らされていたものと思われる。 一条氏側が劣勢になると、豊後の大友氏が九州で兵を挙げることによって、毛利氏は伊予と豊後の両方に対処せざるを得なくなる。伊予国における河野VS一条氏の戦いではあるが、実態は豊後の大友氏による巧みな攪乱、揺動作戦に毛利氏が対応した戦いであったかもしれない。
【写真左】井戸跡
直径1m足らずの小規模なものが主郭に残る。主郭を中心とした部分には枯葉が覆っているため、この箇所以外に発見できなかったが、この他にも井戸や水の手遺構があるかもしれない。
その後の詳細な動きについては今一つ整理しきれないが、徐々に毛利氏側(河野氏)が優勢となり、特に吉川元春・小早川隆景らの本隊が伊予に入ってからは、戦況は一挙に変わり、地蔵ヶ嶽城(大洲城)を陥れたのを皮切りに、上須戒・下須戒・登議城山など一条・西園寺・宇都宮諸勢の諸城は次々と陥落、宇都宮豊綱は遂に開城・降伏することになった。
【写真左】南側の郭段
主郭から南にかけては3,4段の郭が連続している。主郭の大きさよりも広い。
ここからさらに南側の尾根筋を辿りながら降っていく。
【写真左】切崖
南尾根の途中にあるもので、比高差7,8m程度の規模を持つ。
【写真左】堀切
南尾根の途中には規模の大きな堀切跡が見える。
ただ、相当底部が埋まったためか、一見すると郭にも見えるが、両端部の尾根高が確保されているので、南からの攻撃に対し、ここで断ち切るため設置されたのだろう。
【写真左】竪堀
東斜面には一条の竪堀が見える。
因みに反対の西側斜面を踏査してみたが、もともと険峻な斜面となっているため、あえてこの箇所には設置されていないようだ。
【写真左】南側から遠望する。
登城始点はこの写真の右側にある。
また、以前紹介した肱川の源流は、鳥坂城の左側奥から流れている。
●所在地 愛媛県西予市宇和町久保
●別名 岩の森城
●築城期 戦国時代
●築城者 村上吉継
●高さ 330m(比高60m)
●遺構 郭・土塁・堀切・竪堀・井戸等
●登城日 2014年1月28日
◆解説(参考資料「サイト「愛媛県歴史文化博物館 学芸員ブログ『研究室から』、永禄期の南伊予の戦乱をめぐる一考察 川岡勉(日本史学研究室)等)
大洲市と南の西予市を結ぶ国道56号線(宇和島街道)の境には鳥坂峠がある。現在国道は鳥坂隧道という長さ凡そ1キロ余りのトンネルが両市を繋ぎ、便利にはなっている。しかし、それでも車で大洲側からこの峠を越えるときは、急坂・急カーブなどが多い。
ましてや中世戦国期では、このトンネルの上にあった峠道をこえることはかなりの負担が伴っただろう。現在、その旧道は遍路道となっており、最高地点は標高470mである。
【写真左】鳥坂城遠望
東麓側から見たもので、高くなったところが主郭部分に当たる。
鳥坂隧道トンネルを抜けると、すぐに右手に杉山となった小丘が見える。鳥坂城である。
伊予宇都宮氏と西園寺氏
永禄9年(1566)11月、毛利氏が山陰の雄・尼子氏の居城・月山富田城をついに陥落させた。このころ中央では尾張の織田信長が美濃を攻め寄せ、あくる10年、斉藤龍興を稲葉山城に破り、岐阜城と名を替え入城した。
こうした戦国期東西の騒乱の中で、四国の伊予国における版図もまた大きな変化を迎えていた。伊予国の盟主といわれた河野氏は、本拠地中予・東予はかろうじて支配下に治めていたものの、南予に至っては、支配はおろか逆に土佐国一条氏などからの脅威に晒されていた。
【写真左】鳥坂峠を遠望する。
手前に見える道が旧道(遍路道)で、鳥坂城の東麓を回り込むように繋がっている。
写真奥の山を越えると大洲市に至る。
ところで、伊予の河野氏と土佐の一条氏の間に挟まれていたのが、大洲を本拠とする宇都宮氏とその南方の宇和を支配していた西園寺氏である。
両者は弘治2年(1556)ごろ、領土を巡って争いを起こしている。この戦いは河野氏(通宣)の仲裁で一旦和睦を結んでいるが、一時的なもので、この対立もまた永禄年間における毛利氏の伊予出兵の直前まで続くことになる。
【写真左】大洲藩鳥坂口留番所跡
西予市側の旧道麓には藩政時代の番所跡が残されている。
戦国時代鳥坂城が要衝であったように、江戸時代になっても重要な場所であった。写真の左奥にはその建物が残されている。
きっかけとなったのは、記録上永禄9年(1566)土佐一条氏が豊後の大友氏の支援を受けて、宇和の西園寺氏を攻略したことからとされている。
このため、土佐国と境を接する南予(現在の北宇和郡・松野町、鬼北町)の広見川(四万十川支流)沿いには、以前紹介した河後森城(愛媛県北宇和郡松野町松丸)をはじめとして、夥しい中小の城砦が残っており、その激しさを物語る。
【写真左】四国のみち 案内板
この坂(旧道)を1.3キロ登ると鳥坂峠にたどり着く。
鳥坂城の登城案内などは全くないので、とりあえず負担のかからない旧道を進む。
さて、翌10年(1567)、豊後大友氏の支援を受けて北進してきた一条氏が、敵対する西園寺氏を攻略してきたことに意を強くしたのだろう、大洲宇都宮氏が河野氏に対し、明確に敵対する構えを見せた。
こうなると、西園寺氏は北から宇都宮氏、南からは一条氏によって挟み撃ちにされる構図となる。そして、西園寺氏が攻略されると、河野氏は完全に伊予において孤立することになる。
【写真左】旧道側の登城開始ヵ所
東麓の登り坂となった旧道を進むと、今度は左に旋回し、再び鞍部となった箇所から右へと道は回り込むようになっている。
鳥坂城側はこの写真の左側になるため、この附近からなだらかな斜面を探しながら登城を開始した。
なお、鞍部となった旧道の北(西側)には広大な削平地が確認できた。鳥坂城の主郭付近はさほど大きなものでないことから、陣所跡であったかもしれない。
河野氏の南予攻め
河野氏はこのため急きょ阻止すべく兵を挙げた。動いたのは河野氏重臣・来島通康と平岡房実である。この時の最初の戦略は、武力よりも調略、すなわち宇都宮氏等に対して、内部を混乱させるべく、内応や誘降といった懐柔策を主体とするものであった。
その標的とされたのが、前稿で紹介した大野直之や、地蔵ヶ嶽城(大洲城)から北へ約6キロほど向かった山間地・上須戒を治めていた土豪・城戸孫三郎一族らである。
【写真左】主郭北端部の岩塊
縄張は主郭を北端に配置した梯郭式に近い。
この日は東側(旧道側)の斜面まで回り込み、上を目指したが、この面には郭の痕跡はあまり認められず、むしろ切崖だったせいか、踏み込む場所がなく、結局南側までまわってから主郭を目指した。
鳥坂城(峠)・高島山の戦い
そしてその年(永禄10年)の秋ごろになると、河野氏(来島・平岡氏)はさらに南下し、喜多郡(大洲市)、宇和郡(西予市)の境目となる鳥坂峠の西麓に鳥坂城を築いた。これに対し、一条氏側は鳥坂峠東方の高島山に陣を布いた。
河野氏の中心人物であった村上通康はこの年の9月、現有の戦力で一条氏側と戦うことに限界を感じ、安芸の毛利氏に使者を送り、支援の要請を行った。しかし、これに対し毛利氏側ではすぐに伊予にむけて一族が出陣することはできなかった。豊後の大友氏との戦いが行われていたからである。
最終的には毛利氏(小早川隆景ら)が出陣することになるが、支援を要請した村上通康は陣中で急病に罹り、ほどなくして急逝してしまった。
【写真左】南側の郭段
この位置からは比高の低い郭段が連続していたため、比較的容易に進むことができる。
竹林がないともう少し形状が分かりやすいのだが。
結局毛利氏の伊予出陣の態勢が整ったのは、豊後で戦っていた乃美宗勝(賀儀城(広島県竹原市忠海町床浦)参照)が安芸に戻り、さらに来島村上氏の主将・村上吉継らと協議することができたその年(永禄10年)の晩秋である。
毛利氏のこうした遅延の間に、土佐一条氏は着々と南予に侵攻、国境沿いの三間・両山の国人衆らを味方につけ、さらには圧迫をうけていた西園寺氏を従属させた。そして、一条氏は、前記したように毛利・河野氏の本陣とした鳥坂城から東方へ直線距離で4キロ余り離れた(徒歩では10キロ以上の距離になる)タイマツ峠の北方に聳える高島山(H:572m)に陣を構えた。
【写真左】主郭付近
主郭としての区画部分は、およそ10m四方の規模だが、周辺部と若干の比高を持たせた低い郭がつながっている。
おそらくこれらも一体のものとして使用されたものだろう。
一方、毛利方はいち早く伊予に入った村上吉継が鳥坂城を守備し、高島の陣から度々攻撃を受けながらもなんとか持ちこたえていた。この頃、主に鳥坂城を攻めたてていたのは、前稿菅田城(愛媛県大洲市菅田町菅田)城主であった菅田(大野)直之や、土佐の幡多衆の重鎮津野定勝らであった。もちろん鳥坂城側が常に守勢に立たされていたわけではなく、緒戦では一条氏側の高島の陣を攻めたが、戦力の差はいかんともしがたく、撃退された。
【写真左】石碑
主郭付近には下記の碑文が刻まれた石碑が建立されている。
“ 寄付者 梶原タヨ
同意者 古谷綱左衛門
昭和13年3月5日
久保正信青年會”
こうした形勢の中、永禄11年2月4日、一条氏軍は遂に鳥坂城に向けて総攻撃を開始した。劣勢の鳥坂城は、落城寸前まで陥ったものの、村上吉継の度重なる奮闘でこの時も持ちこたえたという。このためその後はしばらくこう着状態が続き、両陣営のにらみ合いとなった。
【写真左】仏像
奥には仏像が祀られている。
毛利氏の伊予上陸
毛利氏の主力部隊が伊予に上陸したのはこの年の3月中旬から下旬とされている。ただ、その前に小早川隆景の命を受けた軍が先に伊予に入り、一条氏側の要衝とされていた大洲城(愛媛県大洲市大洲)や、八幡山城を攻略している。おそらく大洲侵攻のルートは村上水軍といった水軍領主を使い、肱川を遡ってきたものだろう。
毛利氏の伊予出兵が整いかけた矢先の4月、豊後の大友氏が豊前・筑前方面へと北進を開始した。このため、毛利氏側は一部を伊予に残し、主力は一旦安芸に戻り、再び九州へ出兵することになる。
【写真左】土塁
主郭の北側を中心として残っているもので、高さは50cm前後だが、当時はもう少し高く構成されていたものと思われる。
伊予における毛利氏側の動きは、おそらく常に豊後の大友氏に知らされていたものと思われる。 一条氏側が劣勢になると、豊後の大友氏が九州で兵を挙げることによって、毛利氏は伊予と豊後の両方に対処せざるを得なくなる。伊予国における河野VS一条氏の戦いではあるが、実態は豊後の大友氏による巧みな攪乱、揺動作戦に毛利氏が対応した戦いであったかもしれない。
【写真左】井戸跡
直径1m足らずの小規模なものが主郭に残る。主郭を中心とした部分には枯葉が覆っているため、この箇所以外に発見できなかったが、この他にも井戸や水の手遺構があるかもしれない。
その後の詳細な動きについては今一つ整理しきれないが、徐々に毛利氏側(河野氏)が優勢となり、特に吉川元春・小早川隆景らの本隊が伊予に入ってからは、戦況は一挙に変わり、地蔵ヶ嶽城(大洲城)を陥れたのを皮切りに、上須戒・下須戒・登議城山など一条・西園寺・宇都宮諸勢の諸城は次々と陥落、宇都宮豊綱は遂に開城・降伏することになった。
【写真左】南側の郭段
主郭から南にかけては3,4段の郭が連続している。主郭の大きさよりも広い。
ここからさらに南側の尾根筋を辿りながら降っていく。
【写真左】切崖
南尾根の途中にあるもので、比高差7,8m程度の規模を持つ。
【写真左】堀切
南尾根の途中には規模の大きな堀切跡が見える。
ただ、相当底部が埋まったためか、一見すると郭にも見えるが、両端部の尾根高が確保されているので、南からの攻撃に対し、ここで断ち切るため設置されたのだろう。
【写真左】竪堀
東斜面には一条の竪堀が見える。
因みに反対の西側斜面を踏査してみたが、もともと険峻な斜面となっているため、あえてこの箇所には設置されていないようだ。
【写真左】南側から遠望する。
登城始点はこの写真の右側にある。
また、以前紹介した肱川の源流は、鳥坂城の左側奥から流れている。