甘崎城(あまさきじょう)
●所在地 愛媛県今治市上浦町甘崎
●別名 古城山甘崎城
●築城期 天智天皇10年(671)
●築城者 越智氏
●城主 今岡民部(三島村上氏)、村上吉継、藤堂大学頭(大輔)等
●廃城年 慶長13年(1608)
●形態 水軍城
●遺構 郭・井戸跡・石垣・桟橋逆茂木用ピット・海門跡・祭祀跡・石湯跡等
●指定 県指定史跡
●規模 300m×80m
●探訪日 2013年7月1日(甘崎城)、2014年1月27日(向雲寺)
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
甘崎城は、しまなみ海道を横断する島の一つ大三島(現今治市)の東方上浦甘崎の東岸に浮かぶ島に築城された日本最古といわれた水軍城である。
【写真左】甘崎城遠望
対岸の岸壁から見たもの。
【写真左】甘崎城概要図
伯方島にある「ふるさと歴史公園居館」に掲示されていたもので、愛媛大学考古学教室調査資料による。
現地の説明板より
“古城島甘崎城跡
(愛媛県指定史跡)
古城島甘崎城跡は古名を天崎城と記され、守護神を祭る甘崎荒神社(現地)の伝えによると天智天皇10年(671)8月7日、唐軍の侵攻に備えて、勅命によりて築城すと云。
その初名を上門島海防城といいし由、以て日本最古の水軍城とすべく、以来瀬戸内水軍史上にその名を記し、重ねることはなはだ多く、元禄4年(1691)この沖を航したドイツ人ケンペルも帰国後、「日本誌」その雄姿を記して「海中よりそびゆる堡壘あり」と述べた。
今日の姿になったのは幕末のころらしく、海底にはなお築城礎石の巨石の列20余条延べ約1000メートルを存し、その技法の一部は古代に属するものと見られている。”
【写真左】甘崎城遠望
大三島の東方に浮かぶ生口島の瀬戸田パーキングエリア(しまなみ海道)側から見たもの。
上門島海防城
当城の築城期が天智天皇10年(671)とされているのは、当地にある甘崎荒神社の御由緒調査書から紹介された『伊予越智誌』によるもので、水軍城としては最も古いものとされている。ただ、詳しく見れば、以前紹介した讃岐の引田城跡(香川県東かがわ市 引田)などは、これより4年ほど遡った天智6年(667)に築城されている。
【写真左】南側
干潮時には歩いて渡ることができるようだが、この日訪れた時はその状況ではなく、遠望のみとなった。
どちらにしても、天智2年(663)8月27日、朝鮮半島白村江において日本と百済の連合軍が、唐・新羅連合軍に大敗したことによって、日本が帰国するや否や、対馬・壱岐などに防人・烽火を設置し、筑紫に水城を築いたのを起点として、西国地域もそれにあわせて築かれたもので、築城年はそれぞれ多少の違いはあるものの、同じ目的のもとに築かれたものと思われる。
【写真左】北側
この写真では分かりずらいが、満潮時には、北側の淵からさらに間を開けて小さな島が見える。
この島も当城の一部だったと思われる。
ちなみに、唐や新羅の侵攻という危機を受けつつあった西国に対し、時の中央・大和朝廷では、大織冠と大臣の位を受け、藤原の氏を賜った中臣鎌足が、興福寺を創建しているが、3年後の天智11年には、壬申の乱が始まるという内外ともに不穏な時を迎えている。
甘崎城が築城された当時、防衛のため当然ながら甘崎城以外の芸予諸島の要衝にも同じような城砦が築かれた。因みに、この当時甘崎城付近を上門島海(大三島・伯方島・生口島)といっていたことから、甘崎城を上門島海防城といい、南の大島~波方(四国)の来島海峡(中門島海)に築城されたものを、中門島海防城、さらに下がった風早鹿島を下門島海防城と呼んだ。
【写真左】北東部に生口島を見る。
甘崎城と対岸の生口島(尾道市瀬戸田町)の間が愛媛県と広島県の境になる。
天慶の乱
甘崎という名称の語源になったのは、上記した三城の「海防」から来たものといわれている。「海」は「あま」で、「防」は「さき」で、従って元は「海防城(あまのさきじょう)」であろう。
また、これまで海に面した城砦を「水軍城」として、度々紹介しているが、そもそも「水軍」という名称が使用されたのは昭和に入ってからで、一般的には「海城」を根城として、そのもとに軍船や兵員を常備する戦闘集団であった海賊衆を示す。
【写真左】説明板
岸壁に設置されている。
さて、往古に築かれた甘崎城が具体的にその機能を果たしたのが、時代がやや下った天慶の乱のときである。
乱の詳細については省くが、瀬戸内でもっともその名が知られるのは、藤原純友である。
藤原純友については、以前取り上げた筑前の大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)でも紹介しているように、元はその名が示すように平安期の朝廷にあった貴族だが、運悪く都を追われるように西下し、当時伊予守であった父の従兄弟藤原元名を頼り、当初は瀬戸内の海賊を鎮圧する役人となっていた。
しかし、時をほぼ同じくして関東にあった坂東武士平将門が兵を挙げると、呼応するように純友も瀬戸内海賊衆を率いて挙げた。中央政権に対する不満は、将門と同じく純友にも共通するものがあったのだろう。
【写真左】大宰府政庁跡
純友は瀬戸内を中心に、東は畿内・播磨方面から、西は鎮西大宰府をも襲撃、略奪を図った。
純友が本拠としていたのは、瀬戸内からは遠く離れた宇和島市の西方、豊後水道に浮かぶ日振島である。最盛期には純友は約1,000艘以上の軍船を従えていたというから、前記した三城方面を含め、瀬戸内海をほぼ手中にしていたと考えられる。
その後、朝廷は大軍を率いて純友鎮圧のために西下し、天慶4年(941)5月20日、追捕凶賊使(追捕使)小野好古らが、博多湾にて鎮圧、伊予に逃れた純友は、同国警固使橘遠保により討たれたといわれるが定かでない。
大山祇神社
ところで、甘崎城は大三島と指呼の間だが、大三島は古来より大山積神を祀る大山祇神社がある。現在総本社は同島西岸にあるが、元は南東部(後段の向雲寺方面)にあったといわれ、甘崎城も他の水軍城と同じく深く関わりがあったという。
【写真左】大山祇神社・本殿
平家・源氏とも深く崇拝し、武運長久を祈り、その流れは戦国期の瀬戸内争乱の際も絶えることがなかったという。このため、多くの刀・武具等が奉納されている。
【写真左】向雲寺
甘崎城を望む岸壁から南に約2キロほど向かった丘陵地の中腹に創建された寺院。
戦国期末になると、藤堂高虎の支配地となり、藤堂大輔(従弟・良勝)が城主となった。
当院には彼の墓碑があると記録されており、この日参拝し、墓地・境内を散策したが残念ながら見つからなかった。
遺構
江戸時代末期より明治にかけて、大三島では水田開発が行われ、その護岸工事として甘崎城に残っていた石垣が使われたという。このため、現地にはすでにそれらはほとんどないものの、干潮時になると、北岸と南岸にその基底部に設置された石列が露出する。また、石垣以前に設置されたとされる桟橋や防御用の逆茂木設置のための穴が幾何学的に配置されている。
【写真左】向雲寺にある「いも地蔵」前の拝殿
現地には「甘藷地蔵」の説明板が設置されている。
甘藷(かんしょ)と読むが、通称サツマイモと呼称されているもので、江戸時代全国的に飢餓に苦しんだとき、同島出身の下見(あさみ)吉十郎(1673~1755)が、薩摩国伊集院村から国禁を犯しながらも甘藷を持ち帰り、島の農民に栽培方法を教え、それが芸予諸島一帯に広まり、飢餓を救ったといわれる。
【写真左】甘藷地蔵
吉十郎が亡くなった後、島民らが彼の業績を讃え、甘藷(いも)地蔵が建立されたという。
なお、吉十郎の先祖は伊予河野氏の出で、河野通直が没落したとき帰農したという。
廃城
冒頭にも記したように、当城の廃城年は慶長年間である。天智天皇の白鳳時代から江戸初期までの約900年余にわたってこの水軍城は活用されたことになる。それだけ瀬戸内における水軍城(海城)が果たす役割は、時の支配者や、関わった水運経済などに大きなものをもたらしてきたという証左でもある。
【写真左】向雲寺墓地から甘崎城を遠望する。
奥に見える橋は、瀬戸内しまなみ海道の多々羅大橋
●所在地 愛媛県今治市上浦町甘崎
●別名 古城山甘崎城
●築城期 天智天皇10年(671)
●築城者 越智氏
●城主 今岡民部(三島村上氏)、村上吉継、藤堂大学頭(大輔)等
●廃城年 慶長13年(1608)
●形態 水軍城
●遺構 郭・井戸跡・石垣・桟橋逆茂木用ピット・海門跡・祭祀跡・石湯跡等
●指定 県指定史跡
●規模 300m×80m
●探訪日 2013年7月1日(甘崎城)、2014年1月27日(向雲寺)
◆解説(参考文献『日本城郭体系第16巻』等)
甘崎城は、しまなみ海道を横断する島の一つ大三島(現今治市)の東方上浦甘崎の東岸に浮かぶ島に築城された日本最古といわれた水軍城である。
【写真左】甘崎城遠望
対岸の岸壁から見たもの。
【写真左】甘崎城概要図
伯方島にある「ふるさと歴史公園居館」に掲示されていたもので、愛媛大学考古学教室調査資料による。
現地の説明板より
“古城島甘崎城跡
(愛媛県指定史跡)
古城島甘崎城跡は古名を天崎城と記され、守護神を祭る甘崎荒神社(現地)の伝えによると天智天皇10年(671)8月7日、唐軍の侵攻に備えて、勅命によりて築城すと云。
その初名を上門島海防城といいし由、以て日本最古の水軍城とすべく、以来瀬戸内水軍史上にその名を記し、重ねることはなはだ多く、元禄4年(1691)この沖を航したドイツ人ケンペルも帰国後、「日本誌」その雄姿を記して「海中よりそびゆる堡壘あり」と述べた。
今日の姿になったのは幕末のころらしく、海底にはなお築城礎石の巨石の列20余条延べ約1000メートルを存し、その技法の一部は古代に属するものと見られている。”
【写真左】甘崎城遠望
大三島の東方に浮かぶ生口島の瀬戸田パーキングエリア(しまなみ海道)側から見たもの。
上門島海防城
当城の築城期が天智天皇10年(671)とされているのは、当地にある甘崎荒神社の御由緒調査書から紹介された『伊予越智誌』によるもので、水軍城としては最も古いものとされている。ただ、詳しく見れば、以前紹介した讃岐の引田城跡(香川県東かがわ市 引田)などは、これより4年ほど遡った天智6年(667)に築城されている。
【写真左】南側
干潮時には歩いて渡ることができるようだが、この日訪れた時はその状況ではなく、遠望のみとなった。
どちらにしても、天智2年(663)8月27日、朝鮮半島白村江において日本と百済の連合軍が、唐・新羅連合軍に大敗したことによって、日本が帰国するや否や、対馬・壱岐などに防人・烽火を設置し、筑紫に水城を築いたのを起点として、西国地域もそれにあわせて築かれたもので、築城年はそれぞれ多少の違いはあるものの、同じ目的のもとに築かれたものと思われる。
【写真左】北側
この写真では分かりずらいが、満潮時には、北側の淵からさらに間を開けて小さな島が見える。
この島も当城の一部だったと思われる。
ちなみに、唐や新羅の侵攻という危機を受けつつあった西国に対し、時の中央・大和朝廷では、大織冠と大臣の位を受け、藤原の氏を賜った中臣鎌足が、興福寺を創建しているが、3年後の天智11年には、壬申の乱が始まるという内外ともに不穏な時を迎えている。
甘崎城が築城された当時、防衛のため当然ながら甘崎城以外の芸予諸島の要衝にも同じような城砦が築かれた。因みに、この当時甘崎城付近を上門島海(大三島・伯方島・生口島)といっていたことから、甘崎城を上門島海防城といい、南の大島~波方(四国)の来島海峡(中門島海)に築城されたものを、中門島海防城、さらに下がった風早鹿島を下門島海防城と呼んだ。
【写真左】北東部に生口島を見る。
甘崎城と対岸の生口島(尾道市瀬戸田町)の間が愛媛県と広島県の境になる。
天慶の乱
甘崎という名称の語源になったのは、上記した三城の「海防」から来たものといわれている。「海」は「あま」で、「防」は「さき」で、従って元は「海防城(あまのさきじょう)」であろう。
また、これまで海に面した城砦を「水軍城」として、度々紹介しているが、そもそも「水軍」という名称が使用されたのは昭和に入ってからで、一般的には「海城」を根城として、そのもとに軍船や兵員を常備する戦闘集団であった海賊衆を示す。
【写真左】説明板
岸壁に設置されている。
さて、往古に築かれた甘崎城が具体的にその機能を果たしたのが、時代がやや下った天慶の乱のときである。
乱の詳細については省くが、瀬戸内でもっともその名が知られるのは、藤原純友である。
藤原純友については、以前取り上げた筑前の大宰府政庁跡(福岡県太宰府市観世音寺4-6-1)でも紹介しているように、元はその名が示すように平安期の朝廷にあった貴族だが、運悪く都を追われるように西下し、当時伊予守であった父の従兄弟藤原元名を頼り、当初は瀬戸内の海賊を鎮圧する役人となっていた。
しかし、時をほぼ同じくして関東にあった坂東武士平将門が兵を挙げると、呼応するように純友も瀬戸内海賊衆を率いて挙げた。中央政権に対する不満は、将門と同じく純友にも共通するものがあったのだろう。
【写真左】大宰府政庁跡
純友は瀬戸内を中心に、東は畿内・播磨方面から、西は鎮西大宰府をも襲撃、略奪を図った。
純友が本拠としていたのは、瀬戸内からは遠く離れた宇和島市の西方、豊後水道に浮かぶ日振島である。最盛期には純友は約1,000艘以上の軍船を従えていたというから、前記した三城方面を含め、瀬戸内海をほぼ手中にしていたと考えられる。
その後、朝廷は大軍を率いて純友鎮圧のために西下し、天慶4年(941)5月20日、追捕凶賊使(追捕使)小野好古らが、博多湾にて鎮圧、伊予に逃れた純友は、同国警固使橘遠保により討たれたといわれるが定かでない。
大山祇神社
ところで、甘崎城は大三島と指呼の間だが、大三島は古来より大山積神を祀る大山祇神社がある。現在総本社は同島西岸にあるが、元は南東部(後段の向雲寺方面)にあったといわれ、甘崎城も他の水軍城と同じく深く関わりがあったという。
【写真左】大山祇神社・本殿
平家・源氏とも深く崇拝し、武運長久を祈り、その流れは戦国期の瀬戸内争乱の際も絶えることがなかったという。このため、多くの刀・武具等が奉納されている。
【写真左】向雲寺
甘崎城を望む岸壁から南に約2キロほど向かった丘陵地の中腹に創建された寺院。
戦国期末になると、藤堂高虎の支配地となり、藤堂大輔(従弟・良勝)が城主となった。
当院には彼の墓碑があると記録されており、この日参拝し、墓地・境内を散策したが残念ながら見つからなかった。
遺構
江戸時代末期より明治にかけて、大三島では水田開発が行われ、その護岸工事として甘崎城に残っていた石垣が使われたという。このため、現地にはすでにそれらはほとんどないものの、干潮時になると、北岸と南岸にその基底部に設置された石列が露出する。また、石垣以前に設置されたとされる桟橋や防御用の逆茂木設置のための穴が幾何学的に配置されている。
【写真左】向雲寺にある「いも地蔵」前の拝殿
現地には「甘藷地蔵」の説明板が設置されている。
甘藷(かんしょ)と読むが、通称サツマイモと呼称されているもので、江戸時代全国的に飢餓に苦しんだとき、同島出身の下見(あさみ)吉十郎(1673~1755)が、薩摩国伊集院村から国禁を犯しながらも甘藷を持ち帰り、島の農民に栽培方法を教え、それが芸予諸島一帯に広まり、飢餓を救ったといわれる。
【写真左】甘藷地蔵
吉十郎が亡くなった後、島民らが彼の業績を讃え、甘藷(いも)地蔵が建立されたという。
なお、吉十郎の先祖は伊予河野氏の出で、河野通直が没落したとき帰農したという。
廃城
冒頭にも記したように、当城の廃城年は慶長年間である。天智天皇の白鳳時代から江戸初期までの約900年余にわたってこの水軍城は活用されたことになる。それだけ瀬戸内における水軍城(海城)が果たす役割は、時の支配者や、関わった水運経済などに大きなものをもたらしてきたという証左でもある。
【写真左】向雲寺墓地から甘崎城を遠望する。
奥に見える橋は、瀬戸内しまなみ海道の多々羅大橋