大宰府政庁跡(だざいふせいちょうあと)
●所在地 福岡県太宰府市観世音寺4-6-1
●築城期 7世紀後半
●築城者 不明
●指定 特別史跡
●遺構 正殿跡、南門、礎石その他
●登城日 2013年2月4日
◆解説(参考文献『集英社版日本の歴史 王朝と貴族』等)
福岡市の南東16キロには、古代の行政組織をもった九州の都・大宰府がある。日本の西の玄関としていわば中央朝廷の出張所のような役割をもった政庁跡がこの地に残っているが、実は具体的にいつの時期に造られたかはっきりしない。
現在の大宰府にある政庁跡は初期の位置にあったものでなく、その前はもう少し博多より、すなわち海岸部に近かったものと推定されている。
現在の大宰府に移ったのは、以前にも紹介した白村江(はくすき)の戦いのため、のちにより内陸部に移設したことによるといわれている。
【写真左】大宰府政庁跡遠望
岩屋城(大野城)から見たもの。
岩屋城については、後日アップする予定だが、戦国期に築城された岩屋城は、元々古代山城としてあった巨大な大野城の中に含まれる。
この古代山城・大野城も大宰府政庁といわばセットのような役割を持っていたのではないかと考えられる。
大宰府の遺跡保存の活動が始まったのは、江戸時代の福岡藩の頃からだという。その後現代に至り、大規模宅地開発という時代の流れの中で、文化財保護・遺跡保存をどのように進めるべきか、住民を含めた議論が根気よく続けられたという。こうして、指定区域の拡張を中心として今日の特徴ある古代文化都市としての顔を持った太宰府市が今によみがえっている。
【写真左】南門付近・その1
現地の説明板より その1
はじめに
大宰府跡の保存は、江戸時代に福岡藩(黒田家)が行った建物礎石の調査に始まります。明治・大正・昭和と時代が変わっても、保存の精神は継承され、大宰府を顕彰する石碑が建てられたり、簡単な保存整備が正殿跡を中心に行われてきました。
【写真左】南門の平面図・復元模型など
上段の写真は昭和43年の発掘調査のもので、右に出土品などが掲載されている。
文化財の保存は、人とのかかわりをぬきにして語ることはできません。地元をはじめ、いろんな人たちの苦労と努力が刻まれている古都大宰府も同じことだといえます。これからもみなさんと共に大宰府のこれからを考えていきたいと思います。”
“特別史跡 大宰府跡
大正10年3月3日 史跡指定
昭和28年3月31日 特別史跡指定
福岡県太宰府市大字観世音寺 坂本
古代、西海道と呼ばれた九州一円を統轄していた大宰府は、外交・貿易などの対外交渉の窓口として重要な任務を課せられていた。その機構は中央政府に準じ、地方機関としては最大規模の行政組織を有していた。
発掘調査によると、7世紀後半に掘立柱建物が建てられ、8世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備される。この建物は藤原純友の乱によって焼き打ちされたが、10世紀後半には立派に再建された。
【写真左】礎石
東脇殿のもので、これとほぼ同じような礎石が左右対称に西脇殿にも残る。
現在見ることのできる礎石は、この再建期のもので、左上図は発掘調査の成果をもとにして復元したものである。これらの建物は藤原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」とうたっているように壮大なもので、当時としては中央の都の建物にも劣らぬものであった。
正殿は重層風につくられ、屋根は入母屋ないしは寄棟造りであったと思われる。
このような政庁を中心にして周囲は、数多くの役所が配置され、その規模は平城・平安の都に次ぐ「天下の一都会」であった。
昭和61年3月 福岡県教育委員会”
【写真左】正殿付近・その1
北側には正殿があり、この位置は少し高くなっている。
礎石はさらに一回り大きいようだ。
現地の説明板より その3
″特別史跡 大宰府跡
大宰府政庁南門跡
南門とは
南門は政庁の南に開かれた正門である。両側には東西に延びる築地塀が取りつき政庁全体を囲んでいた。要人や外国の使節を応接するにふさわしい威容を誇っていたであろう。
なお、役人の日常の出入りには築地塀に設けられた脇門を利用していたと考えられる。
【写真左】正殿遺構配置図と復元模型図
東西に繋がる回廊や正殿母屋はほとんど第Ⅲ期の遺構とされている。
発掘調査でわかったこと
南門は中門跡とともに、昭和43(1968)年に大宰府跡で最初の発掘調査がおこなわれた場所である。この調査によって地表面に見える礎石群は奈良時代(政庁第Ⅱ期)のものではなく、平安時代後半(政庁第Ⅲ期)に建て替えられた時のものであることが判明した。
建物の平面形は変わらないが、基壇(建物土台)は拡張されており、Ⅱ期に比べて大きくなっている。基壇の中央部から水晶や琥珀を納めた鎮壇(ちんだん)の須恵器壺が完全な形で出土した。この壺はⅡ期の門の築造年代を知る有力な手がかりとなった。
礎石は11個残っていた。調査結果をもとに平面復元を行った。現在見えている礎石は右図のように本来の位置のもの、移動されたもの、コンクリートで新しく作ったものの3種類がある。なお両側の柘植は築地塀を表示している。
【写真左】正殿付近・その2
正殿付近には石碑が建っている。
南門の復元模型
これまでの発掘調査の成果と、現存する古代建築の構造・意匠を参考にして、想定復元した模型が右の写真の建物である。復元された南門建物は、高さ18.2m、正門5間(21m)、奥行2間(8.2m)の規模を誇り、正面入口には3か所の扉が設けられていた。また、大宰府の玄関口としてふさわしく、2階建で入母屋造りの屋根をのせた、壮麗で堂々とした門だったようである。
現地の説明板より その4
“特別史跡 大宰府跡
大宰府政庁正殿跡
正殿跡とは
大宰府の長官である帥(そち)が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式で最も重要な役割を果たした場所が正殿である。大宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統轄していた。宮都での元旦拝賀を参考にすれば、大宰府でも元旦には管内諸国から国司らが集い、正殿に坐した帥に拝賀する儀礼が行われたと思われる。このように正殿はその政治的秩序を保つための威厳に満ちた建物だったことだろう。
【写真左】後殿及び東楼・西楼の礎石
正殿の北側には後殿と東西楼があり、その中央奥には北門が控えていた。
発掘調査でわかったこと
政庁の建物群は3期(Ⅰ~Ⅲ期)にわたって変遷し、Ⅰ期は掘立柱建物、Ⅱ・Ⅲ期は礎石建物が採用され、中・南門の建物についてはⅡ期とⅢ期がほぼ同じ規模と構造だったことが判明している。近年の調査では、正殿も他と同様にⅡ・Ⅲ期の基壇(建物の基礎)が同一規模で建替えられていたことが明らかになった。この建替えの原因となった941年藤原純友の乱による火災を示す焼土や炭をⅢ期整地層の下部で確認した。さらに、基壇の下層でⅠ期の掘立柱建物・柵・溝等を発掘した。これら建物群はいずれも規模が大きく整然と配置され、周囲を柵と溝で区画していることが判明した。すでにⅠ期の段階から儀礼空間を意識した配置だったと考えられる。
【写真左】蔵司地区官衙(くらつかさちく かんが)
政庁跡の西側に残るもので、蔵司は西海道(九州)9国3島(後に2島)の綿・絹などの調庸物(税)を収納管理する役所で、ここで集められた調庸物は一旦ここに納められ、その後一部が進上されたという。
正殿の建物
残された礎石からⅢ期の建物は正面7間(28.5m)、奥行4間(13.0m)の平面規模がわかっている。また基壇の正面と背後には3つの階段が取付き、正面を除いた周囲の礎石には壁を設けるための加工が施してある。柱は直径が75cm、これを乗せる礎石は巨大で、しかも円形の柱座を3重に削って装飾している。こうした調査成果と正殿の役割から考えると、建物は寄棟の大屋根と庇を別構造で組合せ、朱塗の柱と白壁で仕上げた外観、そして内部を吹抜けのホールのような空間にした建築だったことが想定できる。屋根には左のような恐ろしい形相の鬼瓦が飾られていた。”
【写真左】政庁跡から北方に岩屋城を見る。
この日は雨が降っていたため、ほとんど霞んで見えなかったが、時折岩屋城の本丸が顔をのぞかせた。
●所在地 福岡県太宰府市観世音寺4-6-1
●築城期 7世紀後半
●築城者 不明
●指定 特別史跡
●遺構 正殿跡、南門、礎石その他
●登城日 2013年2月4日
◆解説(参考文献『集英社版日本の歴史 王朝と貴族』等)
福岡市の南東16キロには、古代の行政組織をもった九州の都・大宰府がある。日本の西の玄関としていわば中央朝廷の出張所のような役割をもった政庁跡がこの地に残っているが、実は具体的にいつの時期に造られたかはっきりしない。
現在の大宰府にある政庁跡は初期の位置にあったものでなく、その前はもう少し博多より、すなわち海岸部に近かったものと推定されている。
現在の大宰府に移ったのは、以前にも紹介した白村江(はくすき)の戦いのため、のちにより内陸部に移設したことによるといわれている。
岩屋城(大野城)から見たもの。
岩屋城については、後日アップする予定だが、戦国期に築城された岩屋城は、元々古代山城としてあった巨大な大野城の中に含まれる。
この古代山城・大野城も大宰府政庁といわばセットのような役割を持っていたのではないかと考えられる。
大宰府の遺跡保存の活動が始まったのは、江戸時代の福岡藩の頃からだという。その後現代に至り、大規模宅地開発という時代の流れの中で、文化財保護・遺跡保存をどのように進めるべきか、住民を含めた議論が根気よく続けられたという。こうして、指定区域の拡張を中心として今日の特徴ある古代文化都市としての顔を持った太宰府市が今によみがえっている。
【写真左】南門付近・その1
現地の説明板より その1
“古都大宰府保存への道
はじめに
ようこそ古都大宰府へ。四季の彩りが美しい四天王寺を望むこの場所は、万葉集にも詠まれているいにしえの西の都の跡です。
「遠の朝廷(とおのみかど)」として、繁栄を誇った大宰府も平安時代末頃(約900年前)にはその役割を終え、田畑と化してしまいました。
ところが、昭和30年代からは、歴史的価値をもった貴重な遺跡として、再び脚光を浴びることになりました。
ここで、みなさんに古都大宰府が歩んできた保存への道のりを簡単に紹介し、大宰府理解の一助にしていただければと思います。
大宰府跡の保存は、江戸時代に福岡藩(黒田家)が行った建物礎石の調査に始まります。明治・大正・昭和と時代が変わっても、保存の精神は継承され、大宰府を顕彰する石碑が建てられたり、簡単な保存整備が正殿跡を中心に行われてきました。
【写真左】南門の平面図・復元模型など
上段の写真は昭和43年の発掘調査のもので、右に出土品などが掲載されている。
昭和30年代後半、この地が福岡市に近く、住宅地に適していることもあって、大規模な宅地開発の計画が持ち上がりました。開発の波から地下に眠る文化財を守るために、文化財保護委員会は指定区域拡張の方針を示し、保存に乗り出します。ところが、地元は自分たちの生活と深くかかわりのある問題として、慎重な態度を示します。昼夜と問わず行政との話し合いが続けられ、やっとのことで指定区域拡張に対する理解と協力が得られました。
それからもう30年余りの歳月が経ちました。この間、発掘調査と保存整備が地域の人々と共に進められ、今日に見る大宰府政庁の姿ができあがりました。
文化財の保存は、人とのかかわりをぬきにして語ることはできません。地元をはじめ、いろんな人たちの苦労と努力が刻まれている古都大宰府も同じことだといえます。これからもみなさんと共に大宰府のこれからを考えていきたいと思います。”
現地の説明板より その2
“特別史跡 大宰府跡
大正10年3月3日 史跡指定
昭和28年3月31日 特別史跡指定
福岡県太宰府市大字観世音寺 坂本
古代、西海道と呼ばれた九州一円を統轄していた大宰府は、外交・貿易などの対外交渉の窓口として重要な任務を課せられていた。その機構は中央政府に準じ、地方機関としては最大規模の行政組織を有していた。
発掘調査によると、7世紀後半に掘立柱建物が建てられ、8世紀初頭に礎石を用いた朝堂院形式の建物に整備される。この建物は藤原純友の乱によって焼き打ちされたが、10世紀後半には立派に再建された。
【写真左】礎石
東脇殿のもので、これとほぼ同じような礎石が左右対称に西脇殿にも残る。
現在見ることのできる礎石は、この再建期のもので、左上図は発掘調査の成果をもとにして復元したものである。これらの建物は藤原道真が「都府の楼はわずかに瓦の色を看る」とうたっているように壮大なもので、当時としては中央の都の建物にも劣らぬものであった。
正殿は重層風につくられ、屋根は入母屋ないしは寄棟造りであったと思われる。
このような政庁を中心にして周囲は、数多くの役所が配置され、その規模は平城・平安の都に次ぐ「天下の一都会」であった。
昭和61年3月 福岡県教育委員会”
【写真左】正殿付近・その1
北側には正殿があり、この位置は少し高くなっている。
礎石はさらに一回り大きいようだ。
現地の説明板より その3
″特別史跡 大宰府跡
大宰府政庁南門跡
南門とは
南門は政庁の南に開かれた正門である。両側には東西に延びる築地塀が取りつき政庁全体を囲んでいた。要人や外国の使節を応接するにふさわしい威容を誇っていたであろう。
なお、役人の日常の出入りには築地塀に設けられた脇門を利用していたと考えられる。
【写真左】正殿遺構配置図と復元模型図
東西に繋がる回廊や正殿母屋はほとんど第Ⅲ期の遺構とされている。
発掘調査でわかったこと
南門は中門跡とともに、昭和43(1968)年に大宰府跡で最初の発掘調査がおこなわれた場所である。この調査によって地表面に見える礎石群は奈良時代(政庁第Ⅱ期)のものではなく、平安時代後半(政庁第Ⅲ期)に建て替えられた時のものであることが判明した。
建物の平面形は変わらないが、基壇(建物土台)は拡張されており、Ⅱ期に比べて大きくなっている。基壇の中央部から水晶や琥珀を納めた鎮壇(ちんだん)の須恵器壺が完全な形で出土した。この壺はⅡ期の門の築造年代を知る有力な手がかりとなった。
礎石は11個残っていた。調査結果をもとに平面復元を行った。現在見えている礎石は右図のように本来の位置のもの、移動されたもの、コンクリートで新しく作ったものの3種類がある。なお両側の柘植は築地塀を表示している。
【写真左】正殿付近・その2
正殿付近には石碑が建っている。
南門の復元模型
これまでの発掘調査の成果と、現存する古代建築の構造・意匠を参考にして、想定復元した模型が右の写真の建物である。復元された南門建物は、高さ18.2m、正門5間(21m)、奥行2間(8.2m)の規模を誇り、正面入口には3か所の扉が設けられていた。また、大宰府の玄関口としてふさわしく、2階建で入母屋造りの屋根をのせた、壮麗で堂々とした門だったようである。
現地の説明板より その4
“特別史跡 大宰府跡
大宰府政庁正殿跡
正殿跡とは
大宰府の長官である帥(そち)が政務を執り、これと関わる儀礼や儀式で最も重要な役割を果たした場所が正殿である。大宰府は中央政府の縮小版として西海道(九州)の管内諸国を統轄していた。宮都での元旦拝賀を参考にすれば、大宰府でも元旦には管内諸国から国司らが集い、正殿に坐した帥に拝賀する儀礼が行われたと思われる。このように正殿はその政治的秩序を保つための威厳に満ちた建物だったことだろう。
【写真左】後殿及び東楼・西楼の礎石
正殿の北側には後殿と東西楼があり、その中央奥には北門が控えていた。
発掘調査でわかったこと
政庁の建物群は3期(Ⅰ~Ⅲ期)にわたって変遷し、Ⅰ期は掘立柱建物、Ⅱ・Ⅲ期は礎石建物が採用され、中・南門の建物についてはⅡ期とⅢ期がほぼ同じ規模と構造だったことが判明している。近年の調査では、正殿も他と同様にⅡ・Ⅲ期の基壇(建物の基礎)が同一規模で建替えられていたことが明らかになった。この建替えの原因となった941年藤原純友の乱による火災を示す焼土や炭をⅢ期整地層の下部で確認した。さらに、基壇の下層でⅠ期の掘立柱建物・柵・溝等を発掘した。これら建物群はいずれも規模が大きく整然と配置され、周囲を柵と溝で区画していることが判明した。すでにⅠ期の段階から儀礼空間を意識した配置だったと考えられる。
【写真左】蔵司地区官衙(くらつかさちく かんが)
政庁跡の西側に残るもので、蔵司は西海道(九州)9国3島(後に2島)の綿・絹などの調庸物(税)を収納管理する役所で、ここで集められた調庸物は一旦ここに納められ、その後一部が進上されたという。
正殿の建物
残された礎石からⅢ期の建物は正面7間(28.5m)、奥行4間(13.0m)の平面規模がわかっている。また基壇の正面と背後には3つの階段が取付き、正面を除いた周囲の礎石には壁を設けるための加工が施してある。柱は直径が75cm、これを乗せる礎石は巨大で、しかも円形の柱座を3重に削って装飾している。こうした調査成果と正殿の役割から考えると、建物は寄棟の大屋根と庇を別構造で組合せ、朱塗の柱と白壁で仕上げた外観、そして内部を吹抜けのホールのような空間にした建築だったことが想定できる。屋根には左のような恐ろしい形相の鬼瓦が飾られていた。”
【写真左】政庁跡から北方に岩屋城を見る。
この日は雨が降っていたため、ほとんど霞んで見えなかったが、時折岩屋城の本丸が顔をのぞかせた。