磯部屋敷跡(いそべやしきあと)
●所在地 鳥取県鳥取市用瀬町用瀬
●築城期 天正8年(1580)
●廃城年 慶長5年(1600)
●城主 磯部兵部大輔
●遺構 石積み等
●登城日 2012年6月23日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
前稿景石城(鳥取県鳥取市用瀬町用瀬)の城主だった磯部氏の屋敷跡である。
【写真左】磯部屋敷跡
数段にわたって石積みが施されている。
所在地は、景石城の登城口から少し下った谷間にあり、道路わきに小さな看板が出ている。
【写真左】屋敷跡入口
景石城の登城口前を走る道路を少し下って行った所にあるが、案内看板が小さいので、スピードを出していると見過ごすかもしれない。
磯部兵部大輔康氏
磯部氏は、『因幡誌』によれば、但馬国(兵庫県)朝来郡磯部の出であるという。
現在の朝来市山東町に磯部氏の城館が点在しているが、おそらくこの磯部氏の出と思われる。もっとも磯部氏は、元々但馬山名氏の一族であった山名上総介康煕の子で、秀吉の但馬征伐の際、軍門に降り、磯部を名乗ったといわれている。
天正8年(1580)、秀吉の第1回目の鳥取城攻めの際、付き随って来た磯部兵部大輔康氏は、五人張りの弓を引くことができた武将だったという。五人がかりでやっと引ける程の強い弓を操ることができたというから、相当な腕力の持ち主である。
【写真左】屋敷跡・その1
緩やかな谷間に4,5段の石積みが施されている。
おそらくそれぞれの段に建物が建っていたものと思われる。
前稿の説明板にもあるように、第1回目に当城の城主となった康氏は、その後、たまたま因幡・若桜鬼ヶ城跡(鳥取県若桜町)へ所用のため留守にしていたとき、山名豊国に攻められ奪還された。しかし、翌天正9年に秀吉第2回目の鳥取城攻めにおいて、鳥取城を始め因幡の諸城が攻略され、そのときの武勲が秀吉によって認められ、再び当城の城主となったという。
その後、約20年間にわたって用瀬の城下町を整備し発展させたが、関ヶ原の戦いで西軍だったため、当地を離れ流浪の身となった。そして最期は京都で病死したという。
現在の用瀬の街並みは、この磯部氏が20年間在城したとき、その基礎ができあがったものといわれている。
【写真左】屋敷跡・その2
屋敷跡地は現在杉林となっており、全体に薄暗いが、もともと開けた谷間であるので、当時はかなりの棟数があったものと思われる。
【写真左】杉の木立から大手道側を見る
屋敷跡から左側(北になるか)に、道路が見えるが、大手道側に繋がる。
この手前にも小さな谷があるので、当時は橋のようなものが掛けられていたのかもしれない。
●所在地 鳥取県鳥取市用瀬町用瀬
●築城期 天正8年(1580)
●廃城年 慶長5年(1600)
●城主 磯部兵部大輔
●遺構 石積み等
●登城日 2012年6月23日
◆解説(参考文献『日本城郭体系第14巻』等)
前稿景石城(鳥取県鳥取市用瀬町用瀬)の城主だった磯部氏の屋敷跡である。
【写真左】磯部屋敷跡
数段にわたって石積みが施されている。
所在地は、景石城の登城口から少し下った谷間にあり、道路わきに小さな看板が出ている。
【写真左】屋敷跡入口
景石城の登城口前を走る道路を少し下って行った所にあるが、案内看板が小さいので、スピードを出していると見過ごすかもしれない。
磯部兵部大輔康氏
磯部氏は、『因幡誌』によれば、但馬国(兵庫県)朝来郡磯部の出であるという。
現在の朝来市山東町に磯部氏の城館が点在しているが、おそらくこの磯部氏の出と思われる。もっとも磯部氏は、元々但馬山名氏の一族であった山名上総介康煕の子で、秀吉の但馬征伐の際、軍門に降り、磯部を名乗ったといわれている。
天正8年(1580)、秀吉の第1回目の鳥取城攻めの際、付き随って来た磯部兵部大輔康氏は、五人張りの弓を引くことができた武将だったという。五人がかりでやっと引ける程の強い弓を操ることができたというから、相当な腕力の持ち主である。
【写真左】屋敷跡・その1
緩やかな谷間に4,5段の石積みが施されている。
おそらくそれぞれの段に建物が建っていたものと思われる。
前稿の説明板にもあるように、第1回目に当城の城主となった康氏は、その後、たまたま因幡・若桜鬼ヶ城跡(鳥取県若桜町)へ所用のため留守にしていたとき、山名豊国に攻められ奪還された。しかし、翌天正9年に秀吉第2回目の鳥取城攻めにおいて、鳥取城を始め因幡の諸城が攻略され、そのときの武勲が秀吉によって認められ、再び当城の城主となったという。
その後、約20年間にわたって用瀬の城下町を整備し発展させたが、関ヶ原の戦いで西軍だったため、当地を離れ流浪の身となった。そして最期は京都で病死したという。
現在の用瀬の街並みは、この磯部氏が20年間在城したとき、その基礎ができあがったものといわれている。
【写真左】屋敷跡・その2
屋敷跡地は現在杉林となっており、全体に薄暗いが、もともと開けた谷間であるので、当時はかなりの棟数があったものと思われる。
【写真左】杉の木立から大手道側を見る
屋敷跡から左側(北になるか)に、道路が見えるが、大手道側に繋がる。
この手前にも小さな谷があるので、当時は橋のようなものが掛けられていたのかもしれない。