赤屋城山城(あかやしろやまじょう)
●所在地 島根県安来市伯太町赤屋
●築城期 不明
●築城者 不明
●高さ 標高221m
●備考 用土の城山城
●遺構 郭・帯郭等
●登城日 2010年9月29日
◆解説
前稿「赤崎山城」の東麓を流れる伯太川をさかのぼり、県道9号線(安来伯太日南線)にそっていくと、伯太町の赤屋という地区につながる。
【写真左】赤屋観光案内図
この図では上が伯耆(鳥取県)側で、下が安来方面(北)になるが、赤屋山城は図中の中央やや左側に記されている。
高尾山はその右側に記されている。また、伯太川支流の小竹川には「尼子橋」という橋も記されている。
赤屋城山城は、この伯太川と小竹川が分岐した位置に築かれ、小竹川沿いに築かれた山城である。なお、伯太川をそのまま登っていくと、西側には尼子十砦の一つとされた高尾城(島根県安来市伯太町下十年畑)がある。
【写真左】登城口付近
下に見える道路は、県道9号線で、その脇から登城口の案内が出ている。
現地の説明板より
“ふるさと憩の場
赤屋城山公園のご案内
伯太町赤屋地区の扇の要の位置にあたるここ城山は、伯太川の上流・草野川と小竹川の合流点にあり、大字赤屋と下十年畑にまたがる面積6ヘクタール、標高220mの独立山である。
城山は、遠く尼子時代には「尼子十砦」の一つ下十年幡の高尾城の見張所として、防衛上の重要な地点であったという。山頂には「馬乗り馬場」といわれる馬場道も残っている。
近年赤屋地区においても、過疎化現象が進む中で、ふるさとを守り、ふるさと赤屋を愛し、地区の活性化を見出そうと周知を結集して、ここ城山の公園化を企画したのである。
以来、赤屋地区の多数の皆様の温かいご協力と、多くの方々のボランティア活動によって、諸施設が次々と整い、地区民手造りのユニークな公園が出来つつある。
ここ登山口より350m登ると、山頂に達する。東に赤屋の家並み、見土路、部張、そして遠く秀峰大山を仰ぐ景観が広がる。眼を転じて西方を望めば、下十年畑の田園風景が眼下に、上十年畑、草野の山々、さらに中国山地の峰々が紫雲にかすんでひときわ美しい。
【写真左】登城道
登城道はご覧の通り公園として整備されたことから歩きやすくなっている。
最初に南側にある頂に向かって登り坂となり、その後いったん鞍部を介し、北側の主郭部に向かって再び登るコースとなっている。
この由緒ある城山の山頂に立ち、遠く戦国の世を偲び、そしてまた大山の霊峰を拝して夢をふくらませ、共に語り合うひと時は、誠に意義深い憩いのひと時になるであろう。
城山の花のさかりに登り来て
仰見渡せば昔偲ばゆ 妹尾豊三郎 作
要害の山は昔をもらさねど
人かわりてぞ語りつぎける 稲田元治 作
昭和61年7月 建立 赤尾城山公園促進協議会”
【写真左】主郭へ向かう坂
このあたりから公園として改変されているようで、遺構の明示もないため判断が難しいが、主郭を中心に周囲に帯郭が巻き付いたものだったと考えられる。
説明板にもあるように、尼子十砦の一つとされる「高尾山城」の見張所の役目を負った城砦でもあるが、同じような役目をしていたと思われる支城としては、この他に高尾山城の南西方向に「岩伏山城」及び「小屋ノ峰城」(いずれも上・下十年畑)があり、小竹川上流部には「比婆山城」(峠之内)も配置されている。
【写真左】主郭
およそ20m四方の平坦地となっており、ベンチなどが設置されている。
ただ、これら3城の位置は、隣国伯耆国との境でもあり、いわゆる「境目の城」としての城砦だったものと思われる。
また、この地域は南方の伯耆国と同じように、中世から多くの鉄の生産が行われていたところで、4,50か所の鈩跡がある。
築城者・城主
残念ながら、当城に関する史料は持ち合わせていないため、築城期や築城者など詳細は不明である。
ただ、永禄9年(1566)11月、尼子の居城・月山冨田城が落城し、尼子義久・秀久・倫久らが毛利元就に捕らわれ、杵築の港から護送される際、最後の別れをした鹿助をはじめとする69名の面々の中に、「高尾縫殿助」及び「高尾左馬允」という部将の名が記録されているので、両名はおそらく「高尾山城」や本稿の「赤屋城」の城主ではなかったかと考えられる。
【写真左】主郭から西方を見る。
記憶に間違いがなければ、この中央右にみえる山並みの中に、根拠城である高尾山城が入っていると思われる。
【写真左】主郭から東方を見る。
視界がいいと、鳥取伯耆の大山(だいせん)がこの方向に見えると思われるが、この日は残念ながら霞んでいた。
●所在地 島根県安来市伯太町赤屋
●築城期 不明
●築城者 不明
●高さ 標高221m
●備考 用土の城山城
●遺構 郭・帯郭等
●登城日 2010年9月29日
◆解説
前稿「赤崎山城」の東麓を流れる伯太川をさかのぼり、県道9号線(安来伯太日南線)にそっていくと、伯太町の赤屋という地区につながる。
【写真左】赤屋観光案内図
この図では上が伯耆(鳥取県)側で、下が安来方面(北)になるが、赤屋山城は図中の中央やや左側に記されている。
高尾山はその右側に記されている。また、伯太川支流の小竹川には「尼子橋」という橋も記されている。
赤屋城山城は、この伯太川と小竹川が分岐した位置に築かれ、小竹川沿いに築かれた山城である。なお、伯太川をそのまま登っていくと、西側には尼子十砦の一つとされた高尾城(島根県安来市伯太町下十年畑)がある。
【写真左】登城口付近
下に見える道路は、県道9号線で、その脇から登城口の案内が出ている。
現地の説明板より
“ふるさと憩の場
赤屋城山公園のご案内
伯太町赤屋地区の扇の要の位置にあたるここ城山は、伯太川の上流・草野川と小竹川の合流点にあり、大字赤屋と下十年畑にまたがる面積6ヘクタール、標高220mの独立山である。
城山は、遠く尼子時代には「尼子十砦」の一つ下十年幡の高尾城の見張所として、防衛上の重要な地点であったという。山頂には「馬乗り馬場」といわれる馬場道も残っている。
近年赤屋地区においても、過疎化現象が進む中で、ふるさとを守り、ふるさと赤屋を愛し、地区の活性化を見出そうと周知を結集して、ここ城山の公園化を企画したのである。
以来、赤屋地区の多数の皆様の温かいご協力と、多くの方々のボランティア活動によって、諸施設が次々と整い、地区民手造りのユニークな公園が出来つつある。
ここ登山口より350m登ると、山頂に達する。東に赤屋の家並み、見土路、部張、そして遠く秀峰大山を仰ぐ景観が広がる。眼を転じて西方を望めば、下十年畑の田園風景が眼下に、上十年畑、草野の山々、さらに中国山地の峰々が紫雲にかすんでひときわ美しい。
【写真左】登城道
登城道はご覧の通り公園として整備されたことから歩きやすくなっている。
最初に南側にある頂に向かって登り坂となり、その後いったん鞍部を介し、北側の主郭部に向かって再び登るコースとなっている。
この由緒ある城山の山頂に立ち、遠く戦国の世を偲び、そしてまた大山の霊峰を拝して夢をふくらませ、共に語り合うひと時は、誠に意義深い憩いのひと時になるであろう。
城山の花のさかりに登り来て
仰見渡せば昔偲ばゆ 妹尾豊三郎 作
要害の山は昔をもらさねど
人かわりてぞ語りつぎける 稲田元治 作
昭和61年7月 建立 赤尾城山公園促進協議会”
【写真左】主郭へ向かう坂
このあたりから公園として改変されているようで、遺構の明示もないため判断が難しいが、主郭を中心に周囲に帯郭が巻き付いたものだったと考えられる。
説明板にもあるように、尼子十砦の一つとされる「高尾山城」の見張所の役目を負った城砦でもあるが、同じような役目をしていたと思われる支城としては、この他に高尾山城の南西方向に「岩伏山城」及び「小屋ノ峰城」(いずれも上・下十年畑)があり、小竹川上流部には「比婆山城」(峠之内)も配置されている。
【写真左】主郭
およそ20m四方の平坦地となっており、ベンチなどが設置されている。
ただ、これら3城の位置は、隣国伯耆国との境でもあり、いわゆる「境目の城」としての城砦だったものと思われる。
また、この地域は南方の伯耆国と同じように、中世から多くの鉄の生産が行われていたところで、4,50か所の鈩跡がある。
築城者・城主
残念ながら、当城に関する史料は持ち合わせていないため、築城期や築城者など詳細は不明である。
ただ、永禄9年(1566)11月、尼子の居城・月山冨田城が落城し、尼子義久・秀久・倫久らが毛利元就に捕らわれ、杵築の港から護送される際、最後の別れをした鹿助をはじめとする69名の面々の中に、「高尾縫殿助」及び「高尾左馬允」という部将の名が記録されているので、両名はおそらく「高尾山城」や本稿の「赤屋城」の城主ではなかったかと考えられる。
【写真左】主郭から西方を見る。
記憶に間違いがなければ、この中央右にみえる山並みの中に、根拠城である高尾山城が入っていると思われる。
【写真左】主郭から東方を見る。
視界がいいと、鳥取伯耆の大山(だいせん)がこの方向に見えると思われるが、この日は残念ながら霞んでいた。