駒山城(こまやまじょう)
●所在地 兵庫県赤穂郡上郡町井上
●築城期 南北朝時代か
●築城者 赤松氏
●標高 263m
●遺構 本丸・二ノ丸・堀切その他
●指定 上郡町指定文化財
●登城日 2011年3月6日
◆解説
所在地は、前稿「赤穂城」の脇を流れる千種川を上った赤穂郡上郡町にある。
独特の山容を誇った生駒山に築かれた山城で、特に登城途中から見る本丸や、二ノ丸は見ごたえがある。
【写真左】駒山城遠望
登城途中からみた駒山城の二ノ丸
現地の説明板より
“上郡町指定文化財
駒山城跡
上郡町山野里・井上
標高263mの駒山山頂にあり、上郡の市街地を一望のもとに見渡すことができます。南の尾根伝いと東の麓からの登山道が設けられています。
南北朝時代(14世紀)の築城とも伝えられていますが、現在残る縄張は、戦国時代(16世紀)の後半頃のものと思われます。
二つの尾根を中心に、帯曲輪跡や石積・土塁・堀切・井戸跡などが残っており、瓦や備前焼等の戦国時代の遺物も採集されています。
瓦や石積など、後の近世城郭につながる特徴を持つ中世の山城として、町内でも数少ない貴重な城跡です。
上郡町 上郡町教育委員会”
【写真左】登城口付近
登城口は2カ所あり、この写真は南側からのもので、「羽山登山路」とよばれるもの。
もう一つは、東側にあるもので、「井上登山路(いろは道)」というもの。これは尾根斜面の急坂を登るのできついようだ。
ここには当城の由来や簡単な配置図が掲示されている。
南北朝時代
説明板にもあるように、築城期が確定していないが、駒山城から北東3キロに赤松円心(則村)が築城したといわれる白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)の支城ともいわれているので、当城も同じころ、すなわち南北朝初期(1330年代)と思われる。
【写真左】登山路案内板
左下に登山口があり、しばらくこの尾根筋を伝って次第に登るコースとなっている。
白旗城の支城としては、駒山城の外に、当城から真北に1.5キロ向かった愛宕山の東麓に聳える苔縄(こけなわ)城(H400m)がある。
駒山城の築城者は円心の三男・則祐といわれている。ちなみに則祐の妻は佐々木導誉の娘である。
戦国時代
戦国時代の駒山城については詳しい史料が乏しいが、唯一天文15年(1546)に、安室五郎義長の家臣・安室五郎が幼かったため、「長船越中守」が城主となった、という記録が残る。
安室氏についてはその出自など不明だが、天文15年頃の状況を考えると、播磨・備前国については、浦上氏が扶植していたので、安室氏も同氏の傘下にあったものと思われる。
浦上氏はそれまで赤松氏の家臣として働いていたが、次第に赤松氏と対立しながら、独自の道を歩み出す。
【写真左】登城途中から本丸が見え出す。
羽山コースは距離が長いものの、緩やかな稜線が多いため、比較的楽に歩ける。
ただ、後半の井上登山路(東側の登城路)と合流する地点から、途端に険しい岩山をよじ登ることになる。
こうしたことから、安室五郎義長・安室五郎、及び長船越中守なども、当時赤松氏から抜け出した浦上政宗(三石城(岡山県備前市三石)参照)の家臣であったと考えられる。
ただ、このころから播磨・備前国はめまぐるしく戦況が変わって行ったので、件の城主らの在城期間も短いものだったと思われる。
さらに下った天正5年(1577)には、小田・吉田・内海・片島の四氏が当城を攻めたものの、なかなか落城しなかった。そこで、兵法に長じた高見治部を頼んで、火を放って落城させた、という記録が残る。
【写真左】馬の蹄(ひづめ)跡
途中に大きな岩が露出し、その上を歩かなくてはならない。このため、馬を登城させる際、蹄に合わせた形の穴が掘られている。
天正年間の当地については、宇喜多直家(新庄山城(岡山県岡山市竹原)参照)が主に治めていたが、直家が毛利方から秀吉方(織田信長)に寝返ったのは、天正7年(1579)であるので、上記の天正5年ごろの城主は宇喜多氏側のものが在城し、攻め立てた四氏は秀吉方のものだったと思われる。
【写真左】荷置岩
後半はほとんどこうした岩だらけの登城路となる。従って、雨天や雨天直後は滑りやすく、晴天の日でないと無理かもしれない。
写真は、「荷置岩」と呼ばれているところで、登城途中、一旦荷物をこの付近におろし、休憩をとった場所なのだろう。
【写真左】駒山城跡案内図
文字が大分薄くなっているが、この図では右側に本丸があり、左側に向かって一旦下がると堀切がある。それを過ぎると再び登って行くと二ノ丸が控える。
遺構の数は少ないものの、険峻な山容と相まって、現地にたたずむとその迫力に圧倒される。
【写真左】直下から本丸を見る
この付近から遺構は岩と砂礫の混ざった土質で構成されている。
【写真左】本丸から西方に二ノ丸を見る。
本丸から二ノ丸までは約200m程度あり、この位置から二ノ丸を見る景色も見ごたえがある。
【写真左】本丸から北東方向に伸びる郭段
先端部に向かって幅は狭くなっていくが、本丸から3,4段の郭が構成されている。
【写真左】上記郭段の先端部
これまでかなり険峻な山城を探訪してきているが、久しぶりに足元がすくんだ個所である。
かなり前の方に出てみるものの、斜面が見えない。
どうしても見たい方は、この位置で腹這いになることをお勧めする。
【写真左】本丸から北東に白旗城を見る
おそらくこの写真の中央部にかすんだ一番高い山が白旗城と思われる。
この日も少し雨が降っていたため、全体に視界がよくなかった。
左側に見える川は、千種川。
【写真左】空堀跡
本丸とその先にある二ノ丸をつなぐ中間点に設置されている。
堀切となっているが、元々本丸と二ノ丸が別の尾根構成をしているので、鞍部であったものを土橋で繋いだようにも見える。
この写真では分かりにくいが、右側にも土橋のような連絡路が構成され、その間が深くなっている。本丸側は崩落を防ぐため、石垣が組まれている。
また、この深くなったところは、井戸跡にも見える。
【写真左】二ノ丸
標高は本丸より少し低いが、規模は本丸と同等もしくは凌ぐ大きさかもしれない。
非常にきれいに管理されているので、気持ちがいい。
【写真左】二ノ丸西端から振り返ってみる。
二ノ丸はおよそ2m程度の段差を持たせた3段程度の郭で構成されている。
北から西及び南側面はほとんど険しい切崖で、登城路以外のコースから登ることはほぼ不可能である。
【写真左】二ノ丸から東に本丸を見る
この位置からは本丸の南端部しか見えないが、それでも当城の威容感を十分楽しめる。
【写真左】二ノ丸から登城路の尾根、及び上郡の街並みを見る。
写真の尾根筋が登ってきた羽山登山路で、その向こうに城下の上郡の町や、千種川が見える。
●所在地 兵庫県赤穂郡上郡町井上
●築城期 南北朝時代か
●築城者 赤松氏
●標高 263m
●遺構 本丸・二ノ丸・堀切その他
●指定 上郡町指定文化財
●登城日 2011年3月6日
◆解説
所在地は、前稿「赤穂城」の脇を流れる千種川を上った赤穂郡上郡町にある。
独特の山容を誇った生駒山に築かれた山城で、特に登城途中から見る本丸や、二ノ丸は見ごたえがある。
【写真左】駒山城遠望
登城途中からみた駒山城の二ノ丸
現地の説明板より
“上郡町指定文化財
駒山城跡
上郡町山野里・井上
標高263mの駒山山頂にあり、上郡の市街地を一望のもとに見渡すことができます。南の尾根伝いと東の麓からの登山道が設けられています。
南北朝時代(14世紀)の築城とも伝えられていますが、現在残る縄張は、戦国時代(16世紀)の後半頃のものと思われます。
二つの尾根を中心に、帯曲輪跡や石積・土塁・堀切・井戸跡などが残っており、瓦や備前焼等の戦国時代の遺物も採集されています。
瓦や石積など、後の近世城郭につながる特徴を持つ中世の山城として、町内でも数少ない貴重な城跡です。
上郡町 上郡町教育委員会”
【写真左】登城口付近
登城口は2カ所あり、この写真は南側からのもので、「羽山登山路」とよばれるもの。
もう一つは、東側にあるもので、「井上登山路(いろは道)」というもの。これは尾根斜面の急坂を登るのできついようだ。
ここには当城の由来や簡単な配置図が掲示されている。
南北朝時代
説明板にもあるように、築城期が確定していないが、駒山城から北東3キロに赤松円心(則村)が築城したといわれる白旗城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)の支城ともいわれているので、当城も同じころ、すなわち南北朝初期(1330年代)と思われる。
【写真左】登山路案内板
左下に登山口があり、しばらくこの尾根筋を伝って次第に登るコースとなっている。
白旗城の支城としては、駒山城の外に、当城から真北に1.5キロ向かった愛宕山の東麓に聳える苔縄(こけなわ)城(H400m)がある。
駒山城の築城者は円心の三男・則祐といわれている。ちなみに則祐の妻は佐々木導誉の娘である。
戦国時代
戦国時代の駒山城については詳しい史料が乏しいが、唯一天文15年(1546)に、安室五郎義長の家臣・安室五郎が幼かったため、「長船越中守」が城主となった、という記録が残る。
安室氏についてはその出自など不明だが、天文15年頃の状況を考えると、播磨・備前国については、浦上氏が扶植していたので、安室氏も同氏の傘下にあったものと思われる。
浦上氏はそれまで赤松氏の家臣として働いていたが、次第に赤松氏と対立しながら、独自の道を歩み出す。
【写真左】登城途中から本丸が見え出す。
羽山コースは距離が長いものの、緩やかな稜線が多いため、比較的楽に歩ける。
ただ、後半の井上登山路(東側の登城路)と合流する地点から、途端に険しい岩山をよじ登ることになる。
こうしたことから、安室五郎義長・安室五郎、及び長船越中守なども、当時赤松氏から抜け出した浦上政宗(三石城(岡山県備前市三石)参照)の家臣であったと考えられる。
ただ、このころから播磨・備前国はめまぐるしく戦況が変わって行ったので、件の城主らの在城期間も短いものだったと思われる。
さらに下った天正5年(1577)には、小田・吉田・内海・片島の四氏が当城を攻めたものの、なかなか落城しなかった。そこで、兵法に長じた高見治部を頼んで、火を放って落城させた、という記録が残る。
【写真左】馬の蹄(ひづめ)跡
途中に大きな岩が露出し、その上を歩かなくてはならない。このため、馬を登城させる際、蹄に合わせた形の穴が掘られている。
天正年間の当地については、宇喜多直家(新庄山城(岡山県岡山市竹原)参照)が主に治めていたが、直家が毛利方から秀吉方(織田信長)に寝返ったのは、天正7年(1579)であるので、上記の天正5年ごろの城主は宇喜多氏側のものが在城し、攻め立てた四氏は秀吉方のものだったと思われる。
【写真左】荷置岩
後半はほとんどこうした岩だらけの登城路となる。従って、雨天や雨天直後は滑りやすく、晴天の日でないと無理かもしれない。
写真は、「荷置岩」と呼ばれているところで、登城途中、一旦荷物をこの付近におろし、休憩をとった場所なのだろう。
【写真左】駒山城跡案内図
文字が大分薄くなっているが、この図では右側に本丸があり、左側に向かって一旦下がると堀切がある。それを過ぎると再び登って行くと二ノ丸が控える。
遺構の数は少ないものの、険峻な山容と相まって、現地にたたずむとその迫力に圧倒される。
【写真左】直下から本丸を見る
この付近から遺構は岩と砂礫の混ざった土質で構成されている。
【写真左】本丸から西方に二ノ丸を見る。
本丸から二ノ丸までは約200m程度あり、この位置から二ノ丸を見る景色も見ごたえがある。
【写真左】本丸から北東方向に伸びる郭段
先端部に向かって幅は狭くなっていくが、本丸から3,4段の郭が構成されている。
【写真左】上記郭段の先端部
これまでかなり険峻な山城を探訪してきているが、久しぶりに足元がすくんだ個所である。
かなり前の方に出てみるものの、斜面が見えない。
どうしても見たい方は、この位置で腹這いになることをお勧めする。
【写真左】本丸から北東に白旗城を見る
おそらくこの写真の中央部にかすんだ一番高い山が白旗城と思われる。
この日も少し雨が降っていたため、全体に視界がよくなかった。
左側に見える川は、千種川。
【写真左】空堀跡
本丸とその先にある二ノ丸をつなぐ中間点に設置されている。
堀切となっているが、元々本丸と二ノ丸が別の尾根構成をしているので、鞍部であったものを土橋で繋いだようにも見える。
この写真では分かりにくいが、右側にも土橋のような連絡路が構成され、その間が深くなっている。本丸側は崩落を防ぐため、石垣が組まれている。
また、この深くなったところは、井戸跡にも見える。
【写真左】二ノ丸
標高は本丸より少し低いが、規模は本丸と同等もしくは凌ぐ大きさかもしれない。
非常にきれいに管理されているので、気持ちがいい。
【写真左】二ノ丸西端から振り返ってみる。
二ノ丸はおよそ2m程度の段差を持たせた3段程度の郭で構成されている。
北から西及び南側面はほとんど険しい切崖で、登城路以外のコースから登ることはほぼ不可能である。
【写真左】二ノ丸から東に本丸を見る
この位置からは本丸の南端部しか見えないが、それでも当城の威容感を十分楽しめる。
【写真左】二ノ丸から登城路の尾根、及び上郡の街並みを見る。
写真の尾根筋が登ってきた羽山登山路で、その向こうに城下の上郡の町や、千種川が見える。
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