平田城(ひらたじょう)・その1
●所在地 島根県出雲市平田町極楽寺山
●築城期 応永年間(1394~1427)ごろ
●築城者 多賀氏か
●標高 53m
●別名 山崎城・薬師城・手崎城
●遺構 郭・帯郭・腰郭・堀切等
●登城日 2011年1月10日、及び数回
◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「島根県の歴史 県史32:山川出版」その他)
前稿「旅伏山城」の旅伏山東麓にある通称愛宕山に築かれた山城である。地元では、普段「平田のアタゴさん」と呼んでいる山である。
【写真左】平田城遠望
南麓からみたもの。平田城の標高はわずか53mであるため、山城というよりは、平城に近い。
現地の説明板より
“平田城跡
平田城は別名を手崎城・薬師城と呼ばれる中世の山城です。
応永から大永年間(1394~1528)まで、京極氏の家臣多賀氏が根拠としていましたが、その後尼子氏が再興をはかって根拠としていた高瀬城(簸川郡斐川町荘原)に対して、毛利方が入城したことにより、このあたりで両者による合戦が行われたといわれています。
この場所が主郭のあったところであり、周囲にも付属する郭が築かれ、西1の郭・西2の郭などに当時の面影を残しています。また、郭の附近には堀切があり、当時の城郭構造を知ることができます。
平田市”
【写真左】中腹の駐車場付近
平田城跡は、愛宕山公園という市民の憩いの場や、鹿や鳥などを飼育した施設が設置されている。
本丸跡はこの写真の右側にあるが、当時はこの山全体が城域だったと考えられる。
出雲国守護職・京極氏
出雲国の南北朝・室町期に守護職としてあったのは、塩冶高貞を皮切りに、前半では京極氏と山名氏の両氏が、対立しながらもほぼ交互に務めていった。しかし、明徳2年(1391)に山名氏が幕府に反旗を翻した「明徳の乱」が起こると、翌3年から京極氏が、同国守護職として任を負うことになる。
最初に任じられたのが、京極高詮である。同年(明徳3年)3月2日付の「佐々木文書」に次のように記されている。
“足利義満、佐々木(京極)高詮に、出雲・隠岐の本領・新恩地を領地させる”
新守護となった高詮は、さっそく守護職としての対応を取っていった。
先ず、その年の6月8日には、千家・北島を杵築大社に寄進(出雲大社文書)し、10月7日、杵築大社内佐木(鷺)浦を、国造に安堵する(千家文書)。
そして、次に鰐淵寺に対しては、寺領高浜郷・遙堪郷の土地を安堵する(10月16日・千家文書)。
もっともこれについては、杵築大社及び鰐淵寺といった伝統的な在地勢力に対する「気配り」的なもので、守護職として強力な出雲国支配を貫徹するというところまでは至っていない。
その上、高詮自身は、幕府の命によって、「在京」を義務付けられ、飛騨の国も兼ねた守護職であったため、直接出雲国に赴任せず、専ら京都にいた。
朝山氏
ところで、高詮は翌4年(1393)3月20日、出雲国朝山郷の土地を神西三川六郎に与え、同年6月6日には、高詮の父・高秀の名によって、神西三川六郎に朝山郷内の稗原左京亮跡(地)を給与している(春日文書)。
全体が公園になっているため、要所には写真に見える階段が設置され、標高も低いこともあって、登城には散歩気分で登れる。
この記録と関係すると思われるのが、前稿「旅伏山城」でも述べた「朝山氏」の動きである。同氏は、応永元年頃(1394)ごろまで、当地を本領としていたが、その後室町幕府奉公衆として京都に上っている。
朝山氏は、京極高詮が出雲国守護となる前、旧国衙在庁官人のリーダーであったわけで、京極氏が出雲守護職となれば、それまでの社家奉行としてあった朝山氏の存在は必要なくなる。朝山氏自らの選択かもしれないが、京に上って、室町幕府の奉公衆となったのは、多分に幕府の意向が働いているとも考えられる。
というのも、任命権者である幕府自身、守護職が強大な領国支配することを恐れていたことも、事実で、いわば朝山氏は、幕府内に置いて守護職・京極氏をけん制する役目を担ったものと思われる。
【写真左】平田城縄張図
現地本丸跡に設置されているもので、遺構の数としては少ない表示だが、実際にはこの北方から繋がる峰の辺りも城郭だったと思われ、現在の平田高校付近まで何らかの城砦施設があったものと思われる。
三刀屋(諏訪部)氏への安堵など
さて、出雲国守護職としての京極氏の事績をもう少し追ってみる。
明徳4年(1393)2月5日、明徳の乱で敗れた山名方の山名満幸が、三刀屋城を攻め、城主諏訪部菊松丸は一旦退却するも、3月には諏訪部一族が奪還した。
それに対し、応永3年(1396)9月29日、諏訪部菊松丸に三刀屋郷地頭職・庶子分・下熊谷の土地を安堵し、2年後の応永5年9月9日、幕命によって諏訪部三郎に同国三刀屋郷総領方地頭職を安堵する(三刀屋文書)。
ところで、出雲の領地を受けてから、7年後の応永6年(1399)に次の文書が見える。
“足利義満、佐々木(京極)高詮を出雲国守護職に任命する(佐々木文書:応永6年11月15日)”
【写真左】西1郭付近
幅は4,5m、奥行きは15m程度ある。
この時期に、こうした文書が見えるのは、不自然だが、これは、おそらく、途中から守護代として隠岐国守護代であった隠岐氏が、絶大な支配力を持ち、その結果、京極氏の介入を許さなかったためと思われ、右の文書は事実上「隠岐国守護職の解任」とも受け止められる。
高詮は、その後応永8年(1401)8月に、出雲・(隠岐)・飛騨三国の守護職と、所領、総領分をすべて嫡子高光に譲り、翌月(9月)の7日、死去する。享年49歳。
【写真左】堀切
西1郭から西2郭に降りる位置にあるもので、現在は公園を散策する散歩道になっている。
多賀氏
さて、平田城の築城期ははっきりしないが、おそらく上述したように、京極高詮が出雲守護職となった明徳3年から応永年間の初期(1394)頃と思われる。
このころの出雲国守護代についてはあまり記録が残っていない。その中でも、14世紀後半から15世紀前半では、多賀氏と宇賀野氏の名が残る。
ただ、それより前の健治2年(1276)2月、杵築大社の領家・藤原顕嗣が杵築大社総検校・中原実高を罷免し、国造・義孝を同職に補任し、造営を急がせる(北島家文書)、というのがあり、この中の中原実高は、多賀氏の祖である中原とも推察されることから、すでにこのころ多賀氏系譜の一族が出雲国に在住していた可能性もある。
【写真左】西2郭
西端部のもので、4,5m四方の大きさがある。
多賀氏は、もともと鎌倉幕府の北条氏に寄進して鎌倉御家人となり、多賀社(滋賀県)の神官となり、その後京極氏(佐々木氏)の被官となって、元弘・建武の頃は京極高氏(佐々木導誉)の下で活躍している。
【写真左】多賀大社
所在地:滋賀県犬上郡多賀町多賀604番地
このことから、守護職・京極氏としては、守護代は多賀氏に指名し、出雲国に下向させたのであろう。
「平岡文書」という史料に次の記録が見える。
“明徳3年(1392)10月8日、隠岐守某、多賀弾正右衛門に対し、杵築大社権検校職・大庭田尻保内田畠・揖屋庄内崎田村平岡分田畠を平岡氏に打ち渡すよう命ずる”
この記録から推察すると、この年(明徳3年)、「隠岐守某」(守護職と同等の権限を持った者か)の命によって、多賀弾正右衛門なるものが、すでに守護代として活躍していると思われる。なお、文中の「平岡氏」というのは、おそらく千家・北島といった国造一族の一人と思われる。
【写真左】旅伏山城遠望
本丸跡から西方に見たもの。
現地の説明板によると、この平田城を居城とした多賀氏は、応永から大永年間(1394~1528)までの130年余り当地にあったことになる。この間の記録として主なものをあげると次のものがある。
最初に挙げるものは、文明4年(1472)3月20日付の「日御碕文書」にある「幕府奉行人奉書」である。
これは、杵築大社が日御碕神社の社領を横領していることに対する停止を命令したもので、布達先には、当時すでに出雲国守護代となっていた尼子清定をはじめ、牛尾、熊野、佐世、湯、馬来、広田、佐々木塩冶五郎左衛門尉、松田三河守、村井信濃守らと並んで、多賀次郎左衛門尉の名が見える。
【写真左】南方に高瀬城遠望
写真中央のやや右に見える山が斐川町にある高瀬城である。
戦国期の元亀年間、平田城と鳶ヶ巣城に陣した毛利方と、米原綱寛(尼子再興軍)が拠った高瀬城との間で激しい戦が行われた。
主に毛利方が高瀬城に攻め入った記録が多いが、米原方も数回、船を使ってこの平田城に攻め入ったとの記録がある。
さらに10年後の文明14年(1482)、鰐淵寺に西西郷(平田市西郷町)の経田を寄進(「鰐淵寺文書」8月18日付)した、とある多賀次郎左衛門尉秀長は、おそらく、同上の人物と同一と思われる。
さらに下った永正18年(1521)には、多賀次郎左衛門尉が、寿峰院(のちの平田市大林寺)に寺領を寄進(代林寺文書)している。
多賀氏が当地・平田城に拠っていた記録は以上のようなものだが、その期間に守護職であった京極氏の状況が変わって行く。
高詮から数えて5代目となる持高が、嗣子を残さず39歳で亡くなる(永享11年・1439、1月13日、又は14日)と、叔父であった高数が引き継いだが、彼も「嘉吉の乱」(嘉吉元年:1441年、6月24日)で誅殺された。
このため、半年間は出雲国守護職が定まらず、その年の12月20日になって、幕府は京極持清を補任している。
【写真左】本丸より南東方向に丸倉山城及び大平山城を見る。
丸倉山城については、2009年11月1日投稿、大平山城は、同年11月6,7日投稿しているので参照していただきたいが、最終的には毛利方の支城として使われた山城である。
京都の室町幕府自体がそうした不安定な状況下でもあったことから、次第にそのころから出雲国守護代として頭角を現してきたのが尼子氏である。
史料によっては、尼子氏が出雲国に入ったのは、多賀氏と同じころとされ、初代尼子持久とされるが、具体的な史料はほとんど見られない。
出雲国における尼子氏の活躍が初見されるのは、持久の子・清定の代になってからで、特に応仁の乱が始まった応仁元年(1467)の11月7日に次の記録が見える。
“細川勝元、尼子清定の出雲での戦功を賞する(佐々木文書)。”
また、翌年5月になると、守護職・持清は、尼子清定に論功行賞を与え、出雲国を掌握させる(佐々木文書)、とある。
こうなると、ほとんど尼子氏が事実上の出雲国支配者と思えるが、実態は同国の在地国人領主であった松田氏や三沢氏などの反京極・尼子勢との抗争の始まりで、このころがもっとも激しくなったころである(「十神山城」2010年2月13日投稿参照)。
【写真左】東方に和久羅山城を遠望する。
平田城の東方には宍道湖があり、この湖とさらに東方にある中海との中間地点に聳える和久羅山城も、以前紹介(2009年10月28日投稿)したように戦国期に山城として使用された。
ところで、このころ多賀氏の行動については、尼子氏がより京極氏を後ろ盾としたこともあり、反尼子・京極の色を鮮明にし始めている。もっともその兆候が出たのが、尼子経久の子で、塩冶氏に養子に行った興久との抗争である。
このとき、反尼子(興久側)として連合したのは、杵築大社、鰐淵寺、三沢氏、真木氏、備後山内氏、但馬山名氏などがあり、この中には多賀氏も入っていた。 ただ、多賀氏については、すでにこの段階(天文元年:1532)では、平田城を追われた形で、その時期は享禄元年(1528)といわれている。
さて、多賀氏は飯石郡掛合へ移され、平田城にはそのあと飯野氏が入った、と記されている。
●所在地 島根県出雲市平田町極楽寺山
●築城期 応永年間(1394~1427)ごろ
●築城者 多賀氏か
●標高 53m
●別名 山崎城・薬師城・手崎城
●遺構 郭・帯郭・腰郭・堀切等
●登城日 2011年1月10日、及び数回
◆解説(参考文献「日本城郭大系第14巻」「島根県の歴史 県史32:山川出版」その他)
前稿「旅伏山城」の旅伏山東麓にある通称愛宕山に築かれた山城である。地元では、普段「平田のアタゴさん」と呼んでいる山である。
【写真左】平田城遠望
南麓からみたもの。平田城の標高はわずか53mであるため、山城というよりは、平城に近い。
現地の説明板より
“平田城跡
平田城は別名を手崎城・薬師城と呼ばれる中世の山城です。
応永から大永年間(1394~1528)まで、京極氏の家臣多賀氏が根拠としていましたが、その後尼子氏が再興をはかって根拠としていた高瀬城(簸川郡斐川町荘原)に対して、毛利方が入城したことにより、このあたりで両者による合戦が行われたといわれています。
この場所が主郭のあったところであり、周囲にも付属する郭が築かれ、西1の郭・西2の郭などに当時の面影を残しています。また、郭の附近には堀切があり、当時の城郭構造を知ることができます。
平田市”
【写真左】中腹の駐車場付近
平田城跡は、愛宕山公園という市民の憩いの場や、鹿や鳥などを飼育した施設が設置されている。
本丸跡はこの写真の右側にあるが、当時はこの山全体が城域だったと考えられる。
出雲国守護職・京極氏
出雲国の南北朝・室町期に守護職としてあったのは、塩冶高貞を皮切りに、前半では京極氏と山名氏の両氏が、対立しながらもほぼ交互に務めていった。しかし、明徳2年(1391)に山名氏が幕府に反旗を翻した「明徳の乱」が起こると、翌3年から京極氏が、同国守護職として任を負うことになる。
最初に任じられたのが、京極高詮である。同年(明徳3年)3月2日付の「佐々木文書」に次のように記されている。
“足利義満、佐々木(京極)高詮に、出雲・隠岐の本領・新恩地を領地させる”
新守護となった高詮は、さっそく守護職としての対応を取っていった。
先ず、その年の6月8日には、千家・北島を杵築大社に寄進(出雲大社文書)し、10月7日、杵築大社内佐木(鷺)浦を、国造に安堵する(千家文書)。
そして、次に鰐淵寺に対しては、寺領高浜郷・遙堪郷の土地を安堵する(10月16日・千家文書)。
その上、高詮自身は、幕府の命によって、「在京」を義務付けられ、飛騨の国も兼ねた守護職であったため、直接出雲国に赴任せず、専ら京都にいた。
朝山氏
ところで、高詮は翌4年(1393)3月20日、出雲国朝山郷の土地を神西三川六郎に与え、同年6月6日には、高詮の父・高秀の名によって、神西三川六郎に朝山郷内の稗原左京亮跡(地)を給与している(春日文書)。
全体が公園になっているため、要所には写真に見える階段が設置され、標高も低いこともあって、登城には散歩気分で登れる。
この記録と関係すると思われるのが、前稿「旅伏山城」でも述べた「朝山氏」の動きである。同氏は、応永元年頃(1394)ごろまで、当地を本領としていたが、その後室町幕府奉公衆として京都に上っている。
朝山氏は、京極高詮が出雲国守護となる前、旧国衙在庁官人のリーダーであったわけで、京極氏が出雲守護職となれば、それまでの社家奉行としてあった朝山氏の存在は必要なくなる。朝山氏自らの選択かもしれないが、京に上って、室町幕府の奉公衆となったのは、多分に幕府の意向が働いているとも考えられる。
というのも、任命権者である幕府自身、守護職が強大な領国支配することを恐れていたことも、事実で、いわば朝山氏は、幕府内に置いて守護職・京極氏をけん制する役目を担ったものと思われる。
【写真左】平田城縄張図
現地本丸跡に設置されているもので、遺構の数としては少ない表示だが、実際にはこの北方から繋がる峰の辺りも城郭だったと思われ、現在の平田高校付近まで何らかの城砦施設があったものと思われる。
三刀屋(諏訪部)氏への安堵など
さて、出雲国守護職としての京極氏の事績をもう少し追ってみる。
明徳4年(1393)2月5日、明徳の乱で敗れた山名方の山名満幸が、三刀屋城を攻め、城主諏訪部菊松丸は一旦退却するも、3月には諏訪部一族が奪還した。
それに対し、応永3年(1396)9月29日、諏訪部菊松丸に三刀屋郷地頭職・庶子分・下熊谷の土地を安堵し、2年後の応永5年9月9日、幕命によって諏訪部三郎に同国三刀屋郷総領方地頭職を安堵する(三刀屋文書)。
ところで、出雲の領地を受けてから、7年後の応永6年(1399)に次の文書が見える。
“足利義満、佐々木(京極)高詮を出雲国守護職に任命する(佐々木文書:応永6年11月15日)”
【写真左】西1郭付近
幅は4,5m、奥行きは15m程度ある。
この時期に、こうした文書が見えるのは、不自然だが、これは、おそらく、途中から守護代として隠岐国守護代であった隠岐氏が、絶大な支配力を持ち、その結果、京極氏の介入を許さなかったためと思われ、右の文書は事実上「隠岐国守護職の解任」とも受け止められる。
高詮は、その後応永8年(1401)8月に、出雲・(隠岐)・飛騨三国の守護職と、所領、総領分をすべて嫡子高光に譲り、翌月(9月)の7日、死去する。享年49歳。
【写真左】堀切
西1郭から西2郭に降りる位置にあるもので、現在は公園を散策する散歩道になっている。
多賀氏
さて、平田城の築城期ははっきりしないが、おそらく上述したように、京極高詮が出雲守護職となった明徳3年から応永年間の初期(1394)頃と思われる。
このころの出雲国守護代についてはあまり記録が残っていない。その中でも、14世紀後半から15世紀前半では、多賀氏と宇賀野氏の名が残る。
ただ、それより前の健治2年(1276)2月、杵築大社の領家・藤原顕嗣が杵築大社総検校・中原実高を罷免し、国造・義孝を同職に補任し、造営を急がせる(北島家文書)、というのがあり、この中の中原実高は、多賀氏の祖である中原とも推察されることから、すでにこのころ多賀氏系譜の一族が出雲国に在住していた可能性もある。
【写真左】西2郭
西端部のもので、4,5m四方の大きさがある。
多賀氏は、もともと鎌倉幕府の北条氏に寄進して鎌倉御家人となり、多賀社(滋賀県)の神官となり、その後京極氏(佐々木氏)の被官となって、元弘・建武の頃は京極高氏(佐々木導誉)の下で活躍している。
【写真左】多賀大社
所在地:滋賀県犬上郡多賀町多賀604番地
伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美命(いざなみ)の二柱を祀る。
参拝日:2007年10月17日
このことから、守護職・京極氏としては、守護代は多賀氏に指名し、出雲国に下向させたのであろう。
「平岡文書」という史料に次の記録が見える。
“明徳3年(1392)10月8日、隠岐守某、多賀弾正右衛門に対し、杵築大社権検校職・大庭田尻保内田畠・揖屋庄内崎田村平岡分田畠を平岡氏に打ち渡すよう命ずる”
この記録から推察すると、この年(明徳3年)、「隠岐守某」(守護職と同等の権限を持った者か)の命によって、多賀弾正右衛門なるものが、すでに守護代として活躍していると思われる。なお、文中の「平岡氏」というのは、おそらく千家・北島といった国造一族の一人と思われる。
【写真左】旅伏山城遠望
本丸跡から西方に見たもの。
現地の説明板によると、この平田城を居城とした多賀氏は、応永から大永年間(1394~1528)までの130年余り当地にあったことになる。この間の記録として主なものをあげると次のものがある。
最初に挙げるものは、文明4年(1472)3月20日付の「日御碕文書」にある「幕府奉行人奉書」である。
これは、杵築大社が日御碕神社の社領を横領していることに対する停止を命令したもので、布達先には、当時すでに出雲国守護代となっていた尼子清定をはじめ、牛尾、熊野、佐世、湯、馬来、広田、佐々木塩冶五郎左衛門尉、松田三河守、村井信濃守らと並んで、多賀次郎左衛門尉の名が見える。
【写真左】南方に高瀬城遠望
写真中央のやや右に見える山が斐川町にある高瀬城である。
戦国期の元亀年間、平田城と鳶ヶ巣城に陣した毛利方と、米原綱寛(尼子再興軍)が拠った高瀬城との間で激しい戦が行われた。
主に毛利方が高瀬城に攻め入った記録が多いが、米原方も数回、船を使ってこの平田城に攻め入ったとの記録がある。
さらに10年後の文明14年(1482)、鰐淵寺に西西郷(平田市西郷町)の経田を寄進(「鰐淵寺文書」8月18日付)した、とある多賀次郎左衛門尉秀長は、おそらく、同上の人物と同一と思われる。
さらに下った永正18年(1521)には、多賀次郎左衛門尉が、寿峰院(のちの平田市大林寺)に寺領を寄進(代林寺文書)している。
多賀氏が当地・平田城に拠っていた記録は以上のようなものだが、その期間に守護職であった京極氏の状況が変わって行く。
高詮から数えて5代目となる持高が、嗣子を残さず39歳で亡くなる(永享11年・1439、1月13日、又は14日)と、叔父であった高数が引き継いだが、彼も「嘉吉の乱」(嘉吉元年:1441年、6月24日)で誅殺された。
このため、半年間は出雲国守護職が定まらず、その年の12月20日になって、幕府は京極持清を補任している。
【写真左】本丸より南東方向に丸倉山城及び大平山城を見る。
丸倉山城については、2009年11月1日投稿、大平山城は、同年11月6,7日投稿しているので参照していただきたいが、最終的には毛利方の支城として使われた山城である。
京都の室町幕府自体がそうした不安定な状況下でもあったことから、次第にそのころから出雲国守護代として頭角を現してきたのが尼子氏である。
史料によっては、尼子氏が出雲国に入ったのは、多賀氏と同じころとされ、初代尼子持久とされるが、具体的な史料はほとんど見られない。
出雲国における尼子氏の活躍が初見されるのは、持久の子・清定の代になってからで、特に応仁の乱が始まった応仁元年(1467)の11月7日に次の記録が見える。
“細川勝元、尼子清定の出雲での戦功を賞する(佐々木文書)。”
また、翌年5月になると、守護職・持清は、尼子清定に論功行賞を与え、出雲国を掌握させる(佐々木文書)、とある。
こうなると、ほとんど尼子氏が事実上の出雲国支配者と思えるが、実態は同国の在地国人領主であった松田氏や三沢氏などの反京極・尼子勢との抗争の始まりで、このころがもっとも激しくなったころである(「十神山城」2010年2月13日投稿参照)。
【写真左】東方に和久羅山城を遠望する。
平田城の東方には宍道湖があり、この湖とさらに東方にある中海との中間地点に聳える和久羅山城も、以前紹介(2009年10月28日投稿)したように戦国期に山城として使用された。
ところで、このころ多賀氏の行動については、尼子氏がより京極氏を後ろ盾としたこともあり、反尼子・京極の色を鮮明にし始めている。もっともその兆候が出たのが、尼子経久の子で、塩冶氏に養子に行った興久との抗争である。
このとき、反尼子(興久側)として連合したのは、杵築大社、鰐淵寺、三沢氏、真木氏、備後山内氏、但馬山名氏などがあり、この中には多賀氏も入っていた。 ただ、多賀氏については、すでにこの段階(天文元年:1532)では、平田城を追われた形で、その時期は享禄元年(1528)といわれている。
さて、多賀氏は飯石郡掛合へ移され、平田城にはそのあと飯野氏が入った、と記されている。