2009年12月27日日曜日

丸茂城(島根県益田市美都町丸茂)

丸茂城(まるもじょう)

●所在地 島根県 益田市美都町丸茂
●登城日 2008年5月15日
●標高 270m
●築城期 鎌倉時代中期
●築城主 丸茂(益田)兼忠
●遺構 郭、堀切、竪堀、連続竪堀、横堀、馬場跡
●指定 旧美都町指定
●備考 別名 金城

◆解説(参考文献「島根県遺跡データベース」「サイト:城格放浪記」「益田市史」他)
 前稿で紹介した四つ山城からさらに191号線を登っていくと、美都町丸茂という地区に差し掛かる。この道路の右(南側)の山並み一角に丸茂城址がある。
【写真左】丸茂城登城口付近
 丸茂城の登城口は、この写真の場所とは別にもう一つ上手側にあるようだ。というのも、この時の探訪した個所が主郭部分まで確認できず、帰宅してから「城格放浪記」さんの記録写真を見て、初めて気がついた。



 ちなみに、四つ山城から丸茂城までの間にも、要害山城(山本城)、都茂城、古城山城(幣ヶ岳城)が同じく南側に並んでいる。また丸茂城のさらに上流部にも城ケ谷城というのがあり、美都温泉の東部には宇津川城というのもある。
 こうしてみると、この沿線にはかなり密集して城跡が立ち並んでいる。これらの山城全てが、丸茂城と関係があったものかは不明だが、地どりからみてもかなり関係をもった城跡群であったと想像できる。

 当城の沿革については、現地の説明板より転載する。

“美都町指定文化財

丸茂城址

 指定年月日 昭和56年3月24日

 丸茂城(金城)は、金城隘、馬頭隘の傾斜の間の尾根に築かれた多くの空濠と立濠(畝型阻塞)の残る山城である。
 鎌倉時代中期に益田氏五代・益田兼季の第四子・兼忠を、丸茂地頭に封じ、七尾城南方の守りのため築城されたと伝えられる。
 丸茂氏は、兼忠より六代ここに居城したようであるが、歴代城主の事跡については明らかでない。しかし、丸茂氏は常に益田領南方、三隅氏との接点で三隅氏と戦い、重要な役割を演じたことと思われる。

  丸茂城址保存会”
【写真左】登城口の登り坂付近
 この写真にある坂を登ると、すぐに周囲を波板トタンのようなもので囲いがしてある。おそらくイノシシ避けのためであろうが、これを短い脚でまたいで、尾根筋に登っていく。





 丸茂氏の出自については、上記の説明板にあるように、益田兼季の四男・兼忠がその始祖となっている。

 兼忠は、建長2年(1250)京都で発生した大火災のおり、時の北条執権・時頼の命によって兄・益田兼時から、その復旧作業の任務を任される。具体的には、復旧のための大量の材木や、食糧を浜田の港から京に向かって輸送している。また彼は、安芸国厳島神社を勧請後、丸茂に田原厳島神社を建立している(当日は当社を確認していない)。

 兼忠の後は、兼信(太郎)、兼氏、そして同名の兼忠が丸茂城を継承している。
【写真左】「馬場跡」
 尾根伝いになってしばらくすると、「馬場跡」が出てくる。残念ながら、周辺にガラス瓶や、ゴミ類が散乱している。






 時はさらに下って、南北朝期である。前々稿「高津城」でも取り上げたように、石見国においても南朝方と北朝方に分かれて激しい抗争が続いた。各地で同時多発的な戦が繰り広げられ、逐一取り上げるには本稿では無理があるので、丸茂城関係を中心に記したい。

 康永2年(興国4年:1343)2月16日、南朝方である三隅兼連の武将・三浦与一・同九郎・同与三らは、北朝方の益田兼見の支城である丸茂城を攻める。このとき守城していた丸茂彦三郎はよく防戦したが、子息・兼弘は苦闘ののち、重傷を負い、ついに城は落ちた。その後、三隅軍は益田七尾城を背後から攻め入ろうとしていく。ちなみに、この年の3月、出雲国では、塩冶高貞が京都から逃走し、宍道白石で自刃したときである。

 その後幾多の戦いを経て、貞治4年(正平5年:1349)10月、丸茂彦三郎は長野庄内の知行を安堵された。同年9月、足利尊氏は、足利直冬討伐を計り、直冬は四国、九州へと逃れる。そして10月22日には、足利義詮が鎌倉から入京している。

【写真左】「馬小屋跡」
 写真でははっきりしないが、この付近は特に削平された広い場所で、この左側の崖付近に渓流のようなものがあったので、そこから水を確保していたのかもしれない。




 戦国期における丸茂城の記録については、手持ちの資料が少ないため具体的なことは分からない。

 ただ、前稿「四つ山城」の際にも記したように、天文7年(1538)の大内義隆調停があった際、益田・三隅両家紛争の地である都茂・丸茂・匹見の三カ所を、三隅隆周(たかちか)(隆兼とも)から、益田尹兼(ただかね)へ譲渡させ、隆周の二男・隆信と尹兼の女(藤兼の姉)との婚儀によって、今後一切益田家から三隅氏に対して文句を言わせぬことを約束させている。もっとも、益田氏はその後三隅氏を滅ぼしてしまったが。

【写真左】小郭
 丸茂城の構図は、北に走る191号線に向かって、3,4カ所の突き出した丘陵とその谷をもって構成されている。

 主郭部分があるのは、その中の東方側丘陵で、各丘陵をつなぐ尾根に堀切が数カ所設置されている。

 なお、城域全体を理解するには、本稿の写真紹介より、「城格放浪記」氏のサイトが、より詳しいので、そちらをご覧いただきたい。

四ツ山城(島根県益田市美都町朝倉・小原 滝山)

四ツ山城(よつやまじょう)


●所在地 島根県益田市美都町朝倉・小原 滝山
●登城日 2007年12月17日
●標高 233m
●築城期 南北朝時代
●築城者 益田兼広
●指定 市町村指定
●遺構 郭、腰郭、堀切、竪堀、連続竪堀、虎口他

◆解説(参考文献「益田市誌(上巻)」「島根県遺跡データベース」等)
益田市街地から益田川に沿って191号線を約10キロ余り東に向かうと、東仙道というところですこし右にカーブする。この手前の左側にそびえているのが四ツ山城である。位置的には益田川の北岸にあり、旧地名でいえば朝倉郷にあたる。
四ツ山城から谷を一つ隔てた旧原郷地区には、竹城背戸山城という二つの城跡もあり、出城または支城の役目があったものと思われる。
【写真左】四ツ山城遠望
 2010年4月撮影。
北側から見たもので、南側から全景を見ることができる場所は限られているようだ。

ところで、管理人がよく利用している昭文社版「県別マップル道路地図・島根県」には、この四ツ山城の位置が実際とは違って、前述した「背戸山城」の位置に表記してある。この日訪れたのは2007年12月で、頼りにしていたこの地図を参考にした為に、大分混乱したことを覚えている。

●当城の概略は、例によって現地の説明板から紹介する。
【写真左】四つ山城の配置図(「益田市誌(上巻)」より転載)
 この日は、一の岳付近までしか登城していない。というのも前述のように、当城の所在地を確定するまでずいぶんと周辺を徘徊したため、時間が足らなくなってきたためである。

四つ山城の歴史
 四つ山城は、寄り添うように並んだ、標高220m余の同形、同高の四つの山を以て一つの郭とする山城である。
 それぞれの山は急峻で、東の一の岳を主城として、西に二の岳、三の岳、四の岳と各自に砦が築かれている要害堅固な城であった。

 この城は、鎌倉時代中期、益田氏によって築かれたが、その後、その支族である三隅氏との骨肉相食む争いの中で、その領有は度々変わった。しかし、いずれに属する時も、この四つ山城は、両国の橋頭堡となる重要な城であった。

 時は流れて元亀元年8月29日、当時、三隅領として高城、茶臼山城とともに三隅三城の名を誇った四つ山城は、毛利方、熊谷伊豆守、大友豊後守、佐々田十郎盛時等の率いる4500の大軍の猛攻を受け、城主須懸備中守忠高は、防戦むなしく500の将兵と共に城を枕に討死した。
 その時の合戦に、忠高の家来・加藤氏広佐々田十郎盛時との一騎打ちの勝負の物語は、今も里人に語り継がれている。”
【写真左】登城口付近
 この場所まで車でたどり着ける。駐車スペースも4,5台はおけたと思われる。

この中の三隅三城とされている高城は、三隅氏の本城で別名三隅城といわれ、旧三隅町の町南東にそびえる高城山(362m)にある。また、茶臼山城は三隅城から南西の方向約5キロ地点にそびえる茶臼山(292m)に配置されている。この茶臼山から南方約10キロ地点に四つ山城がある。

上記の説明板には書かれていないが、三隅三城を落とす際に、同年7月29日、三隅隆繁の拠る支城・針藻島(三隅川河口にある砦)へも毛利勢が押し寄せている。
なお、城主・須懸(すがけ)忠高は、須懸忠朝の長子で、父・忠朝は天文7年(1538)、益田氏と三隅氏との紛争調停を大内義隆が行った際、この地を三隅氏の領有とし、三隅兼頼より当城の城主として入城した。

記録によると、城主父子は、四つ山城北西の谷間である熊子屋敷に邸宅を構えていたという。また、四つ山城はその後、益田氏の領有となり、田川源八が留守役をしていたが、大屋形村馬の谷の城主・杉森氏久の攻撃にあい、討死したという。
【写真左】一の岳に向かう地点
 全体に道は整備されていて歩きやすい。
【写真左】二の丸
 一の岳にある郭で、小ぶりながら施工が丁寧だ。
【写真左】かわや
 山城遺構で、「かわや」というのはめずらしい。実際長期戦の戦になれば、当然、生理現象による処理施設はしっかりしたものをつくらないと、とてもじゃないが持ちこたえられないだろう。

【写真左】二・三・四の岳・井戸方面
 一の岳の南西端から向かう位置であるが、前述のようにこの先には向かっていない。
 幸い、「城格放浪記」さんがこの遺構部についても、分かりやすい画像を紹介しておられるので、御覧頂きたい。
【写真左】一の岳の主郭その1
 一の岳(一の平)が本丸の役目を果たしているようで、 上段に示した「配置図」でもわかるように、一の岳と二の岳の間の鞍部から北西に下がった位置に、「軍用水」が設けられていることから、この郭の重要度が高いことが分かる。
【写真左】その2
 一の岳の形状は南北に長く楕円形の郭を持ち、特に東方(益田川上流部)の眺望がよく効く。
 現在は写真のような工作物が設置されていることから、定期的な行事が行われているのだろう。
【写真左】一の岳から東方を見る
 手前に見える二本の道路に挟まれているのは、益田川で、写真の後方に見える山並みを越えると広島県に出る。なお、上流部には丸茂城などがある。
【写真左】一の岳から琵琶石岳を見る。
 四つ山城から北西約1.5キロ離れたところにある山で、標高330mである。
 特にこの方向からみると美しい山である。残念ながら山城ではないようだ。

2009年12月24日木曜日

高津城(島根県益田市高津町上市)

高津城(たかつじょう)

●所在地 島根県益田市高津町上市
●登城日 2009年4月4日
● 築城期 建武年間(1334~38)
●築城者 高津長幸
●標高 50m(比高40m)
●遺構 郭、腰郭
【写真左】高津城遠望
 現在の万葉公園で、写真左側に柿本神社がある。 高津長幸が拠った建武年間には、このあたりが出丸として構築されていたようだ。



◆解説(参考文献「益田市誌(上巻)」、「益田市史」、サイト「吉見一族」その他)

 所在地は現在の益田市高津2という場所にあり、高津川が河口付近で白上川と合流する地点の北西部丘陵にある。高津川はそのあと、左に弧を描いて日本海にそそぐ。

 この丘陵地の西半分は萩・石見空港が設置され、東部に蟠竜湖県立自然公園と万葉公園があり、東端部には柿本神社が建っている。
【写真左】県立万葉公園の配置図
 この写真では分かりずらいが、左側の柿本神社付近一体が「鍋島出丸」といわれていた所で、東端に鍋島神社がまつってある。

 そこから一旦鞍部になった形状があるが、この付近が当時「風呂の峠」といわれた。さらに右側の広場や他の施設が点在している場所が、当時の本丸や他の郭などがあったところになる。(下段参照)



 高津城の城跡としての遺構は、従ってほとんど消滅しているが、資料からたどっていくと、現在の万葉公園付近に、「本丸」「二ノ平」「三ノ平」「四ノ平」「五ノ平」があったものと思われる。また、東端部の柿本神社本殿周囲と、さらに最先端の鍋島八幡宮のあたりが、「鍋島出丸」といわれたところのようだ。
【写真左】東口駐車場付近
 写真の谷間に当たるところに駐車場がある。当時はこの位置が大手口で、さらに登っていくとここから左に「鍋島出丸」、右に本丸が控えていた。



 高津長幸については、一般的に吉見氏の一族という定説が強いが、資料によってはまったく繋がりを持たないという説もある。

 これは、そもそも吉見氏の出自について、一部に確定した点がないことが原因である。

 このブログでは、それについて考証するほどの知見もないので、一般的な定説に従って、取り上げていきたい。
 長幸の父は、吉見頼行とされ、頼行はこのほかに8人の男子がいたという。

 先ず、長男・太郎頼直は父のあとを継いで、津和野城主となり、次男・頼祐は日原町の下瀬城に拠って、下瀬氏を称する。

 三男・頼見は上領に、四男・頼繁は六日市の注連川(しめかわ)に向かい、志目河氏を名乗った。(なお、志目河については、前稿五郎丸城(島根県鹿足郡吉賀町広石立戸)の際に、「指月城」から峰伝いに攻め入った途中の山城・「志目川(河)城」で取り上げている。従って、同上の築城者は、頼行の四男・吉見(志目河)頼繁と思われる。) 


 五男・義直、六男・直見、および七男、八男の後、九男として長幸がおり、高津の地に住んで高津長幸と称したという。資料によっては、父・頼行は12人の子供がいたという説もあるが、末子は九男・長幸というのが一般的のようだ。
【写真左】東口から右の本丸方面へ登る
 東口駐車場から右(西)へ登る階段がある。この斜面一帯を「郷土の森」と命名してあるが、当時はかなり険峻な切崖だったと思われる。


 この階段を上がると「子どもの広場」などが設置されている。この付近は、当時の「五ノ平」や「四ノ平」といわれた郭群だったと思われる。


 さて、高津長幸や父・頼行が活躍する主だった記録をたどってみたい。

 元弘3年(1333)、隠岐から脱出した後醍醐天皇は、船上山に拠って諸国に味方の軍を募った。石見からは佐波顕連、三隅兼連、周布彦次郎、益田兼衡・兼家・兼員など多くの武将が馳せ参じた。

 これを聞いた長門探題の北条時直は、それを阻止すべく伯耆へむかう準備をした。その情報を聞いた後醍醐天皇は、同年3月14日、長門探題に最も近い吉見一族に対して、討伐の綸旨を降した。頼行は誇りに感じたものの、彼自身はすでに70歳を超えて、体力的には無理があった。
【写真左】「子どもの広場」「太陽の広場」など
階段を上り切ると、上記の広場があるが、これと「まほろばの園」を含めたところが、「本丸」や「二の平」といわれたところと考えられる。




 そこで、頼行は息子である四男・志目河城主・頼繁を一軍の頭とし、副には七男・吉見七郎を添え、さらに、二軍の頭には、九男・高津長幸を配し征途に向かわせた。

 同月下旬、吉見・高津の両軍は、津和野および日本海側から西に向かい、長門国阿武郡を突破、大津郡三隅に達する。その後、長幸の長門探題攻略は大激戦の末、屠ったわけであるが、「国史眼」という書物に「山陰風動し、石見の高津道性(長幸)長門に迫る」と記されている。

 こうした結果、建武元年(1334)2月、論功行賞の結果、高津長幸は従五位播磨権守に叙せられ、頼行は子息の功績により、北条時直の旧領長門国阿武郡および周防国佐波郡・山城国久世郡・大和国宇多郡を賜った(萩藩閥閲録)。
【写真左】和風休憩所付近
 柿本神社の背後の小丘で、休憩所があるが、おそらくこの小丘が実質上の出丸ではなかったかと思われる。


 しかし、建武の新政後の状況は知られているように、南北朝の対立となって再び不安定な国情を引き起こした。

 石見における南北朝の構図は、「益田市誌(上巻)」に諸族の一覧表となって示されており、ここでは主だったものを取り上げるが、特徴的なのは、強大な権力を持っていた益田氏が、宗家と庶子家に分かれたことである。

南北それぞれの主だった一族をあげてみる。(◎は石見国外からの参戦者)

《南朝方》
  • 高津長幸(高津城主)、佐波顕連、内田三郎致景(二本松城主・豊田郷地頭)、吉見頼行(津和野城主)、領家恒仲(片木城主)、三隅兼連(三隅城主)、周布兼宗(周布郷惣領地頭)、福屋兼行(福屋地頭)、井村兼雄(小石見城主)、小笠原長光、◎日野邦光(前国司稲積城主)、◎新田義氏(派遣将軍)、◎大内弘直(周防国敷山城主)他

《北朝方》
  • 益田兼見(益田七尾城主)、虫追政国(長野庄惣政所)、乙吉十郎(乙吉地頭)、益田兼行(益田城主)、領家恒正(三星城主)、須子吉国(須子陣手山城主)、周布兼氏(兼宗総領)、吉川経明(津淵村地頭)、領家公恒、丸茂教元(丸茂・安富城主)、小笠原長胤、◎土屋定盛(周防国守護代)、上野頼兼(尊氏派遣将軍)、◎松田左近将監
(侍所)、◎武田信武、◎厚東武実、◎吉川実経
【写真左】鞍部の脇にある小丘
 万葉公園を建設する際、どの程度残存度があったものかまったく不明だが、この小丘も何らかの城塞施設として使用されたかもしれない。



 高津城に関するこのときの主だった動きとしては、暦応3年(1340)10月23日、北朝方将軍・上野頼兼らが、高津川の東麓須子山(今の陣手山)に陣を張り、川向いの高津城と対峙、これにより、高津城と連絡を取っていた東方の稲積城とを分断したことである。稲積城には日野邦光が拠っていた。

 これにより、最終的には激戦の結果、翌4年(1341)2月18日夜、稲積城も高津城も落城した。
記録によればその後、高津長幸は城を脱出し、一時行方をくらましたが、12年後(1353)北九州に走り、阿蘇・菊池両氏の間に往来して、戦陣の間を馳駆している(大日本史料)。

 また、「二階堂文書」によれば、その2年前(観応2年:正平6年)12月、少弐頼尚は、「高津播磨権守長幸」の代官が、二階堂行雄の所領である筑前国佐世村を横妨しているとのことで、筑前守護代にこれをやめさせるよう命令している。
【写真左】本丸跡地付近(広場)から崖を見る。
 公園として削平された個所は、遺構の原形をほとんど留めていないが、切崖個所はある程度想像ができる。

 高津城の標高は、わずか40mだが、その割に険峻な個所が多い。


 このように、長幸は最終的には上野頼兼らによって、敗走し再び石見の国に帰ることはできなかったが、最後まで戦いをし続けた武将であるようだ。
 特に、三隅兼連とは兄弟のような強い信頼関係があったらしく、本性(石見の高僧)から教門を受け、それぞれ道性(長幸)、信性(兼連)という法号を得たとある。

 また、柿本神社の東端にある「鍋島神社(八幡宮)」は、自領鎮護の氏神として長幸が深く敬虔したといわれている。また柿本人麻呂についても深い関心を抱いていたとのことである。
【写真左】柿本神社鳥居付近
 鍋島出丸があった場所であるが、現在は柿本神社としての知名度が高い。

 なお、鍋島神社を確認せず、写真を撮っていなかったのは、悔いが残る。たしかこの下の駐車場の脇に小さな祠があったので、それだと思われる。

【写真左】柿本神社本殿










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石見・稲積城(島根県益田市水分町)

2009年12月21日月曜日

五郎丸城(島根県鹿足郡吉賀町広石立戸)

五郎丸城跡(ごろうまるじょうあと)

●所在地 島根県鹿足郡吉賀町広石立戸
●登城日 2009年4月4日
●築城期 不明
●城主 上杉五郎丸
●標高 355m
●遺構 郭、腰郭、堀切、竪堀、櫓台

◆解説(参考文献「益田市誌(上巻)」「島根県遺跡データベース」等)
 五郎丸城は、細長い島根県の西南端に位置する吉賀町にある。合併前は六日市町といっていた場所である。このあたりは山口県と接する位置で、県庁所在地である東部の松江市から最も離れた場所で、国道9号線から向かうと220km余りも離れている。

 吉賀町中央部を蛇行して流れ、益田市を通って日本海にそそぐのが高津川である。一級河川でダムが一つもなく、一時は四国の四万十川より綺麗な川として注目を浴びた。そのため、渓流釣りの人たちには有名な清流である。
【写真上】五郎丸城遠望
 東麓付近からみたもので、高津川の西河畔土手を北に向かっていくと、麓に駐車スペースがある。ここからジグザグに曲がって登る登城路が整備されている。時間的には10分程度で登れる。



 この高津川上流部の六日市から七日市に下る付近で大きく蛇行し、その蛇行した内側に細長く突き出した舌状丘陵の先端部にあるのが、五郎丸城である。また、その五郎丸城と同じ尾根を登っていくと、「次郎丸城」という城跡も残っている。
【写真左】中腹付近から南方を見る(その1)
 写真上方が上流部で、この先に六日市市街がある。川は高津川で、この手前で大きく五郎丸城を囲むように回りこんでいる。





現地の説明板から当城の概要を転載する。

五郎丸城
 上杉五郎丸が居城したため、五郎丸城と名づけられたものである。築城はいずれの時代か詳細は知られていない。

 今からおよそ430年前、天文23年(弘治元年)、山口周防の国の武将・大内義隆を倒した重臣・陶晴賢の部将・江良弾正の臣・端士太郎の両名が、300余騎をもって沢田・指月城(別名:萩の尾城)を陥れ、生捕者3名を道案内として、峰伝いに空堀、馬返しを乗り越えて五郎丸城に迫り、本丸に放火した。

 城兵は、2月の厳寒に手足凍えかなわず終に総崩れとなり、川の中の戦に五郎丸は入水して死す。残りの兵は立戸下塚より羽生城に逃れんとして敗走中、残らず討ち取られる。
 現在も、田の中に点々と五輪塔があり、五郎丸入水の所を五郎丸淵という。山裾の重藤橋のたもと近くに五郎丸城主の宝篋印塔が建っている”

【写真左】その2
 桜の花がきれいに咲いていたので、同じような写真を撮ってしまった。






 説明板にある上杉五郎丸については、詳細な記録はないが、当時の周辺の記録を参考にすれば、吉見氏の一族と思われる。

 吉見氏の祖は、清和源氏で源範頼の出である。範頼の孫・為頼が武蔵国横見群吉見ノ荘に居たことから吉見氏を名乗った。弘安の役(1281)により、能登方面へ出征した吉見頼行は戦功を称され、鎌倉に上り、その後石見に下向した。弘安5年(1282)10月23日のことである。

 その後、石見は益田氏吉見氏の二大勢力が拮抗していくが、戦国期になるとその状況はさらに激化し、そこへ山口の大内氏陶氏毛利氏、尼子氏などが加わり複雑な動きに変わっていく。

 大内義隆が陶晴賢に急襲され自害したのは、天文20年(1551)9月1日だった。義隆が自刃するする前に頼ったのが、石見津和野城主・吉見正頼である。正頼は大内義興の娘婿でもあったため、一貫して大内方に与する。一方陶晴賢に与したのは益田氏である。
【写真左】郭付近
 おそらく二の丸あたりだと思うが、この付近は公園として整備されているためか、遺構の説明板などは一切設置されていない。




 五郎丸城がある吉賀町付近も吉見氏の領地で、 説明板にある「指月城」から峰伝いに向かって「五郎丸城」を落とした、とあるが、この峰をだとると、その間には「志目川城」という山城もあるので、これを降し、さらに「次郎丸城」も落として、最後に「五郎丸城」を落としていったという流れだったと思われる。
【写真左】北端部から下段の腰郭を見る
 幅は狭いものの、北端部の郭は4,5段の構成となっている。


【写真左】本丸跡付近と思われる個所
 写真にあるように、本丸跡には休憩小屋のようなものが建っている。この段から尾根伝いに南に伸びた形状が見られる。


【写真左】本丸跡から南方の尾根を見る
 御覧のように、整備されているのはこの付近までで、この先に尾根伝いに行くと、「次郎丸城」がある。

 次郎丸城は本丸の標高が400mあまりなので、五郎丸城より50mほど高い。

2009年12月18日金曜日

福光城(島根県大田市温泉津町福波谷山)

福光城(ふくみつじょう)

●所在地 島根県大田市温泉津町福波谷山
●登城日 2007年11月23日
●築城期 戦国時代
●築城主 吉川経安
●標高 100m
●遺構 石垣、古池、五輪塔、郭、帯郭、腰郭、土塁、堀切
●別名 物不言(ものいわず)城、不言城
●登城日 2007年11月30日及び2013年3月

◆解説(参考文献「城格放浪記」「島根県遺跡データベース」その他)
 国道9号線を松江方面から向かうと、温泉津温泉を過ぎて、約3キロほど進んだ位置に福光という地区がある。

 この場所は、東方の山並みから流れてきた福光川と接近する位置で、少し谷間が広がっている。ちょうどこの位置の南西に突き出した丘陵地に福光城がそびえている。
【写真左】福光城遠望・その1
 撮影日 2013年3月。この前年暮れだろうか、尾根筋が大分整備されている。






 温泉津は石見銀山の積出し港として、その名はよく知られているが、この福光地区はその場所から南にあり、毛利方にとってもいわば温泉津の後方守備の位置として重要視していたようだ。
 福光城は、標高100mというから、近隣の山城としては低い方である。
【写真左】福光城遠望・その2
 この日登城した時は、登城口が分からず、楞厳寺(下段参照)の西側の崖から登って行った。まともな登城路は、この写真にあるものだが、北方のほうからしっかりした道ができている。




 さて、この城は、当ブログの表題に添えてある戦国の悲運の部将「吉川経家」の居城であったところである。

 別名、不言城、または「ものいわず」城という、なんともいわくありげな名称である。現地の説明板から転載する。

“不言城(福光城)址
 不言城は、当初福光氏の居城であったが、永禄2年(1559)石見地方に侵攻した毛利元就は、川本温湯城の小笠原長雄攻めに功績のあった吉川経安(石見吉川9代目)に、福光氏の所領を与えた。

 これを機に、吉川経安は嘉暦3年(1328)より200年にわたって拠点としていた温泉津町井田津淵の殿村城(高越城)から、不言城に居を移し、改修して居城とした。本丸・二の丸・三の丸跡が今も残っており、本格的な山城であったことがうかがえる。

 古今の名将の一人として名をはせた不言城主・吉川経家は、9代目経安の子である。
 経家は、羽柴秀吉の因幡攻めに対抗できる毛利方の部将として、鳥取城に入城。秀吉の有名な兵糧攻めに耐えて7カ月の籠城ののち、城兵や城に避難した城下の民衆の助命を条件に自刃した。

 慶長6年(1601)、経家の子・経実は、吉川本家の家老として迎えられて岩国に移住し、不言城はその歴史を閉じた。”
【写真左】本丸?付近
 前記した西麓から登っていくと、いきなり郭付近に出てくる。
 現地には遺構を示す標識などが数本立っているが、ほとんどが雑草に覆われている。





 今月の稿で紹介した「丸山城」や「山吹城」の中でも、少し述べているが、永禄2~3年(1559~60)は、毛利元就が江の川を下って、石見銀山を攻略する重要な時期である。

 攻め方としては銀山を直撃する手法もとっているが、全体に銀山の南から西へ回って、攻め入るやり方である。

 説明板にある温湯城小笠原長雄を降したのは、永禄2年(1559)の8月25日であるから、吉川経安はその直後に福光城に入ったことになる。

 翌年6月、毛利軍は再度石見銀山を奪取すべく、尼子軍と戦うが、後れを取った形になり、君谷別府(現在の美郷町と大田市の境で、R375線沿いにある)で大敗する。

 永禄4年(1561)11月、それまで毛利氏方だった福屋隆兼は、尼子氏と結び吉川経安の拠る福光城に攻め入った。これに対して、経安方の都治今井城主・都治隆行は、森雅楽助、笠井源太郎らを従えて福光城に籠城して防戦する。「笠井家文書」によると、この戦いで初めて笠井源太郎が鉄砲を用いたとされている。
【写真左】上の丸跡
 記憶がはっきりしないが、本丸の上部(南側)にも郭である「上の丸」という場所がある。






 この時の籠城戦が功を奏し、福屋隆兼は翌永禄5年2月、松山城(島根県江津市)本明城(島根県江津市有福温泉)で毛利方に追われ、防戦するも敗退する。最後は城を捨てて浜田へ逃れ、のち出雲を経て大和国の松永弾正を頼ったといわれている。


 なお、前記説明板にある殿村城(高越城)は、福光城脇を走る温泉津川本線(32号線)を丸山城跡(島根県川本町田窪古市)方面に上ったところあり、現在の井田小学校の南西に位置している(城之助氏より)。
 ところで、経安の子・経家については、いずれ鳥取城の際に取り上げたいと思う。
【写真左】馬洗池
 文字通り、馬を洗うための池で、現状はほとんど水はなく、湿地帯のような状況だ。






●福光城の東麓に建つ楞厳寺は、後段に示す浄光寺と併せ、吉川家ゆかりの寺である。

(現地の説明板より)

楞厳寺(りょうげんじ)
宗名 真言宗 御室派
寺号 金剛山 楞厳寺
本尊 聖観世音菩薩


 当山は、元は法相宗ともいわれ、弘仁4年弘法大師が諸国巡錫のおり真言宗に改宗したという。延応元年(1239)知見上人によって再興された古刹である。室町時代後期、福光美濃守兼国がこの地を所領とし、福光氏の武運長久を祈る祈願寺として信仰を得る。

 永禄2年1559)、福光氏の所領を吉川経安がもらい不言城を居城とし、鳥取城攻めで有名な名将10代目城主・経家に纏わる墳墓について、石見吉川家系図に「営寿墳矣、石州福光県内楞厳寺方」として記す。慶長6年(1601)に経実が岩国へ移住し廃城となり、当山も栄枯盛衰をみる。

 江戸時代初期、大森羅漢寺の住職の月海浄印が、五百羅漢を福光石工坪内平七一門に建立を依頼し、五百羅漢について指導したのが、当山の住職であったと伝えられている。平七一門は25年の歳月をかけて羅漢像を完成し、その後檀家となる。

 明治6年(1873)には、学制が発布第174番小学区として当山で開校。観音霊場として今昔ともに深く帰依されている。”
【写真左】二の丸跡
 北の方に向かって郭が構成されているが、平坦地の精度は分からない。







 上記の説明板中、赤字で示した永禄2年の西暦年が1599年となっていた。明らかな間違いのため、今稿では修正して1559年としている。

 なお、このほかに福光には吉川経安が開基したといわれている「浄光寺」がある。現地の写真を撮ってはいるが、どのファイルに保存したのか、残念ながら出てこないため、写真の紹介ができない。

 幸い、「城格放浪記」さんが、当寺の写真を紹介しているので、そちらをご覧いただきたい。
 当寺は、経安の妻が亡くなった永禄2年に、同墓地に埋葬され、それを縁として吉川家の菩提寺として創建されたという。境内墓地には経安と妻の墓碑が静かに眠っている。
【写真左】本丸跡
 冒頭の写真も本丸としているが、おそらくこの位置が本丸であろう(2年も経つと記憶がいい加減になってくる)
【写真左】福光城から東方を見る
 写真の谷から福光川が流れてくる。
【写真左】福光城の北端部にある大岩
 この地域独特の地層である岩の塊でできた山のため、こうした大岩はそのまま残っているのだろう。

【写真左】下山途中の水を溜めた穴
 下山は正式な道を見つけたので、このルートから降りて行った。基本的に福光城の西麓に登城路が造られている。
 この穴は井戸のようでもあり、馬の水飲み場のようなものにもみえる。
【写真左】番所跡
 福光城の入口で監視したり、場合によっては休憩などもしただろう。

【写真左】楞厳寺
 規模は大きくはないが、歴史を感じる古寺だ。

2009年12月17日木曜日

富山城(島根県大田市富山町山中)

富山城(とみやまじょう)

●所在地 島根県大田市富山町中山
●探訪日 2008年5月5日
●標高 299m
●築城期 戦国期
●築城主 富永元保
●別名 要害山城、重蔵山城
●遺構 郭、腰郭、土塁、石垣、虎口、温風穴

【写真左】富山城本丸付近より富山地区の棚田をみる。
 時節柄、田植えのシーズンで、幾何学模様の棚田の風景は、手前の花と相まって気分を和らげてくれる。





◆解説(参考「城格放浪記」「島根県遺跡データベース」 その他)

 富山城についての詳細な記録は残っていない。しかし、この位置は出雲から石見に入る国境付近であったことから、かなり重要な城跡だったことが推測できる。

 以下、現地の説明板(なお、原文を若干平易な文章に直している:管理人)よる。

【写真左】富山城遠望
 西側からみたもので、幾何学的に円錐形の山容となっている。








古城址要害山説明板

 当要害山は重蔵山と称し、戦国の代、富永山城守元保の居城であった。形式は山城の古城である。

 山は円錐形で、西方が大手口にあたり、麓には当時を偲ぶに足る特徴のある石垣が残存する。また、城主の館跡や、長く大きい馬場跡、宝蔵跡なども明らかに残っており、今はまったく畑となっているが、城道はすべて電光形で、頂上の甲の丸は、人工的に平坦地となっており、その大きさは東西南北各50mほどである。

 周囲の丘腹には軍備用の矢竹が密生し、その下には「一の平」、「二の平」、「三の平」がある。このうち二の平には、4m四方の古井戸も現存し、広大な城跡であったことをうかがわせる。
 この山城は、出雲・石見の国境に沿い、これが要害堅固な城であったため、尼子・毛利両氏の大森銀山争奪戦のとき、戦略上重要な拠点であった。”
【写真左】右側の坂道が登城入口へ向かう。
 小屋の右側に立っているものが上記の説明板
なお、左側に見える山が富山城である。








【写真左】登城口手前の駐車場
 無理すれば、3,4台は駐車できるスペースで、右側の方には畑などがある。登城口はこの写真の手前左側にある。










【写真左】最初に出てくる「三ノ平」
 腰郭形状だが、郭そのものの状況は雑木や竹で覆われている。
 少し中に入ってみると、上段の二ノ平を取り囲むような形状なので、帯郭かもしれない。









【写真左】「二ノ平」
 この場所も標識は立っているが、御覧の通り笹藪状態で踏み込みは不可能。
 なお、登城路の傾斜がこのあたりからきつくなってくる。








【写真左】本丸付近
 5月であったこともあり、雑草の草丈がかなり伸びていて、全体の様子が分かりにくいが、現地に電気コードやテント用の機材が置いてあることから、定期的にこの場所で行事が行われているのだろう。









【写真左】本丸跡に立つ展望台
 駐車場からこの本丸跡までのルートは、きわめて歩きやすく、時間にして20分前後程度でたどり着く。
(もっとも遺構を無視すれば、10分程度で済む)
展望台前にある説明板内容を転載しておく。



史跡説明(重複部分は省略)
1、2、(省略)
3、富永氏は、はじめ尼子氏に属していたが、のちに毛利方となり、永禄13年(1570)には、尼子勝久の大軍を国境でよく食い止め、偉功を立てた。このとき、田儀二俣の合戦で、家臣・竹下忠兵衛尉(当時竹下の祖)功名を立て、毛利の将・小早川隆景から感状を受けている。
4、この山には、馬場屋敷跡など無数残っている。富永氏はのちに、備中・笠松城に転じたと伝えられる。”
【写真左および下】温風穴といわれているところ
 本丸から西の大手口方面の傾斜地に、「温風穴」といわれている穴がある。
 下の写真の位置に手を当ててみたが、暖かい風は感じられなかった。
 戦国期からあったものか分からないが、当時からあったとすれば、冬には暖房装置として活用されたかもしれない。




【写真左】温風穴













【写真左】「土居館」といわれるところ
 この写真の左下にみえるやや丘陵状の平坦地がある。

 「城格放浪記」氏が現地を紹介しているので、詳細はそちらを参照していただきたいが、寺院跡だったようで、富永氏と何らかの関係をもったものであろう






【写真左】富山の棚田その1
 この景色は棚田百選にはなっていないが、絶景である。











【写真左】その2