楪城(ゆずりはじょう)
●探訪日 2008年4月16日
●所在地 岡山県新見市上市
●築城期 南北朝時代ごろ(鎌倉期とも)
●築城主 新見氏または杠(ゆずりは)氏
●標高 490m、比高200~240m
●遺構 本丸、二の丸、花の丸、三の丸、堀切その他
◆解説(参考:『歴史散歩 岡山の城』富阪晃著、『岡山の山城を歩く』森本基嗣著、その他)
楪城は備北地方では、松山城に次ぐ規模のものだという。
【写真左】楪城遠望
2017年7月13日撮影。
西側の谷を隔てた木戸集落から見たもの。
【写真左】楪城遠望(2012年10月21日撮影)
南側の国道180号線から見たもの。
登城のきっかけは偶然で、当日(昨年:2008年4月16日)鳥取県の江尾城を探訪したあと、国道180号線をそのまま岡山県側に入っていったところ、ちょうど左にカーブする手前で、山の頂部が少し開けたものが見えたことからだった。そのあと道路右側に小さい看板で「楪城入口」の文字が見えたたため、少雨だったものの、そこから谷間の道を入って行った。
舗装はされてはいるものの、延々と急坂の登城路で結構しんどい思いをして上がったが、最初に見た「武者走り」付近からの景色で、いっぺんに疲れが吹き飛んだような感動を覚えている。
【写真左】登城口付近
180号線から西の方に入る谷があり、途中からさらに下の方に下がると、写真のような集落が見える。この個所に数台駐車できるスペースがある。写真は登城口から少し登り始めた位置から下の方を見たもの。
新見市付近は南北朝時代、新見荘として東寺(京都)領荘園だった。伝承では、東寺から派遣された代官・祐清(ゆうせい)と地元の惣追捕使・福本盛吉の妹「たまかき」との悲恋物語が残っているという。
築城者を新見氏とする説と、楪(杠)氏とする説の二つがある。
『新見庄・生きている中世』という史料では、杠氏が築城したものの、同氏は守護で鎌倉在住が多く、守護代の新見氏が新見を治めていたからだという推測をしている。
その後の経緯については省略するが、現在の楪城の全容が形成されたのは、永禄9年(1566)ごろ、横領した三村氏が尼子の攻撃に備え大拡張したときだといわれている。その折には、当城の南1キロ地点に「対(たい)の城」を設け、周辺には朝倉城、粒根城、竹野城、角尾城、鳶ヶ巣城などを配置した。
しかし、それまで関係を結んでいた毛利氏との関係が悪くなり、「備中兵乱」が起きると、天正2年(1574)11月、毛利軍2万に包囲され、しかも三村氏内での裏切りもあり、翌天正3年正月8日落城した。
【写真左】登城口付近に設置された案内板と登城路
数年前まではあまり整備されていなかったらしく、こうした簡易舗装のものではなかったようだ。
「楪城を守る会」「新見市教育委員会」によって整備されたという。
なお、杠氏については源平合戦の時代、相模国の三浦党・三浦六郎重行が摂津国杠峯に居住したとき杠氏を称したといわれている。
重行は備中守護に任じられ、最初は「矢谷城(同地名)」と命名してたが、のちに「杠城」と呼ぶようになったという。
15代・286年も同地杠氏は続いたが、惟久の時代の文明4年(1472)、松山城に拠った上野広長に滅ぼされている。
なお、このことから、単純な計算をすると、重行が新見庄に入部したのは、1186年(文治2年)となる。この年は源頼朝が、義経追討の宣旨を出し、義経が平泉・藤原秀衡の元に逃れた年である。入部してすぐに築城したかどうかは確定できないが、築城の初期が鎌倉期であったことは、ほぼ間違いないだろう。
出雲の小池氏
ところで、今年2009年6月の投稿で「小国城(島根県奥出雲町)」を取り上げた際、同地奥出雲(横田)において、三沢氏と非常に深い関係のあった一族に小池氏がいることを紹介した。この小池氏は江戸期になると、突然「杠氏」を名乗るようになる。
杠城のある新見上市と奥出雲町・横田までは直線距離で60キロ前後ある。180号線から少し北に行くと、奥出雲方面に向かう「新見多里線」があり、思った以上に短時間でたどり着ける。
文明4年上野氏に滅ぼされた杠氏の一部が、この奥出雲の三沢氏を頼って、一時的に「小池姓」を名乗り、その後始祖である「杠氏」を再び名乗ったのではないかとも思えるが、どうだろう。
【写真左】本丸入口付近
本丸へ登る坂道付近
現地説明板より
“本丸
本丸は標高490mの所にあり、4つの壇から成る。3の壇が主郭になっており、新見氏の時代に築城された古い時代の郭である。北東側面の一部は野面積みに石が積んである。また、要所も石によって補強されている。
本丸各壇の西辺下には、幅約1~6mほどの南北を貫く武者走りが見られ、その中央において南西へ突き出した花の丸と通じている。
なお、本丸は連郭式山城の中心で城主の館がおかれ、戦いの場合本陣となった。”
【写真左】本丸
御覧のようにかなり広い。
【写真左】本丸から「花の丸」を見る
説明板より
“花(端)の丸
本丸から南西に突き出した郭で、守城のとき敵を誘い込んだ捨て郭であったかもしれない。
「天正3年(1575)正月8日巳の刻(午前10時)ごろ、に、冨家大炊助・曽祢内蔵・八田主馬以下の者が的に寝返り、敵兵を諸丸に引き入れ端の丸に火をかけた。」(「備中兵乱記」より)”
写真の左側の突き出した部分で、中央手前が高くなっている。
【写真左】帯曲輪その1
本丸側から二の丸方面を見たもの 現地の説明板より
“二つの郭を連絡するために、その間に細長く設けられた郭で、楪城では本丸と二の丸を幅約11m、長さ約80mの郭で結んでいる。
また、中ほどには櫓の基壇も見られる。二の丸からの連絡がすぐでき易く、このような大規模なものは例がない”
【写真左】帯曲輪その2
二の丸から本丸方面をみたもの
【写真左】二の丸
現地説明板より
“二の丸
三村氏の時代に築城されたものと思われ、5つの壇から成る。南側の麓には大きな堀切がある。
二の丸は本丸を守るための郭であり、楪城では一番高い所にある。敵の偵察的要素が強く、見晴らしのよい所につくられた。
そのための小屋が置かれていたと思われる。 なお、本丸とは大きく長い約80mの帯郭で結ばれている。”
【写真左】二の丸側面 本丸ほどではないが、この場所もひろい。
【写真左】二の丸付近
この日は雨が降っていたことや、夕方近くでもあったため、二の丸までしか探訪していない。縄張り図では、この先に堀切や三の丸などがあるが、機会があったらこれらも踏破してみたいものだ。
【写真左】本丸付近から城下を見る
この写真はおそらく、北側の方と思われる。中央の川は高梁川。
【写真左】本丸付近からみた周辺の集落
谷を隔てた向かい側の山麓にあるが、この集落の位置もかなり高い所にある。
備後・備中・美作方面を探訪するたびに思うのは、平地部に住んでいる者からみると、こうした標高の高い位置に集落があること自体に驚きを感じる。
急峻な谷底に集落を築くと、洪水や崩落の危険性があるから、自然とこうした場所に定住していったものだろうが、もうひとつは、鎌倉期などに入植した諸族の自己防衛上の観点(地取り)から、こうした場所に定住するようになってきたものかもしれない。
その結果、当時の国人層や小豪族の末裔が、数百年にわたってこうして集落を形成し、今日まで生き残ってきてたわけである。そう考えると、山城の有無とは別に、これだけでも中世の歴史探訪としての価値を感じるのだが。
●探訪日 2008年4月16日
●所在地 岡山県新見市上市
●築城期 南北朝時代ごろ(鎌倉期とも)
●築城主 新見氏または杠(ゆずりは)氏
●標高 490m、比高200~240m
●遺構 本丸、二の丸、花の丸、三の丸、堀切その他
◆解説(参考:『歴史散歩 岡山の城』富阪晃著、『岡山の山城を歩く』森本基嗣著、その他)
楪城は備北地方では、松山城に次ぐ規模のものだという。
【写真左】楪城遠望
2017年7月13日撮影。
西側の谷を隔てた木戸集落から見たもの。
【写真左】楪城遠望(2012年10月21日撮影)
南側の国道180号線から見たもの。
登城のきっかけは偶然で、当日(昨年:2008年4月16日)鳥取県の江尾城を探訪したあと、国道180号線をそのまま岡山県側に入っていったところ、ちょうど左にカーブする手前で、山の頂部が少し開けたものが見えたことからだった。そのあと道路右側に小さい看板で「楪城入口」の文字が見えたたため、少雨だったものの、そこから谷間の道を入って行った。
舗装はされてはいるものの、延々と急坂の登城路で結構しんどい思いをして上がったが、最初に見た「武者走り」付近からの景色で、いっぺんに疲れが吹き飛んだような感動を覚えている。
【写真左】登城口付近
180号線から西の方に入る谷があり、途中からさらに下の方に下がると、写真のような集落が見える。この個所に数台駐車できるスペースがある。写真は登城口から少し登り始めた位置から下の方を見たもの。
新見市付近は南北朝時代、新見荘として東寺(京都)領荘園だった。伝承では、東寺から派遣された代官・祐清(ゆうせい)と地元の惣追捕使・福本盛吉の妹「たまかき」との悲恋物語が残っているという。
築城者を新見氏とする説と、楪(杠)氏とする説の二つがある。
『新見庄・生きている中世』という史料では、杠氏が築城したものの、同氏は守護で鎌倉在住が多く、守護代の新見氏が新見を治めていたからだという推測をしている。
その後の経緯については省略するが、現在の楪城の全容が形成されたのは、永禄9年(1566)ごろ、横領した三村氏が尼子の攻撃に備え大拡張したときだといわれている。その折には、当城の南1キロ地点に「対(たい)の城」を設け、周辺には朝倉城、粒根城、竹野城、角尾城、鳶ヶ巣城などを配置した。
しかし、それまで関係を結んでいた毛利氏との関係が悪くなり、「備中兵乱」が起きると、天正2年(1574)11月、毛利軍2万に包囲され、しかも三村氏内での裏切りもあり、翌天正3年正月8日落城した。
【写真左】登城口付近に設置された案内板と登城路
数年前まではあまり整備されていなかったらしく、こうした簡易舗装のものではなかったようだ。
「楪城を守る会」「新見市教育委員会」によって整備されたという。
なお、杠氏については源平合戦の時代、相模国の三浦党・三浦六郎重行が摂津国杠峯に居住したとき杠氏を称したといわれている。
重行は備中守護に任じられ、最初は「矢谷城(同地名)」と命名してたが、のちに「杠城」と呼ぶようになったという。
15代・286年も同地杠氏は続いたが、惟久の時代の文明4年(1472)、松山城に拠った上野広長に滅ぼされている。
なお、このことから、単純な計算をすると、重行が新見庄に入部したのは、1186年(文治2年)となる。この年は源頼朝が、義経追討の宣旨を出し、義経が平泉・藤原秀衡の元に逃れた年である。入部してすぐに築城したかどうかは確定できないが、築城の初期が鎌倉期であったことは、ほぼ間違いないだろう。
出雲の小池氏
ところで、今年2009年6月の投稿で「小国城(島根県奥出雲町)」を取り上げた際、同地奥出雲(横田)において、三沢氏と非常に深い関係のあった一族に小池氏がいることを紹介した。この小池氏は江戸期になると、突然「杠氏」を名乗るようになる。
杠城のある新見上市と奥出雲町・横田までは直線距離で60キロ前後ある。180号線から少し北に行くと、奥出雲方面に向かう「新見多里線」があり、思った以上に短時間でたどり着ける。
文明4年上野氏に滅ぼされた杠氏の一部が、この奥出雲の三沢氏を頼って、一時的に「小池姓」を名乗り、その後始祖である「杠氏」を再び名乗ったのではないかとも思えるが、どうだろう。
【写真左】本丸入口付近
本丸へ登る坂道付近
現地説明板より
“本丸
本丸は標高490mの所にあり、4つの壇から成る。3の壇が主郭になっており、新見氏の時代に築城された古い時代の郭である。北東側面の一部は野面積みに石が積んである。また、要所も石によって補強されている。
本丸各壇の西辺下には、幅約1~6mほどの南北を貫く武者走りが見られ、その中央において南西へ突き出した花の丸と通じている。
なお、本丸は連郭式山城の中心で城主の館がおかれ、戦いの場合本陣となった。”
【写真左】本丸
御覧のようにかなり広い。
【写真左】本丸から「花の丸」を見る
説明板より
“花(端)の丸
本丸から南西に突き出した郭で、守城のとき敵を誘い込んだ捨て郭であったかもしれない。
「天正3年(1575)正月8日巳の刻(午前10時)ごろ、に、冨家大炊助・曽祢内蔵・八田主馬以下の者が的に寝返り、敵兵を諸丸に引き入れ端の丸に火をかけた。」(「備中兵乱記」より)”
写真の左側の突き出した部分で、中央手前が高くなっている。
【写真左】帯曲輪その1
本丸側から二の丸方面を見たもの 現地の説明板より
“二つの郭を連絡するために、その間に細長く設けられた郭で、楪城では本丸と二の丸を幅約11m、長さ約80mの郭で結んでいる。
また、中ほどには櫓の基壇も見られる。二の丸からの連絡がすぐでき易く、このような大規模なものは例がない”
【写真左】帯曲輪その2
二の丸から本丸方面をみたもの
【写真左】二の丸
現地説明板より
“二の丸
三村氏の時代に築城されたものと思われ、5つの壇から成る。南側の麓には大きな堀切がある。
二の丸は本丸を守るための郭であり、楪城では一番高い所にある。敵の偵察的要素が強く、見晴らしのよい所につくられた。
そのための小屋が置かれていたと思われる。 なお、本丸とは大きく長い約80mの帯郭で結ばれている。”
【写真左】二の丸側面 本丸ほどではないが、この場所もひろい。
【写真左】二の丸付近
この日は雨が降っていたことや、夕方近くでもあったため、二の丸までしか探訪していない。縄張り図では、この先に堀切や三の丸などがあるが、機会があったらこれらも踏破してみたいものだ。
【写真左】本丸付近から城下を見る
この写真はおそらく、北側の方と思われる。中央の川は高梁川。
【写真左】本丸付近からみた周辺の集落
谷を隔てた向かい側の山麓にあるが、この集落の位置もかなり高い所にある。
備後・備中・美作方面を探訪するたびに思うのは、平地部に住んでいる者からみると、こうした標高の高い位置に集落があること自体に驚きを感じる。
急峻な谷底に集落を築くと、洪水や崩落の危険性があるから、自然とこうした場所に定住していったものだろうが、もうひとつは、鎌倉期などに入植した諸族の自己防衛上の観点(地取り)から、こうした場所に定住するようになってきたものかもしれない。
その結果、当時の国人層や小豪族の末裔が、数百年にわたってこうして集落を形成し、今日まで生き残ってきてたわけである。そう考えると、山城の有無とは別に、これだけでも中世の歴史探訪としての価値を感じるのだが。