和久羅山城跡(わくらやまじょうあと)
●探訪日 2009年10月23日
●所在地 島根県松江市朝酌町
●所在地 島根県松江市朝酌町
●遺跡の現状 山林
●土地保有 民有地
●指定 未指定
●標高 261 m
●備考 16世紀、原田孫兵衛が築城(以上、「島根県遺跡データーベース」より)
◆解説(参考文献「尼子盛衰人物記」「尼子物語」編著者 妹尾豊三郎 等)
和久羅山は現在地元松江市民らの手軽なハイキング登山の山として、北隣の嵩山(だけさん)とともに親しまれている山である。
場所は、松江市街地の東方にあって、宍道湖と中海をつなぐ大橋川北岸部に立っている。
【写真左】和久羅山城遠望・その1
大橋川南の茶臼山城本丸跡からみたもの。
【写真左】遠望・その2
東方の中海に浮かぶ大根島から見たもので、右側には嵩山が見える。
戦国期、当城も尼子・毛利の合戦において激しい戦があったようだが、軍記物などには他の主だった山城ほど登場していないせいか、知名度が低いようだ。
遺構概要は、島根県遺跡データーベースによると、郭、帯郭、土塁、虎口が記録されている。
なお、一般的な国土地理院による和久羅山の標高表示は、本丸跡の位置でなく、この場所より北西方向へ直線距離約300m地点・標高「244.0m」となっており、従って、和久羅山城本丸跡の位置・標高「261.7m」は通常の地図には掲載されていないようだ。
【写真左】西尾農免街道脇にある登山道入口付近の案内板
西尾農免街道は、松江市湖北東部から湖南東部へ渡す中海大橋とつながっていることもあり、平日でもかなりの車の往来がある。急坂が多く、うっかりしていると、この場所を行き過ぎてしまう。
さて、その戦国期の状況だが、断片的な記録しかないようで、写真にある現地案内板(左写真参照)には、
「…古くから山砦があったといわれるが、戦国時代には尼子氏の家臣原田五郎兵衛同左衛門太夫の居城であった。坂道4キロばかりで中途は険しい。城址に残存する礎石は見当たらないが、一の床、二の床、三の床に分かれ、また山腹には馬場らしいものもみえる。…」とある。
当城の付近にはこのほかに、二保山城、城処城、志達山城といった小規模なものがあるが、おそらくこれらは和久羅山城の支城か、一部には向城としての役目をもったものがあったと思われる。
ところで、妹尾豊三郎編著「尼子盛衰記」の中で、以下の事項が記載されている。
★朝酌和久羅山城主 羽倉孫兵衛元景、又多賀備前守信忠
★上ノ羽倉山城主 原田右衛門太夫義重 永禄ノ頃
この記録からみると、下段の原田右衛門太夫義重と、前段で示した、①原田孫兵衛、②原田五郎兵衛同左衛門太夫の名前が、姓は同じながら、下の名前が違う。
また、山城名でいえば、二つの★印の山城名が、実際は同一のものではないかとも思われる。そうなると、上段の城主二名は、少なくとも下段の原田某が治めていた時期とは違うということになる。
【写真左】和久羅山城遠望
登山口駐車場側(南側)からみたもので、右側の少し高い位置が本丸跡になる。
ここで、同じ妹尾氏編著の「尼子物語」の中で、和久羅山城での合戦の様子を語った下りがあるので、少し紹介したい。副題「末次の攻防」の項。
“…同年(元亀元年:1570年)9月上旬、元春(吉川)は六千騎をもって、出雲国内に残っている尼子勢を一掃しようと、富田城から討って出たので、古志の城主古志因幡守は、まず第一番に冑を脱いで毛利に降参してしまった。
羽倉(わくら:和久羅ともいう、嵩山の東方に連なる山)には、毛利家より長屋小次郎という者を城将として守らせていた。尼子方では横道源介・横道権允の兄弟がしばしばここに押し寄せ、城の麓に放火などしてこれを悩ませた。
城内では最初のうちこそ、出でて防ぎもしていたが、尼子の勢力がなかなか強いので、あとはただ城を守るだけで精一杯の様子だった。
これを見て、山中鹿助・横道兄弟等は一千余騎で一気に乗っ取ろうと攻めかけ、外郭の小屋など一軒も残らず焼き払ったので、城中の苦しみは容易ではなかった。このことを聞いた元春は、
「かくては一刻の猶予もできない」
と、自ら出馬しようとすると、益田越中守藤包(ふじかね)が、
「私が参りましょう。長屋は先年若山にいた時、大内義長が攻めてきたとき、城を明け渡して退却したことがあります。今回でも、我慢できないと思えば、ずいぶん落ち延びかねないものです。急いでいかなければ、どんなことになるかわかりません」
と、その座を立つと直ちに一千五百騎を引き連れ、羽倉城へ馳せ向かったので、三沢・三刀屋もこれに続き、総勢二千余騎がまっしぐらに鹿助の陣へ討ってかかった。さすがの鹿助もこれにはたまらず、真山へ引き上げていったので、危ない所で長屋小次郎は落城を免れることができた。…”
【写真左】登山口駐車場
先ほどの入口から50m程度入ったところにある。駐車台数は5,6台は停められる。この場所から登山開始する。
この時期までには、毛利勢がほとんど出雲部を治めていた時期で、永禄9年(1566)11月21日、富田城が落城したのち、その後着々と出雲の主要な所領を家臣に安堵している。
その後、永禄12年(1569)6月に山中鹿助らが、尼子勝久を擁して隠岐から出雲へ入り尼子再興戦を開始すると、状況は一変する。
尼子氏本城の富田城を陥れても、尼子残党は相当国内に潜在していたことから、鹿助の挙兵によってこうした流れになっていったが、和久羅山城については、かなり早い段階で毛利方におちていたと思われ、尼子方の前城主・原田某から、毛利方城将長屋小次郎に城主が変わっていたようだ。
出雲国における毛利方支配の総仕上げは、実質この元亀元年から2年にかけてが最大の山場で、和久羅山城も含め、出雲国各城で同時並行的な戦が繰り広げられている。
特に、宍道湖・中海周辺における戦は、児玉就英を中心とした児玉水軍による海路での役割が極めて大きく、戦況が変化するとすぐに船によって移動ができた毛利方の周到な体勢は、鹿助らゲリラ部隊と決定的な力量の差があった。
【写真左】登城途中の道
登山客が多いせいか、道は整備されている。
写真の場所は尾根伝いになったところだが、土橋のような雰囲気ももっている。もちろん遺跡データには記載されていないが。
【写真左】本丸近くの登城路 頂上部に近くなるに従って急こう配になり、七曲個所が増える。
【写真左】和久羅山本丸跡その1 冒頭で記したように、この位置は標高261.7mのところで、244mの頂部を持つ場所は、この写真の後方になる。
本丸跡の形状は北西から南東に向かって延びたやや楕円形に削平されたもので、長径70m前後、短径10~20m前後と予想以上に広い。
写真にみえる下面がきれいに管理された部分は、そのうちの約半分で、残りは次の写真のように伐採もされていない。
【写真左】その2 手前が下草などが刈られた部分で、その奥(東南部)は、樹木が残ったままになっている。
【写真左】その3 南東部の樹木のある位置にあった三角点
この位置が標高261.7mということだろう。
【写真左】その4
本丸跡南東部の先端部であるが、このあたりから切崖に近い傾斜になっている。
【写真左】その5
本丸跡より宍道湖および、平田(北西方面)を見る。中央のかすんでいる山は「北山」でその麓には当時「鳶ヶ巣城」において毛利軍が陣を張っていた。
【写真左】その6
本丸跡から、宍道湖南、松江市および斐川高瀬城方面を見る。
【写真左】その7
本丸跡より、手前大根島、その向こう弓ヶ浜半島、さらに美保関を見る。
【写真左】その8
●土地保有 民有地
●指定 未指定
●標高 261 m
●備考 16世紀、原田孫兵衛が築城(以上、「島根県遺跡データーベース」より)
◆解説(参考文献「尼子盛衰人物記」「尼子物語」編著者 妹尾豊三郎 等)
和久羅山は現在地元松江市民らの手軽なハイキング登山の山として、北隣の嵩山(だけさん)とともに親しまれている山である。
場所は、松江市街地の東方にあって、宍道湖と中海をつなぐ大橋川北岸部に立っている。
【写真左】和久羅山城遠望・その1
大橋川南の茶臼山城本丸跡からみたもの。
【写真左】遠望・その2
東方の中海に浮かぶ大根島から見たもので、右側には嵩山が見える。
戦国期、当城も尼子・毛利の合戦において激しい戦があったようだが、軍記物などには他の主だった山城ほど登場していないせいか、知名度が低いようだ。
遺構概要は、島根県遺跡データーベースによると、郭、帯郭、土塁、虎口が記録されている。
なお、一般的な国土地理院による和久羅山の標高表示は、本丸跡の位置でなく、この場所より北西方向へ直線距離約300m地点・標高「244.0m」となっており、従って、和久羅山城本丸跡の位置・標高「261.7m」は通常の地図には掲載されていないようだ。
【写真左】西尾農免街道脇にある登山道入口付近の案内板
西尾農免街道は、松江市湖北東部から湖南東部へ渡す中海大橋とつながっていることもあり、平日でもかなりの車の往来がある。急坂が多く、うっかりしていると、この場所を行き過ぎてしまう。
さて、その戦国期の状況だが、断片的な記録しかないようで、写真にある現地案内板(左写真参照)には、
「…古くから山砦があったといわれるが、戦国時代には尼子氏の家臣原田五郎兵衛同左衛門太夫の居城であった。坂道4キロばかりで中途は険しい。城址に残存する礎石は見当たらないが、一の床、二の床、三の床に分かれ、また山腹には馬場らしいものもみえる。…」とある。
当城の付近にはこのほかに、二保山城、城処城、志達山城といった小規模なものがあるが、おそらくこれらは和久羅山城の支城か、一部には向城としての役目をもったものがあったと思われる。
ところで、妹尾豊三郎編著「尼子盛衰記」の中で、以下の事項が記載されている。
★朝酌和久羅山城主 羽倉孫兵衛元景、又多賀備前守信忠
★上ノ羽倉山城主 原田右衛門太夫義重 永禄ノ頃
この記録からみると、下段の原田右衛門太夫義重と、前段で示した、①原田孫兵衛、②原田五郎兵衛同左衛門太夫の名前が、姓は同じながら、下の名前が違う。
また、山城名でいえば、二つの★印の山城名が、実際は同一のものではないかとも思われる。そうなると、上段の城主二名は、少なくとも下段の原田某が治めていた時期とは違うということになる。
【写真左】和久羅山城遠望
登山口駐車場側(南側)からみたもので、右側の少し高い位置が本丸跡になる。
ここで、同じ妹尾氏編著の「尼子物語」の中で、和久羅山城での合戦の様子を語った下りがあるので、少し紹介したい。副題「末次の攻防」の項。
“…同年(元亀元年:1570年)9月上旬、元春(吉川)は六千騎をもって、出雲国内に残っている尼子勢を一掃しようと、富田城から討って出たので、古志の城主古志因幡守は、まず第一番に冑を脱いで毛利に降参してしまった。
羽倉(わくら:和久羅ともいう、嵩山の東方に連なる山)には、毛利家より長屋小次郎という者を城将として守らせていた。尼子方では横道源介・横道権允の兄弟がしばしばここに押し寄せ、城の麓に放火などしてこれを悩ませた。
城内では最初のうちこそ、出でて防ぎもしていたが、尼子の勢力がなかなか強いので、あとはただ城を守るだけで精一杯の様子だった。
これを見て、山中鹿助・横道兄弟等は一千余騎で一気に乗っ取ろうと攻めかけ、外郭の小屋など一軒も残らず焼き払ったので、城中の苦しみは容易ではなかった。このことを聞いた元春は、
「かくては一刻の猶予もできない」
と、自ら出馬しようとすると、益田越中守藤包(ふじかね)が、
「私が参りましょう。長屋は先年若山にいた時、大内義長が攻めてきたとき、城を明け渡して退却したことがあります。今回でも、我慢できないと思えば、ずいぶん落ち延びかねないものです。急いでいかなければ、どんなことになるかわかりません」
と、その座を立つと直ちに一千五百騎を引き連れ、羽倉城へ馳せ向かったので、三沢・三刀屋もこれに続き、総勢二千余騎がまっしぐらに鹿助の陣へ討ってかかった。さすがの鹿助もこれにはたまらず、真山へ引き上げていったので、危ない所で長屋小次郎は落城を免れることができた。…”
【写真左】登山口駐車場
先ほどの入口から50m程度入ったところにある。駐車台数は5,6台は停められる。この場所から登山開始する。
この時期までには、毛利勢がほとんど出雲部を治めていた時期で、永禄9年(1566)11月21日、富田城が落城したのち、その後着々と出雲の主要な所領を家臣に安堵している。
その後、永禄12年(1569)6月に山中鹿助らが、尼子勝久を擁して隠岐から出雲へ入り尼子再興戦を開始すると、状況は一変する。
尼子氏本城の富田城を陥れても、尼子残党は相当国内に潜在していたことから、鹿助の挙兵によってこうした流れになっていったが、和久羅山城については、かなり早い段階で毛利方におちていたと思われ、尼子方の前城主・原田某から、毛利方城将長屋小次郎に城主が変わっていたようだ。
出雲国における毛利方支配の総仕上げは、実質この元亀元年から2年にかけてが最大の山場で、和久羅山城も含め、出雲国各城で同時並行的な戦が繰り広げられている。
特に、宍道湖・中海周辺における戦は、児玉就英を中心とした児玉水軍による海路での役割が極めて大きく、戦況が変化するとすぐに船によって移動ができた毛利方の周到な体勢は、鹿助らゲリラ部隊と決定的な力量の差があった。
【写真左】登城途中の道
登山客が多いせいか、道は整備されている。
写真の場所は尾根伝いになったところだが、土橋のような雰囲気ももっている。もちろん遺跡データには記載されていないが。
【写真左】本丸近くの登城路 頂上部に近くなるに従って急こう配になり、七曲個所が増える。
【写真左】和久羅山本丸跡その1 冒頭で記したように、この位置は標高261.7mのところで、244mの頂部を持つ場所は、この写真の後方になる。
本丸跡の形状は北西から南東に向かって延びたやや楕円形に削平されたもので、長径70m前後、短径10~20m前後と予想以上に広い。
写真にみえる下面がきれいに管理された部分は、そのうちの約半分で、残りは次の写真のように伐採もされていない。
【写真左】その2 手前が下草などが刈られた部分で、その奥(東南部)は、樹木が残ったままになっている。
【写真左】その3 南東部の樹木のある位置にあった三角点
この位置が標高261.7mということだろう。
【写真左】その4
本丸跡南東部の先端部であるが、このあたりから切崖に近い傾斜になっている。
【写真左】その5
本丸跡より宍道湖および、平田(北西方面)を見る。中央のかすんでいる山は「北山」でその麓には当時「鳶ヶ巣城」において毛利軍が陣を張っていた。
【写真左】その6
本丸跡から、宍道湖南、松江市および斐川高瀬城方面を見る。
【写真左】その7
本丸跡より、手前大根島、その向こう弓ヶ浜半島、さらに美保関を見る。
【写真左】その8
本丸跡より、橋南の茶臼山城を見る。
写真中央の山で、村井伯耆守が拠った。ただ元亀元年ごろの茶臼山城の動向ははっきりしない。