宇波城(うなみじょう)
●登城日 2008年4月2日
●別名 土居城
●所在地 安来市 広瀬町 宇波
●築城期 正中2年(1325)
●遺跡種別 城館跡
●築城主 三村十郎朝貞公、真木氏
●標高 180m
●遺跡の現状 山林他
●備考 明治30年(1897)、宇波小学校旧校舎敷地形成中発見
◆解説(ひろせ史跡名勝 ガイドブック 比田・西谷・宇波・布部編 月山尼子ロマンの里づくり委員会より)
“宇波城本丸
高さ30mくらいで、右手に向かって300mくらい連なる丘で、北側(背面)が月山方向(中間に母宗峠と高小屋あり)にあたり、月山城の南側の唯一の守りの場所です。
頂上の稜線には3,4か所地ならして、見張所跡のような台地が出ており、中腹に殿様平(10アールくらい)という平地があり、泉水のようなものがあり、年中水を湛えています。この下段にも「姫様平」といわれる10アールくらいの平地があって、大正初期まで小学校がありました。
麓には荒神の杜があり、一抱え位な欅(けやき)の大木がありました。今は新校舎が建築され、切崩されて昔の面影はありません。右に土井という谷があり、小川が流れています。
【写真左】真木与一公墓から望む宇波城遠景
【写真左】宇波城登山道
宇波城は、別名土居城(土井城)といわれたようですが、先年、某史跡研究家が現地調査された結果では、「政庁的存在」のものだったよう発表になりました。
下方には水田が10ヘクタール余り平坦に展開しており、墓田、深田などという名や、上荒神、下荒神という地番名の所は武家屋敷で、上小路、下小路と屋敷集団の小路区画が地番名になったような言い伝えもあります。
いずれにしても、ここが真木上野介・晴姫。惣右衛門高統・与一、真木一門の出生地かと思えば、郷土の者には懐かしい城跡です。
【写真左】宇波城本丸にある石碑
平成19年城下の宇波小学校卒業生による碑で、下段に「土居城(宇波城)跡」と記されている。
“正中2年(1325)三村十郎朝貞公が築城。十代・真木上野介朝貞公の娘・晴姫は、月山城主・尼子清定公に嫁ぎし、経久の母君に当たる。
説明板より
“13代城主・惣右衛門高経の子・与一は、元亀元年(1570)尼子・毛利の決戦で布部山に出陣し戦死した。その法輪塔は南山の丘にある。”
【写真左】宇波城全景
【写真右】本丸より南にある小学校方面を見る
写真に見える道は、近年の造成によるもので、小学校ができる前は、おそらく城郭そのものが現在の2倍程度あったものと思われる。
【写真左】本丸付近で唯一確認できた堀切
遺構はめぼしいものはあまりないが、この堀切りはその中でもはっきりと確認できた。
なお、写真にはないが、説明にある殿様平という場所(この本丸と思われる)に、小さな池があり、最近手入れしたようなあとがあった。
真木与一公の墓
宇波城の南方に正対して小山が突き出しています。この山裾の10メートル位上に、昔から「鐘筑堂」と呼ばれる畳10枚くらいに地ならしをした平らなところがあり、一角に来待石のような石材で作った立派な宝篋印塔が一基あります。
「昔イボ取りにお陰がある」といって、囲い垣を造り盛んに拝んでいた老母がいたことがありました。
近年、故・妹尾豊三郎先生により、布部山の合戦に討死した真木与一公の墓であろうといわれ、昭和63年に比田藤原玄聖師により、法名を「真徳院勇山俊道大居士」と号し、400年の法要が勧修されました。
【写真左】真木与一墓と説明板
説明板の内容を転記する。
“真木与一墓所
真木与一の祖父・上野介朝親は、経久の母の弟であり、富田城奪還(1486年:文明18年)の功労者と伝えられている。元亀元(1570)尼子再興軍が、布部にて毛利軍と戦ったとき、与一は尼子軍に味方したが、激戦の果て惨敗。与一も討死した。“
【写真左】宇波城へ行く途中にあった「鋳物師(いもじ)の里宇波」の看板より
“宇波の鋳物師は、長禄2年(1458)、今から538年前、河内国(今の大阪)から山崎氏が入村して以来、鋳物業が始まり、次いで加藤氏、新石氏、家島氏が加わり、広瀬月山富田城尼子氏の歴史と並行して、鋳物師集団を築き上げ、元禄時代に入り、細田氏へと受け継がれ、宇波の鋳物文化は当時特殊産業として、近隣に名声を博し、数多くの鉄や銅製品を産出し、戦後昭和23年(1948)細田氏が鈩を閉じるまで、およそ500年にわたりその名をとどめた鋳物の里の歴史が残されています。
古来、鋳物師は一国一集団の決まりがあり、朝廷からの許可書である「御綸旨(ごりんじ)」を授けられ種々特権も与えられており、他の者が自由に業を行うことは許されませんでした。
【写真左】広瀬の町から向かう途中にあった看板
新石家、山崎家、細田家に残されている当時の古文書は、歴史を物語る資料として安来市の和鋼博物館に貸出し保存されています。
鋳物は鉄や銅を溶かして粘土で作った型に流し込み、製品を造り上げますが、この原料となる「砂鉄」「木炭」「粘土」が良質で最適な条件を満たしていたこの宇波の地に鋳物が隆盛を極めた所以でもあります。
過去鋳物の歴史については、昭和26年(1951)出雲考古民俗史家・松本興先生の郷土史誌「鋳物宇波」が発刊されており、貴重な資料となっていますが、残念ながら戦時中の金属供出により形として残されている作品が次第に姿を消し忘れ去られようとしている現状を憂い、近年に至り、近隣市町村に現存する作品を取材し、写真集として発刊し、当時産業として栄えた貴重な鋳物文化を郷土の誇りとして後世に伝承することといたしました。
平成8年10月吉日
広瀬町宇波公民館
郷土宇波を知る会“
●登城日 2008年4月2日
●別名 土居城
●所在地 安来市 広瀬町 宇波
●築城期 正中2年(1325)
●遺跡種別 城館跡
●築城主 三村十郎朝貞公、真木氏
●標高 180m
●遺跡の現状 山林他
●備考 明治30年(1897)、宇波小学校旧校舎敷地形成中発見
【写真上】周辺図
“宇波城本丸
高さ30mくらいで、右手に向かって300mくらい連なる丘で、北側(背面)が月山方向(中間に母宗峠と高小屋あり)にあたり、月山城の南側の唯一の守りの場所です。
頂上の稜線には3,4か所地ならして、見張所跡のような台地が出ており、中腹に殿様平(10アールくらい)という平地があり、泉水のようなものがあり、年中水を湛えています。この下段にも「姫様平」といわれる10アールくらいの平地があって、大正初期まで小学校がありました。
麓には荒神の杜があり、一抱え位な欅(けやき)の大木がありました。今は新校舎が建築され、切崩されて昔の面影はありません。右に土井という谷があり、小川が流れています。
【写真左】真木与一公墓から望む宇波城遠景
【写真左】宇波城登山道
宇波城は、別名土居城(土井城)といわれたようですが、先年、某史跡研究家が現地調査された結果では、「政庁的存在」のものだったよう発表になりました。
下方には水田が10ヘクタール余り平坦に展開しており、墓田、深田などという名や、上荒神、下荒神という地番名の所は武家屋敷で、上小路、下小路と屋敷集団の小路区画が地番名になったような言い伝えもあります。
いずれにしても、ここが真木上野介・晴姫。惣右衛門高統・与一、真木一門の出生地かと思えば、郷土の者には懐かしい城跡です。
【写真左】宇波城本丸にある石碑
平成19年城下の宇波小学校卒業生による碑で、下段に「土居城(宇波城)跡」と記されている。
“正中2年(1325)三村十郎朝貞公が築城。十代・真木上野介朝貞公の娘・晴姫は、月山城主・尼子清定公に嫁ぎし、経久の母君に当たる。
説明板より
“13代城主・惣右衛門高経の子・与一は、元亀元年(1570)尼子・毛利の決戦で布部山に出陣し戦死した。その法輪塔は南山の丘にある。”
【写真左】宇波城全景
【写真右】本丸より南にある小学校方面を見る
写真に見える道は、近年の造成によるもので、小学校ができる前は、おそらく城郭そのものが現在の2倍程度あったものと思われる。
【写真左】本丸付近で唯一確認できた堀切
遺構はめぼしいものはあまりないが、この堀切りはその中でもはっきりと確認できた。
なお、写真にはないが、説明にある殿様平という場所(この本丸と思われる)に、小さな池があり、最近手入れしたようなあとがあった。
真木与一公の墓
宇波城の南方に正対して小山が突き出しています。この山裾の10メートル位上に、昔から「鐘筑堂」と呼ばれる畳10枚くらいに地ならしをした平らなところがあり、一角に来待石のような石材で作った立派な宝篋印塔が一基あります。
「昔イボ取りにお陰がある」といって、囲い垣を造り盛んに拝んでいた老母がいたことがありました。
近年、故・妹尾豊三郎先生により、布部山の合戦に討死した真木与一公の墓であろうといわれ、昭和63年に比田藤原玄聖師により、法名を「真徳院勇山俊道大居士」と号し、400年の法要が勧修されました。
【写真左】真木与一墓の登り口道路から2分程度でたどり着く
【写真左】真木与一墓と説明板
説明板の内容を転記する。
“真木与一墓所
真木与一の祖父・上野介朝親は、経久の母の弟であり、富田城奪還(1486年:文明18年)の功労者と伝えられている。元亀元(1570)尼子再興軍が、布部にて毛利軍と戦ったとき、与一は尼子軍に味方したが、激戦の果て惨敗。与一も討死した。“
【写真左】宇波城へ行く途中にあった「鋳物師(いもじ)の里宇波」の看板より
“宇波の鋳物師は、長禄2年(1458)、今から538年前、河内国(今の大阪)から山崎氏が入村して以来、鋳物業が始まり、次いで加藤氏、新石氏、家島氏が加わり、広瀬月山富田城尼子氏の歴史と並行して、鋳物師集団を築き上げ、元禄時代に入り、細田氏へと受け継がれ、宇波の鋳物文化は当時特殊産業として、近隣に名声を博し、数多くの鉄や銅製品を産出し、戦後昭和23年(1948)細田氏が鈩を閉じるまで、およそ500年にわたりその名をとどめた鋳物の里の歴史が残されています。
古来、鋳物師は一国一集団の決まりがあり、朝廷からの許可書である「御綸旨(ごりんじ)」を授けられ種々特権も与えられており、他の者が自由に業を行うことは許されませんでした。
【写真左】広瀬の町から向かう途中にあった看板
新石家、山崎家、細田家に残されている当時の古文書は、歴史を物語る資料として安来市の和鋼博物館に貸出し保存されています。
鋳物は鉄や銅を溶かして粘土で作った型に流し込み、製品を造り上げますが、この原料となる「砂鉄」「木炭」「粘土」が良質で最適な条件を満たしていたこの宇波の地に鋳物が隆盛を極めた所以でもあります。
過去鋳物の歴史については、昭和26年(1951)出雲考古民俗史家・松本興先生の郷土史誌「鋳物宇波」が発刊されており、貴重な資料となっていますが、残念ながら戦時中の金属供出により形として残されている作品が次第に姿を消し忘れ去られようとしている現状を憂い、近年に至り、近隣市町村に現存する作品を取材し、写真集として発刊し、当時産業として栄えた貴重な鋳物文化を郷土の誇りとして後世に伝承することといたしました。
平成8年10月吉日
広瀬町宇波公民館
郷土宇波を知る会“