2009年5月30日土曜日

藤ケ瀬城(ふじがせじょう)跡・その1(島根県奥出雲町横田六日市)

藤ケ瀬城(ふじがせじょう)・その1

●登城日 2009年2月28日(土曜日)
●所在地 仁多郡 奥出雲町 横田 六日市
●時代 中世  ●遺跡種別 城館跡  ●指定 未指定
●標高 438 m
●備考 1509(永正6)年、三沢為忠が築城。
●遺構種別 溝 その他 
●遺構概要 郭 帯郭 腰郭 土塁 堀切 虎口 櫓台


解説(参考:尼子盛衰人物記:編者 妹尾豊三郎、横田町誌など)
 三沢城の稿でも述べたように、三沢氏は、為仲の代からから以降14代・287年という長い期間、強力な出雲国人として、その勢威を保った。
【写真左】藤ケ瀬城遠望
左下に見える川は斐伊川で、藤ケ瀬城はその北側の山にある。







 あらためて、三沢氏累代のリストを下記に示す。
 初代:為仲、2代:為宗、3代:為家、4代:為昆5代:為助、6代:為在、7代:為行、8代:為忠、9代:為常、10代:為理、11代:為国、12代:為幸、13代:為清、14代為虎

 この中で赤字で示したのが、特に尼子氏と関係が深かったようだ。
 今回取り上げた藤ケ瀬城は、8代:為忠が永正6年(1509)に三沢城から当城に移っているので、築城期はその直前ごろと思われる。当城は高鍔山という山の南区域を利用した山城で、為忠は築城と同時に、禁裡仙洞から上意を蒙り、仁多地方の総地頭職を務めた。

 藤ケ瀬城に移ってから6年後の永正11年11月に、尼子経久がこの城に攻め込んだ。8代:為忠はこのとき隠居していて、9,10代の為常、為理は実弟だが、二人とも三沢城の城主として在城している。
【写真左】JR木次線横田駅前にある横田地域の地図
 残念ながら、藤ケ瀬城については詳しく書かれていない。





 藤ケ瀬城には11代となる為国が、藤ケ瀬城北東部にあった岩屋寺の寺衆らとともに籠城して防戦し、このときはついに城は落ちず、経久は引き揚げた。ただ、岩屋寺の堂塔僧坊すべてが尼子氏の兵火によって焼失した。

 その後享禄2年、為国は経久の再来攻に備えて、籠城の準備をはじめた。そして、2年後の享禄4年年(1529)、経久は今度は2万の大軍を率いて藤ケ瀬城を攻めた。さすがにこのときは藤ケ瀬城は持ちこたえられず、為国と弟・帯刀は捕えられ、富田月山に送られ塩谷に幽閉。

【写真左】登城口からしばらく登った位置

 現地には登城口らしき案内板がなく、当城の東側の民家の小道から上がっていった。この道が当時からの登城道だったかどうかは不明だが、斐伊川側から登るとすれば、地形的にはこの場所しかないように思われる。

 ただ、当城の高鍔山北東部には「岩屋寺」があったので、案外そちら側からのルートも存在したと思われる。



 藤ケ瀬城はそれ以後無住となり、翌天文元年より安部氏5代・次郎兵衛近豊が再び代官となり、同12年尼子氏がこの地を領するまでその職にあった。

 天文9年、三沢城主・三沢三郎左衛門尉為幸は、経久に従って安芸吉田郡山城に毛利氏を攻めた。戦は年を越し同年正月、為幸は元就を討ち取る寸前、遮られてついに討死した。この戦は尼子氏の大敗で、やがて石見・備後・出雲の諸将のうち、13人は連判状をもって大内氏に通じた。この中に為幸の子・三沢左衛門為清、三刀屋久意などがいた。

 天文11年(1542)正月、大内義隆は毛利元就以下5万の兵を率いて山口を発ち、件の13人の諸将も合流し、翌12年2月富田城を囲んだものの、尼子方の糧道攻撃の作戦が功を奏し、大内軍は困窮し、それを見た三沢、三刀屋の諸将は再び尼子方に帰順した。このため大内軍は惨憺たる負け戦となって山口に帰った。

 直後、尼子氏は大森銀山も手中におさめたが、この藤ケ瀬城のある横田荘にも改めて下記の諸将を配置している。
【写真左】本丸方向へ登る入口付近
 この場所からしばらくは歩けるように下草が刈ってあったが、100mぐらい過ぎたあたりから、藪こぎと倒木の連続で、行く手を阻まれ残念ながら断念した。




1、中村の代官には、森脇山城守家貞
2、その統率の下、竹崎村には河本
3、大呂村には河制
4、下横田村には大石
5、蔵屋村には羽島
6、原口村には本田家吉
7、尾園村には多賀山氏

【写真左】二の丸方面に向かう途中の広場
 写真中央部の標識が上の写真と同じもので、この場所は現在写真のように公園、グランドのような広場になっている。
 当時この場所がどのような種類の遺構だったのか不明だが、郭のようなものだったと思われる。
なお、写真の右側上部が本丸方向になる。





 他の領地にも同じような処置を行っているようだが、特にこの横田荘に力点を置いた理由には、ひとつは、毛利からの侵入を防ぐ前線基地的位置であること、もう一つは大森銀山の銀と同じく価値の高い「鉄の産出」があったからだと思われる。特にこの地方の鉄の品質は現在でも一級品であることから、戦国時代も相当他国との交易を盛んに行っている。
【写真左】広場付近から二の丸に向かう途中の南東方向の切崖
 遺構がどの程度の保存状態なのか分からないが、部分的には険阻な場所も見受けられる。

【写真左】南側にある郭(二の丸と思われる)
さきほどの広場を南に通り抜けると、この場所に行きつく。現在、当城の中では最も管理された場所で、ベンチや他の施設などが設置されている。





 天正17年(1589)国替えのため一門残らず安芸に移住したが、後長門に移ったという。正安4年/乾元元年(1302)から天正17年まで287年、14代にわたって連綿と続いた三沢氏も、住み慣れた出雲の地と決別する。

 前述したように、三沢氏は出雲における最強の旧勢力で、経久の台頭とともにその傘下に加わった
が、尼子が弱体化すれば、新興の毛利に従うのは戦国乱世の時代である。どちらにしても、三刀屋氏同様その末路はさびしいものとなった。
【写真左】二の丸から南東方向の横田の町を見る


【写真左】二の丸から南西方向に横田の町を見る
 写真左奥の方向には、三沢氏が最初に下向した雨川(八川)が見える。


【写真左】二の丸から西南西方向を見る
写真左下の川は斐伊川。当時はこの家並部分も河原状態だったと思われる。したがって藤ケ瀬城の南側は天然の要害で、簡単にはこの場所から攻め込むことは不可能だったと思われる。

【写真左】二の丸から本丸の尾根西側奥にある神社
 二の丸奥には「諏訪神社」の鳥居が設置してある。ここから尾根下を行くと、写真の祠がある。
なお、その途中に数段の郭らしき削平地を認めたが、笹木に覆われていて、中まで入ることはできなかった。
 この位置から再度、尾根方向によじ登ろうと試みたが、傾斜がかなりあることと、岩盤状の地が多く、諦めた。

2009年5月29日金曜日

御城山城(おしろやまじょう)その2

御城山城(おしろやまじょう)その2

◆解説
 再び前稿の読者・城ノ助さんより、今度は4月に紹介した、島根県雲南市三刀屋町殿河内にある当城本丸跡に設置された記念碑と、縄張図を送っていただいたので紹介したい。

【写真左】宇佐輔景の顕彰碑
 管理人は当城の麓まで行ったが、道が分からず断念したが、城ノ助さんは本丸跡までたどりつき、ごらんの写真を撮った。








【左図】御城山城の縄張図
●宇佐輔景が活躍した南北朝期に当城の基礎ができていたと思われるが、島根県遺跡データベースによると、現在の遺構である郭・井戸・堀切り・虎口・搦手などは、ほとんど戦国時代に手が加えられているとのこと。










●これで見ると、管理人が途中まで向かった位置は、上部右に延びた郭の下付近までだったようだ。竪掘りが4本配置されているが、予想以上に念入りな設計に思える。

 ただ、戦国期の主だった史料の中に当城の名があまり出ていないので、実際の戦がどの程度あったものかわからない。

岩熊城・その2

岩熊城・その2

◆今月前半に取り上げた岩熊城(いわくまじょう)(島根県雲南市大東町)について、当城を探訪した一読者から、「縄張図」を提供していただいたので、紹介したい。

【左図】岩熊城縄張図

●提供して頂いた読者は、ハンドルネーム「城ノ助」さんという方で、管理人と同じ島根県に在住している男性の方である。お礼申し上げます。

●島根県内で、山城探訪をしている人がどのくらいいるのかわからないが、城ノ助さんご自身もHPを立ち上げているとのこと(タイトル:「武士らんど」)。
●同図は、東郭群をあらわしたもので、西郭もあるが現地はほとんど荒れ放題で、容易に進入できない。東郭群もほとんど手入れされていないが、城ノ助さんはこの区域に果敢に挑戦して、遺構を確認したとのこと。一部の郭跡は多少下草などが刈られていたようで、特に東西のラインの郭付近は踏み込めたようだ。

【写真左】岩熊城遠望
南側の道路から見たもの。







2009年5月24日日曜日

三沢城・その2

三沢城その2

◆三沢氏について

前稿で記したように、三沢城の築城期については、嘉元3年(1305)、三沢為仲が三沢郷に三沢城(鴨倉城)を築城、となっている。

その為仲の出自については、諸説があり、ひとつは木曽義仲と巴御前の間に生まれた二男・清水冠者嘉基の子が、六郎三郎為仲で、これが三沢氏の開祖だとするもの。

【写真左】三沢城登城口の駐車場付近
 登城口までは道は狭いものの、舗装整備されており、駐車場が完備され、トイレも設置してある。

 
 もう一つは、飯島系といわれるもので、前稿の写真にもあった飯島氏である。この系譜では、南信濃に住む源経基の子・満快の流れをくむ一族で、信濃国伊那郡飯島本郷を領地とした土豪・飯島氏である。

特に飯島氏については、為光の代、承久の乱において論功行賞により、出雲国三沢郷を賜り、為光の孫・広忠が当地三沢郷に下向したとある。

さらにその広忠の孫(為長のちの為仲)が、乾元元年(1302)、まず、因幡(鳥取県)の鹿野に一時在住し、その後、奥出雲の斐伊川源流に近い横田・雨川(現在の八川)に移住している。さらに3年後の嘉元3年(1305)、三沢郷に当城を築城したとある。

●ところで、以前取り上げた三刀屋城の諏訪部氏(三刀屋氏)などは、承久の乱後(1221年ごろ)ただちに三刀屋郷に下向している。
同氏と比較すると、三沢氏の場合は、論功行賞を賜ってから約80年後である。鎌倉幕府が遺漏なく記録・文書を管理し、三沢氏(飯島氏)の80年前の論功行賞に対して、措置を行なったことになる。しかし、あまりに年月が経ちすぎて不自然に思われる。

【写真左】三沢城より須我非山方面を見る
 この写真は、2007年3月に登城したときのもので、やはり山城登城は、秋から冬にかけてが一番いいようだ。

 
 現代の立法府・行政府でさえ、数十年も時が経てばほとんどの案件は、不履行されるケースが多いのにである。

また、三沢氏が山陰に初めて下向してきた乾元元年(1302)からわずか3年で、奥出雲を支配していることになるが、これもかなり無理があるように思える。

●こうしたことも含めて考えると、史料・記録がないものの、私にはこれらの記録とは別に、実際に同氏が出雲にやってきたのは、もっと早く、たとえば、承久の乱の論功行賞による新補地頭の細則を公式に定めた寛喜3年(1231)直後ではないかと思えるのだが…。

もちろん史料がないため、まったくの想像である。が、この期間前後に行わないと、論功当事者である飯島為光一族が納得しないのではないかと思われる。

●さて、三沢氏はその後、しだいに勢力を拡大していく。記録に残っているものを抜粋すると次の通り。
●元亨2年(1322)、孤峯覚明が平田・康国寺を開山する際、三沢康国を開基をとする(ただこの康国の名前が三沢氏系図に記載されていないので、同氏直系ではないかもしれない)。

●延元3年(暦応元年)(1338)、三沢郷よりさらに西北にある大原郡加茂町屋裏郷の地頭職も獲得し、宍道湖周辺進出の足がかりをつくる。

●室町時代には出雲守護の山名氏に属し、明徳の乱(1391)には山名氏に従って出陣し、当主・三沢為忠は討死している。

●永正6年(1509)、三沢為忠(為仲から8代目)のとき、三沢郷からさらに西の横田・高鍔(つば)山に藤ケ瀬城を築城し移る。このとき、三沢城には為忠の弟・為常、為理が続いて城主として住む。

その後、三沢氏は藤ケ瀬城を拠点として活動するが、為国の代になって尼子氏の傘下に入る。このあたりから三沢氏も含め、出雲・石見・安芸の諸将はめまぐるしく大内・尼子・毛利などに属していく。

永禄3年(1560)、尼子晴久が没すると三沢為清をはじめ、三刀屋・赤穴氏などは相次いで毛利氏に降礼していき、その後尼子氏に与することはなかった。
【写真上】三沢氏の菩提寺・蔭涼寺
三沢の旧城下町の北側に建立されている。現在は臨済宗妙心寺派。

2009年5月23日土曜日

三沢城(みさわじょう)その1・島根県奥出雲町仁多三沢

三沢城(みさわじょう)

●登城日 1回目 2007年3月2日、2回目 2009年5月19日その他
●所在地 奥出雲町仁多三沢  ●築城期 嘉元2年(1304)
●遺跡種別 城館跡  ●築城主 三沢為長
●標高 418m
●遺跡の現状 郭、帯郭、腰廓、土塁、石垣、堀切、虎口、櫓台
●備考 島根県指定史跡 
●別名  亀嶽城、鴨倉城(参考:島根県遺跡データベースより)

解説(サイトより)

三沢城の概要

 三沢氏居城として、1305年、開祖為仲が築造したもので、爾来十四代280余年に亘る居城の遺構を今に伝える貴重な遺跡である。

 この城跡は仁多郡の西南の隅み、三沢の中心にそびえる標高四百十八・五米の突出した独立の山、要害山であって、北に斐伊川、南は阿井川の清流にはさまれ、東は正面の山の麓を三沢川が帯のように流れ、西の山の裏は阿井川にそった二百数十米のきりたった崖で、まわりにこれより高い山はなく、自然の要害をうまく利用した本城と、布広域を結ぶ複合式遺構は出雲國人の築いたものでは、県内でもっとも大きいものといわれ、中世山城の代表的なものである。

 昭和39年、島根県史跡文化財として第1回の指定をうけ、つづいて昭和49年多くの山や土地の地主の方の賛同のもとに、山全体とそのまわりをふくむ広い範囲の第2回目の指定を受けている。
【写真左】三沢城遠望
 当城西側の下鴨倉側から見たもの。東側からの遠望できる場所もあるかもしれないが、絵柄的にはこの方向がいいようだ。本丸は写真の右側に設置されている。



【写真左】大手門石垣
 この山城の中で一番大きな石垣群で、近在でもこれだけ大きな石が使用されているところは少ない。

 なお、当時はこの石垣を利用して、出入口を四角に囲み、門を形成して中が見えないようにした「枡形」の施設があったらしい。この場所から、すぐに二の丸になる。



【写真左】二の丸付近
 二の丸の規模もかなり広くい。写真にはないが、この場所に炭焼き釜跡のような大きな穴が残っていた。

 当時のものか、近代のものか分からないが、平たん部の多いこの位置は戦国時代も含め人の活動痕跡が見受けられる

 次の写真は、この場所からほぼ同じ高さで北東部にも「十兵衛担(じゅうべいない)」と呼ばれる屋敷跡のような土塁・堀切りを駆使した遺構が残っている。

【写真左】「十兵衛担」入口付近
 「担」と書いて、「ない」と呼ぶのは初めて見た。
「担」は「にない」と呼ぶところから、「に」が省略され、「ない」という呼称が定着したものだろう。

 三沢城関係の他の史料では、郭と同義の「平坦部」の「坦」を用いて、当城には総計「48坦」の郭があるとしている。

 「十兵衛担」もそのうちの一つで、屋敷跡及び「馬出」の構えがあったという。また、別称として「十兵衛成」と記しているものもある。

 十兵衛という人名が残されているところからすると、三沢氏の重鎮であった「十兵衛」という武将の屋敷跡であったと思われる。
【写真左】十兵衛担の一部
 尾根筋のような地形部にはっきりと残る土塁を設け、さらに北東先端部に数段の堀切りなどを配置している。

 屋敷跡らしき平坦部はかなり広く、相当数の家臣が生活していたと思われる。
 なお、この先端部の途中から東部へ下る道が残っていることから、当時はこの道が平常時の生活道路だったかもしれない。全体に変化に富んだ遺構が多く見受けられる。
【写真左】三沢池
前記の「十兵衛坦」に向かう尾根左下の奥に「水の手」と呼ばれる個所がある。「三沢池」は出雲風土記にも出てくる池で、現在でも写真のように清水が湧き出ている。

 このあたりは三沢城周囲の中でもっとも水が多く出るところで、前記した十兵衛坦(屋敷)から近いこともあり、二の丸も含め、多くの将兵らが利用していたと思われる。



【写真左】鳥居丸城濠から本丸方向を見る
 二の丸から直接本丸に上がらず、帯郭を通ってぐるっと半周すると、地元中国電力の鉄塔が設置された築山に出くわす。

 その反対側が「鳥居丸城濠」といわれる「北郭群」の一つで、この位置から見ると、予想以上に本丸周辺の長径が長いことがわかる。






【写真左】鳥居丸城濠の上の段から見た「鳥居丸」側面











【写真左】古井戸跡
鳥居丸に残っているが、本丸とほぼ同じ標高位置なので、当時は相当深い井戸だったと思われる。











【写真左】諏訪社壇と呼ばれる所
元は大きな樹木があり、祠のような施設があったものと思われる。信州から下向した三沢氏(飯島氏)であるから、祭神は当然、諏訪社である。









【写真左】本丸城濠と呼ばれる堀切
鳥居丸・諏訪社壇のある郭と、本丸との間にはこの城濠が設置されている。堀深さは現在5,6m程度だが、当時はもっと深いものだったと想像される。







【写真左】本丸跡に建つ石碑
昭和40年代前半、当時の島根県知事・田部長衛門氏の筆による石碑である。









【写真左】本丸跡から北東部に見える出城「須我非山城」遠望
須我非山城は、三沢氏の出城で、標高は三沢城より高い。








【写真左】本丸下にある大正年間に設置された石碑


















【写真左】三沢氏の墓
 三沢城をいったん降りて、南側にいくとこんもりとした藪状の郭跡がある。

 この西側に一般の墓所と近接したところに宝篋印塔型の墓石4基が建っている。
三沢氏であることは間違いないようだが、何代目のものかは不明。




【写真左】円正堂といわれる社
上記三沢氏の墓がある郭からいったん区切られ、東側郭部分に設置されている。現在では「仁多札三十二番円照堂」という板表札がかかって、この境内にも数基の墓や地蔵が置かれている。







【写真左】成田館址(なりたかんし)と呼ばれた場所
 手前の畑付近が館跡で、その後ろの小山が砦跡になっている。

 円正堂や成田館址は、当時本丸の防衛前線基地で、このほかに現在民家や田畑になっているところも、これに付随した施設があったものと思われる。

2009年5月17日日曜日

三笠城(みかさじょう)その2

三笠城その2

●前稿で取り上げた海潮(うしお)神社の脇道をさらに谷の奥に向かって約400mほど行くと、写真のような登城口の看板がある。
【写真左】三笠城登城口
 写真のような道はここまでで、このあと三笠山の横腹を一気に登る険しい道が控えていた。しかも、ほとんど最近手入れされていない道で、山頂まで「500メートル」とあったが、実際はその倍を歩いたようなきつい山道だった。


【写真左】登城口付近からしばらく続く七曲登城道
 当時からこの道が使われたいたか不明だが、斜面の傾斜はかなりきついほうだ。
 この山の等高線を見る限り、傾斜が緩そうなルートは南西部の山裾の尾根元からが考えられるが、そのような記録がないため、この道が主要道だったかもしれない。
【写真左】途中にあった鉄塔付近 久しぶりに急峻な坂道を登ったという印象がある。しかも谷の脇や、七曲りが何度も続く。途中は石ころや、狭い道がほとんどで、油断していると下に落ちそうな状態が多い。以前登った鳥取の「羽衣石城」の雰囲気がある。
【写真左及び左下】石塁跡の看板と石積み この付近には石垣上の物が見えたが、どうやら看板にあるように、「戦いの際、攻め登る敵に対し投げ落とした防戦用の石」とのこと。看板そのものも、おそらく海潮神社のものと同じく、昭和55年当時設置されたものと思われる。

【写真左】弓矢に用いられた竹林この場所以外にも竹林はあったが、弓矢用としてはこの付近の太さの竹がおそらく一番いいのだろう。

【写真】きつい坂道が過ぎたころに見えた削平地おそらくこの場所は郭だったと思われる。

 「新雲陽軍実記」によると三笠城について、次のようなくだりがある。
牛尾高平城主・牛尾豊前守は、美作の升形城番として、昨年その地へ赴任していったので、高平城※にはその妻子と、幼少ながら養子の大蔵左衛門とが留守をしていた。そこで、三笠城の城主・牛尾弾正忠は、その留守に乗じ、山中鹿之助の加勢を受けて攻めかかった。
 元亀元年(1570)三月上旬である。豊前守の妻女は武田刑部小輔信実の妹で、今巴(いまともえ)と異名をとるほどの女丈夫であった。よく城を守り通したので、弾正忠も攻め落とすことができなかった。そこでまず、三笠城を修理して、そこに立て篭もり、隙を見て高平城を攻め落とさんと考えていた。
 元亀元年4月16日、吉川元春の家臣・田中務少輔経忠と香川兵部大夫春綱の二人は、300人余りの手兵を引き連れ、三笠城へ押し寄せた。小阪越中守・黒杭惣左衛門・足立彦左衛門・岡又十郎などの面々は、先頭切って攻め登って行った。城中からは大木、大石を落し、また礫(こいし)を投げつけ防いだので、香川の郎党・鉄櫃(かなびつ)弥三郎は石に当たって死に、香川・小阪・黒杭なども石にあたりあるいは大木に押さえられて気絶するものもあり、九死に一生を得て引き上げるものもあった。元春はこれを聞いて、
「かねがね抜駆けの功名は固く止めておいたにも関わらず、軍令に背いて味方を失うとは、言語道断の不埒者」
と大変な怒りであった。


【写真上】前記郭部分からのぼった途中にある大きな岩 登城道は石の左側を通るが、よく見ると岩の中から木が生えていた。さすがにこの岩を戦の際下に落とすことは不可能だったようだ。
 城内では弾正忠の弟に隣西堂という僧がいて、降参のことを願い出てきたので、元春も承知し、城は円満に明け渡すばかりになっていた。ところが、その夜はたまたま城内から出火が起こり、小屋が二、三軒俄かに燃え上がり、陣所毎に類焼していった。これを見た毛利の諸軍勢は、
「さては自ら火を付けて焼き払うつもりらしい。攻め登って分捕りせよ」
とわれさきに攻めかかった。
 城内では、思いもかけない火災のこととして、これが防火におわれて防ぎ戦う者もまれだった。何という不運であったか、もうこうなっては仕方がなかった。弾正忠兄弟をはじめ、隣西堂並びに家臣の恩田與市左衛門、飛石惣兵衛、岩田などは、煙の中を今が最後と切り込んでいたが、やがて恩田は内藤河内守に討たれ、長沢石見守は香川春綱に討たれたので、牛尾弾正忠は、その弟・甚次郎、並びにその妻と今年10歳になる女子を連れ、燃え上がる炎の中に飛び込んで死んだ。
 その後、牛尾豊前守は、作州から呼び戻され、三笠城へ入れられてその領地を安堵されたのである。“


●この中の※高平城は三笠城のある三笠山の谷をはさんだ北側にある山城で、記録ではこの高平城も「別名牛尾城」となっているため、非常に紛らわしい。元々、三笠城の出城だったようだが、元亀元年の頃は、毛利方の詰城として占拠されているようだ。 登城口を探したが確認できなかった。
【写真左】本丸跡その1
2段の構成で、併せて400㎡前後か。本丸の大きさはその半分程度。館のようなものはなかったかもしれないが、小屋程度のものは数軒建てることができる大きさである。

【写真左】本丸跡その2





【写真左】本丸跡その3

三笠城・その1(島根県雲南市大東町南村)

三笠城(みかさじょう)・その1

●別名 牛尾城跡、三笠山城跡●登城日 2008年6月4日
●所在地 雲南市 大東町 南村 三笠他
●時代 中世  ●遺跡種別 城館跡 
●指定 未指定 ●標高 302 m
●築城主 室町時代、牛尾弾正忠が築城
●遺構種別 溝 その他  ●遺構概要 郭 腰郭 土塁 石垣 虎口 井戸 (島根県遺跡データベースより)

◆解説
 この日(2008年6月4日)の地元紙・山陰中央新報にたまたま、写真のような記事を見つけ、衝動的に「三笠城」「牛尾氏」の地元・大東町南村に車を走らせた。















同紙の掲載内容は次の通り。

雲南・大東の中世領主「先祖」牛尾氏 の活躍ぶりしのぶ
出身地長野から学習会一行


 中世の室町・戦国期の約300年間、旧大原郡(現雲南市)で勢力を張った国人領主・牛尾氏(本姓は中沢氏)の出身地・長野県駒ケ根市中沢地区の一行14人が6月3日、牛尾氏が本拠とした雲南市大東町海潮地区を訪れ、墓所などを見学して尼子氏に仕えた盛時の活躍ぶりをしのんだ。

墓所など見学

 一行は中沢公民館中沢郷土学習会(30人)のメンバー。牛尾氏は中沢地区から旧大原郡に入部した新補地頭で、30年前から同学習会では海潮地区訪問を願っており、今回実現させた。

 この日は、大東町南村の海潮公民館で海潮地区振興会の宮川昇会長、同町の郷土史家・松田勉さん、古代鉄歌謡館の高橋勲館長らが歓迎。一行は同振興会が用意した牛尾氏の歴史資料などを基に説明を聞いたあと、牛尾氏の墓所がある近くの弘安寺を訪問し、400年ほど前に建立されたという五輪塔などを見た。

 また、弘安寺から牛尾氏の居城だった三笠山城跡出城の高平山城跡を遠望し、旧大原郡内から神門郡(簸川郡)まで統治を広げたという牛尾氏の時代に思いをはせた。

 この後、和歌発祥の地とされるスサノウノミコト(須佐之男命)ゆかりの須我神社や同歌謡館も廻った。
 同学習会の上村睦生会長は「中沢地区と海潮地区は山が多く、景色が似ている。先祖にあったような気がする」と感激していた。“


【写真左】牛尾氏墓所がある弘安寺門前
 なお、同寺は、天正6年、牛尾大蔵左衛門によって開基されたとあるので、牛尾氏の祖である中沢氏が下向したときの代の墓は、この写真のものかどうかはわからない。

 境内には出雲観音霊場第15番札所である観音堂も建っている。





【写真左】牛尾氏(神・中澤氏)の墓
 墓所は、弘安寺の境内から外れた西の傾斜面に設置されている。

 宝篋印塔型のものが2,3基あり、その左右には直系の一族のものと思われる墓が横に一列に並び、さらに手前の段には、家臣のものと思われる墓が寄り添うように建っている(下の写真参照)。




【写真左】牛尾氏家臣のものと思われる墓












【写真左】弘安寺側から見た三笠城遠望
 本丸の位置はこの写真中央にある山のさらに奥の方にある。

 登城口は写真右の谷を少しのぼった位置にある。
なお、三笠城の出城であった高平城は、この写真には入っていないが、左の丘陵地付近にあった。





【写真左】三笠城登城口手前に鎮座する海潮(うしお)神社











 同社の縁起一部を掲載する。

“延喜式内社 元郷社 海潮神社御由緒
御祭神 宇(う)能(の)治比(ちひ)古(この)命(みこと)


(前段省略)
…降(くだ)って、出雲式社考あるいは雲陽誌には、大森大明神と称し、天正9年11月(420年前)造営の棟札があり、以後17回の社殿造営の記録がある。

 古来武将部門の崇敬篤く、中世のころ、この海潮の地を領した尼子氏の重臣・牛尾弾正忠は、三笠城に拠り当社を祈願社と定め、社地社領の寄進をし、祈願神事に用いたと伝える獅子頭を今も社蔵している。

 明治維新までは、年々御札下げにて社領来の寄進があったが、王政復古を期して廃止された。
明治5年1月新制度により郷社に列格、郡政下にあっては例大祭に郡長の参向が続き、明治・大正・昭和の初期までは大森さんと称して親しまれ、遠近を問わず崇敬されてきた。

 創立以来千数百年、社地社殿等の移転もなく今日に至っている由緒ある神社である。

境内社 稲荷神社 恵美須社
八幡宮 高平社
社日社 総荒神社
鷲神社
三大祭 例大祭 10月20日
祈念祭 3月22日
新嘗祭 11月27日

平成13年10月20日 正遷座祭斎行記念
宮司 新田 有一 職“


 なお、三笠城そのもののについては、次稿で紹介したい。