2009年3月30日月曜日

土居城(大野氏居館)跡(島根県松江市大野町)

土居城・大野氏居館跡

●登城日  2009年3月28日(土曜日)
●所在地  島根県松江市上大野町 西光寺裏
●標高/比高  71m/30m
●遺構  土塁・郭・堀等

解説(参考:大野郷土誌等)
 前稿の本宮山城より西の谷に降りて行ったところに西光寺という臨済宗の寺院がある。この寺院を含めた丘陵地が大野氏の居館跡とされ、県遺跡データベースでは「土居城」と登録されている。

 元々西光寺は、この近くの土居正伝寺という地名のところにあり、西光寺の創建時期は不明だが、大野氏滅亡後、慶長3年(1598)4月8日、現在地に移転し、落城供養を営み、大野氏15代・高成を開基とした。

●大野郷土誌によると、昭和44年8月、当時の大野郷土誌編集委員によって、同寺の西北にある竹藪の中に多数の五輪塔の破片らしきものがあることが分かり、発掘作業が行われた。その結果、五輪塔22基、宝篋印塔3基が発見された(写真参照)。
 なお、竹藪の中に破片があることを最初に発見したのは、昭和44年当時の西光寺の御住職・昌子(しょうじ)淡海氏である。
【写真左】西光寺(土居城)門前
 土居城は、この寺院も含め、本堂奥の小山全体が大野氏館跡である。


 同誌によると、大野氏の館(土居城)の状況は次のようなものであったとしている。

“…大野氏の居館の跡といわれているが、当時のいわゆる鎌倉武士の館の類型によく似ている。鎌倉武士の館とは、大体次のごときものである。

山寄りの地帯なら、谷あいのまとまった平地を形作った小河川が平地を出ようとするところ、あるいはなだらかな台地を背に川べりに広がっているところ、その近くの高みに、各国の国府へと連なって行く道路に面して、武士の大きな館が建てられている。

 周囲は空堀か、水を湛えた堀に囲まれ、大体正方形に近い敷地である。その一辺はほぼ150mから200mぐらい、内側には、高さ1.2mの土手が築かれ、垣根がめぐらされている。中には二重の堀によって囲まれていたり、二つの正方形を連結して中間に堀があったりする、手の込んだ形式のものである。…以下略”
【写真左】本堂裏の南端部にある五輪塔と宝篋印塔
 昭和44年当時発掘された五輪塔と宝篋印塔だが、現在では当時の数ほど揃っておらず、合せて12,3基程度だった。
【写真左】館跡地の中央部に造られた「軍道(いくさみち)といわれる間道
 館・土居城の敷地は一辺が150~200m前後で、楕円形に近い形をしている。北端部には東西に長いため池があるが、当時からあったとれば、北面の切崖状況から見て簡単にはこの位置から攻め込むことは困難な造りといえる。
●写真は一見、堀切のように見えるが、軍道という名の道で、館跡地のほぼ中央部を南北に通っている。もっともその先が前記した池があるので、戦があった場合は、堀切としての効果も十分にあったものと思われる。この堀切を中心にして、東西に郭跡があり、大きさは東側が多少大きく感じた。
【写真左】館跡地に立つ数十の地蔵
 軍道(堀切)をはさんで、東側郭の外周部に写真のような地蔵が祀られている。ミニチュア版の札所のような感じて、3,4分で一周できる。もちろんこれは近代になってからのものだろう。

【写真左】西側郭跡にあった石碑
 東郭跡にはこれより大きな祠が設置してあったので、主郭は「八幡床」といわれる場所と思われる。
【写真左】井戸跡
 これも西郭に残っていて、その直径はかなり大きく3~4mはあったと思われる。同誌によれば、この東郭(八幡床)を中心として周辺に館や将兵の長屋もあったということから、西郭は家臣を中心としたものが住んでいたかもしれない。
【写真左】館跡の北端部にある池
前記した東西に長いため池が、館跡北端部切崖下に見える。

◆この土居城に足を踏み入れた途端に思い出したのが、鳥取県琴浦町にある「槻下豪族館跡」と、おなじく南部町にある「小松城」だった。規模や形は違うものの、その施工にきわめて類似したものを感じる。

 大野氏がこの大野郷に入部したのが鎌倉初期であり、上記2か所の築城期もほぼ同時期と考えられる。当時の築城・居館の造りは、多少地域的に離れていても、非常に共通点が多い。

 まさかとは思うが、現在のような大手の土木建築会社のようなものが当時から存在し、たとえば出雲・伯耆地方の居館・城郭を一手に引き受けていたような職人集団が居たとするならば、非常に興味深い話になる。(※もっとも、これがまかり通っていたら、戦略上の情報が筒抜けで、とんでもないことになるが…)

本宮山城(ほんぐうざんじょう)・大野氏(島根県松江市上大野町)

本宮山城跡 (ほんぐうざんじょうあと)

●所在地 松江市 上大野町
●時代 中世 
●遺跡種別 城館跡 
●遺跡の現状 山林 
●指定 未指定
●標高 279 m
●備考 鎌倉時代初期、大野氏が築城。 削平等により遺構一部損壊
●登城日 2009年3月28日(土曜日)晴れ

解説(参考:大野郷土誌等)
 地元出雲地方の戦国期といえば、尼子氏が最も有名だが、中世史の時系列でみると、尼子氏は後半期の100年前後の位置づけになる。武者の時代が始まる鎌倉初期からみれば、同氏は出雲地方では全くの新参者・新興勢力になる。

 さて、鎌倉時代、頼朝が全国(主として西日本)に向けて行った守護・地頭職と、その後承久の乱において論功行賞として北条執権が行った新補地頭などにより、この出雲・石見でも多くの一族が東国からやってきている。
【写真左】本宮山城遠景
国道431号線(通称・湖北線)にある松江フォーゲルパークから北に入ったところから撮ったもの。頂上部(本丸跡)にアンテナ塔が見える。




 今回取り上げる本宮山城主だった大野氏もその一人である。大野氏は系図によると、武内宿禰から出た紀姓で、平安末期に季(紀)康が鳥羽上皇の武者所となって、院の御所の警護に当たる。

 建久元年(1190)10月28日、源頼朝は、季清(季康の孫)に対し、出雲国秋鹿郡大野庄の地頭職を補する。季清は、大野庄に在住し、姓を紀(季)から、大野氏と名乗り、本宮山に城を築き、館を本宮山西山麓の土居(土居城)に置く。

 因みに、この時期(建久元年10月)は頼朝が鎌倉から京都へ上洛し、権大納言に任ぜられ、同年12月初旬には再び、鎌倉に向けて帰途に着いたときであるので、季清(大野氏)が頼朝在京中に地頭職を補されたとおもわれる。
【写真左】登城途中の道分岐点に設置された案内標識
 登城道は2か所あり、ひとつは広域農道から北に入る道・東側(多太神社側)から北に進み、途中から西に登る道。

 もう一つは、同じく広域農道沿いに写真のような標識があるところから直接登る道である。なお、この標識は前回訪れた時(2008年12月末)には設置されていなかったので、今年(2009年)設置されたばかりの新しい標識のようだ。


 その後、南北朝時代には、北朝に味方し足利尊氏から知行安堵状や感状を受けている。
 ところで、大野氏の治めた大野郷(庄)地域は、現在松江市に含まれているが、地元の呼称では「湖北地方」と呼ばれているところである。前にも記したが、鎌倉期を含め、中世の出雲部の地形は現在のものとはだいぶ様子が違っている。

 島根半島の中央部にあたるこの大野郷は、宍道湖に面した他の郷と同じく、当時の一般的な交通手段は同湖を使った水運である。

 産業の発達に伴い、物資の量も増える。効率的にものを運ぶ手段として、当然この宍道湖が大きな役割を果たし、あるものはさらに東隣の中海に出、美保の関所を通って、京や場合によっては遠く朝鮮、中国へも向かったという。

【写真左】本丸跡に建つ「大野氏城跡」の石碑
 写真のように、本丸跡にはテレビ塔のようなものが建ち、本丸郭跡の約半分を占めている。残念ながら、こうした建築物の工事のためか、遺構はほとんど確認できない。残りの平坦地には車が3,4台駐車できるスペースがある。


 さて、大野氏はその後、室町時代になると、地理的な条件もあったためか、貞義、義成、義高、高継、高直の途中まで、その間約200年ほど平穏な時代を過ごす。

 しかし、他の国人領主と同じく、戦国時代になって尼子氏と毛利氏の戦いが始まると、大野次郎左衛門高直は、当初尼子氏に従っていたが、永禄13年(元亀元年・1570)5月10日、毛利氏と誓紙を取り交わして味方した。

 記録によれば、尼子氏滅亡後、宍道氏との不和から天正10年10月15日、鳶ヶ巣城において、大野氏一族は宍道氏のために滅亡された(もっとも、この話は現在では史実ではないとの説もある)。

【写真左】本丸跡から東下方に見える壇
 本丸跡まで道が整備されたことはありがたいが、逆に、はっきりとわかる遺構が少ない。

 この壇も当時の郭跡なのか、それとも道をつけたり、塔を建設した際に土木工事としてされたのか、なんとも判断がつかない。



【写真左】本丸下北側から見たもの

多少は、本丸跡として残っている壇の姿ではないかと思われるが、なんともいえない。



【写真左】本丸跡から西を見る
 写真左は宍道湖の北西部で、右側に突き出た丘陵部の奥に「鳶ヶ巣城」がある

 中央に薄く見える川は、斐伊川。当時はこの宍道湖面の西側も相当奥まで湖になっており、現在の1.5倍の流域面積を持っていたと思われる。
 中世の宍道湖面には多くの水運用の船影が見えたことだろう。



【写真左】本丸跡から西方に「十膳山城」を見る
 写真手前の台形状の形をした山が、十膳山城で、同じ大野氏一族で戦国期、宮倉右衛門兵衛八郎二良が拠った。

 なお、この麓にも宮倉氏関係を祀ったと思われる神社があり、またそのすぐ下には当時の武家屋敷、馬場跡、馬洗い場、土塁などが残っている。




【写真左】本丸跡から見た西側の大野郷
 大野氏が治めた区域は、この大野地区と、のちに分家となった東方にある大垣氏の所領・大垣村がある。

 大垣氏の城址とされている地区は、この日登った道の途中にある本宮山南腹の亀畑山付近といわれている。

2009年3月24日火曜日

口羽氏 その4 口羽家住宅(山口県萩市大字堀内)

国指定重要文化財 口羽家住宅

◆前記したように、口羽氏は毛利氏の名家老・通良の代から引き続きその職責を踏襲していくが、関ヶ原の合戦後、西軍であったことから、毛利氏一族と一緒に萩に移封される。
今回は、その移封された萩市にある口羽家を取り上げたい(以下現地の説明板より)。

●名称    口羽家住宅
●探訪日  2008年11月21日
●指定   国指定重要文化財(建築物)(昭和49年5月21日)
●所在地  萩市大字堀内
●員数   2棟(主屋・表門)
       <主屋>木造平屋建て桟瓦葺  建物面積 116.875㎡
       <表門>木造一部中2階本瓦葺 建物面積 108.827㎡


指定説明

 口羽氏は毛利氏の庶流で、もとは石見国邑智郡口羽村を領した用路城主であったが、関ヶ原の戦の後、毛利氏氏に従って萩に移り、藩の寄組士(よりぐみし)(禄高1,018石余)として、代々萩城三の丸に住んだ。

 この三の丸(堀内)一帯は、大身の武士が住んでいた地区で、当時の面影をよく残し、重要伝統的建築物群保存地区の選定を受けている。

 口羽家住宅は、主屋と表門が揃って残っており、萩城下に現存する屋敷としても古く、かつ全国的にも比較的数の少ない武家屋敷の一遺例として価値がある。

 昭和51年10月から解体復元工事が行われ、54年2月に竣工した。
<主屋>

 この建物は南向きで、切妻造り桟瓦葺屋根の東側に、入母屋造りの突出部を設けている。

 間取りの平面構成は、棟通りで前後に仕切った6間取り型で、東側に張り出した台所がある。座敷と奥座敷の間には2畳の「相の間」があり、「武者隠し」の名残りとも考えられる。

 座敷からは庭を隔てて、橋本川や対岸の玉江の風景も楽しめ、風光明媚な趣のある一等地である。
<表門>

 表門は、萩に残っているものとしては最も雄大な規模を有する長屋門である。桁行22.2m、梁間4.9m、入母屋造り本瓦葺である。

 片潜門(かたくぐりもん)の南側には、門番所・中間部屋・厩(うまや)を置く。門番所には表向きに出格子があり、また門側にも窓があって門の内外を見通すことができるようになっている。門の表側は白壁、腰下はなまこ壁となっている。

 口羽家の表門は、延宝3年(1675)に江戸藩邸の門を拝領して萩に移築したと伝えられているが、現在の門は建築手法からみて18世紀後半のものと思われる。



◆口羽家のある周辺は上記の如く、三の丸のあったところで、現在でも通りの道は狭く、直接車で来ても駐車するところはない。

 口羽家の敷地内には、現在でも口羽家の子孫が住まいをしておられる。国指定となっている住宅そのものは他の萩市内屋敷跡と同じく、小ぶりな造りで、中に入ると、受付と説明を兼ねた女性の方がおられる。  屋敷の庭のはずれは、橋本川という大きな川が流れており、江戸期の本丸登城は徒歩もあったと思うが、船着場らしき場所も見えたので、案外その頻度が多かったかもしれない。

口羽氏・その3 二つの軍原(いくさばら)

口羽氏・その3 二つの軍原



◆解説
 前稿までで、口羽通良について、その出自や主だった戦歴を述べたが、改めて彼が毛利氏の中でどのような位置を占めていたか整理してみたい。

志道氏

 口羽通良は、永正10年(1513)に生まれ、天正10年(1582)7月28日に、69歳で亡くなっている。本姓はその家系である大江氏系毛利氏の庶子・坂氏一門の志道氏の傍流にあたる。父は志道元良で長男は、志道広良、その弟(二男)が通良である。

 前記したように、享禄2年(1529)ごろ、石見国の有力国人・高橋氏を滅ぼし、翌年若干17歳の若き志道通良が入部する。元就の判断によるものだろうが、まだこのころは元就が最終決定の権限はなく、知行・領有の最終承認の権限は大内義隆にあった。

 それにしても、この若さで当時最重要地域であった石見阿須那方面の領主を任されたことから、よほど元就は、通良に全幅の信頼を置いていたと思われる。

口羽通良

 その後、通良は、所領した口羽の地名をとって、志道氏から口羽氏の姓を名乗る。
 元就の右腕として特に、吉川元春と石見・出雲など山陰方面を任され、戦のあとの戦後処理に卓越した能力を発揮している。

 元就が亡くなった後は、輝元を補佐し、後年、元春、隆景、福原貞俊とともに、「四人衆」と称された。いわゆる名家老で、天正4年の石山合戦の際、顕如上人に深く帰依し、息子を出家させ、西蓮寺を創建するなど、信心深い武将である。

【写真左】石見・軍原その1
 所在地:島根県邑南町阿須那
 右に見える川は、出羽川でその奥は、江の川へ合流する。左側は「軍原キャンプ場」入口





軍原

 ところで、高橋氏が滅亡したときの経緯の中で、取り上げる地名に「軍原(いくさばら)」というところがある。

 現地にはその時の様子を記した説明板があるので示す(軍記物独特の文体なので読みづらいが、原文のまま載せる)。


伝承 軍原(いくさばら)のこと
 大永・享禄(1527~28)のころ、毛利元就は当時この地方に一大勢力を有していた高橋氏を配下に入れようと考え、虎視眈眈として高橋氏の動静を窺っていた。


 これを知ってか、高橋興光は山陰の雄・尼子氏に秘かに意を通ぜんとす。これを察知した元就は、この際興光を滅亡しようと策謀をめぐらし、鷲影城主・高橋弾正盛光(興光と従兄弟又は甥と伝えられている)に「高橋興光をよい手立てによって、その首をとれば、高橋氏の所領を汝のものと認め、末長く協力することを誓う」との密書を送った。


 受取った盛光は、元就の謀略とは気付かず、興光謀殺を決意してその機を窺っていた。時は享禄3年(1530)12月4日、備後の入君城を攻めていた興光は、正月を故郷で迎えようと一部の者を従えて帰路に着き、口羽から出羽川沿いに三々五々我が城・藤掛城を仰ぎつつ、軍原にさしかかった。

 盛光は今こそ好機到来とばかり、腕利きの部下たちを軍原の森陰に伏せておいて、息を殺して興光の到来を待つほどに、神ならぬ身・興光は盛光の裏切りなど知る由もなく軍原につくや「ワッ」とばかりに盛光軍の伏兵が襲いかかった。

 不意を突かれて驚きながらも興光は、疲労困憊の部下を激励して獅子奮迅の戦いも衆寡敵せず、全身創痍、興光はもはやこれまでと、鎧兜を脱いでそばの松の枝に掛け(後に、鎧掛けの松と呼んだ)、大岩に登り悠然と腹かき切って果てた。

 これを見て盛光大いに喜び「これで高橋の所領一切が我がものとなった」と興光の首を持って犬伏山に出陣していた毛利の武将に得意満面で


 「御約束の興光の首を持参しました。この上は御約束の遺領安堵の誓約書を賜わりますよう」
と、内心お誉めもと期待していたが、思いのほか


 「汝高橋本家相続人であり、元就公の令兄夫人の令弟を謀殺するとは、武士にあるまじきこと、かかる犬武士は生かしておけぬ。直ちに誅せよ」

 と言って、誅し首を切られ、後犬伏山に葬られたという。

 現在も犬伏山の麓に盛光の墓といわれる墓石が苔むしている。
  邑南町教育委員会“

【写真左】石見・軍原その2
軍原キャンプ場内。左に見える案内板に、上記の「伝承 軍原のこと」が記されている。





 
もうひとつの軍原

 さて、この石見・軍原での元就謀略による誅殺事件から約40年後の元亀2年(1571)3月、出雲斐川の高瀬城主・米原綱寛が、山中鹿助ら尼子再興軍の一軍として踏ん張るも、ついに力尽き、高瀬城北麓の丘陵地・軍原(いくさばら)にて米原勢約500が敗死する。

 城将綱寛は松江法吉の鹿助の拠る新山城へ敗走する。伝聞では、このとき軍原丘陵地から宍道湖面にかけて夥しい屍が残ったという。

 このあと、この地の戦後処理を行ったのが、くだんの名家老口羽通良である(当時58歳前後である) 。


斐川の「軍原」の命名者

 そこで、私には、特に斐川の軍原という地名は、この口羽通良命名したのではないかと以前から思っている。

 というのも、「軍原」という地名のある石見口羽(羽須美村)の武将が、出雲・斐川にある同名の「軍原」という地に赴いて戦ったという偶然性にはあまりにも無理がありそうなのである。


 むしろ、戦後処理の一環として、信仰厚い口羽通良が、慰霊も兼ねてあえて、この斐川の戦場だった地に「いくさばら(軍原)」という地名を残したというのが、自然なのではないだろうか。
【写真左】斐川・軍原その1
 高瀬城本丸跡より、北東方面に軍原を見る。






【写真左】斐川・軍原その2
 高瀬城北東山麓の湯の川温泉から、左側に軍原地区を見る。後方の山は、高瀬山城の東隣に立つ大黒山。
 当時は、敗走する米原勢は、この谷を下って、軍原に向かったものと思われる。 







【写真左】斐川・軍原その3
 軍原北端部(旅館・湖静荘付近)

 国道9号線の沿いで、写真中央部の白い建物のある高台が、当時の丘陵北端・先端部になる。

 手前は入江状になって、この付近に米原勢の兵糧運搬用船が置かれ、その動きがあるたびに、北の鳶ヶ巣城や、手崎城(平田)に陣取る毛利方(吉川元春・児玉水軍など)が船で攻めよせていたものと思われる。

 なお、米原勢は、元亀元年秋には毛利方の「稲なぎ」攻めにあい、食糧が確保できず、松江新山城(山中鹿助ら)へ、夜間に船でその調達に向かっていた。

2009年3月23日月曜日

口羽氏 その2 西蓮寺(島根県邑南町阿須那)

浄土真宗本願寺派
 法僧可意山 西蓮寺

◆探訪日  2007年4月2日及び3,4回
●所在地   島根県邑南町阿須那1978

解説(現地由緒より)

“永禄3年(1560)、下口羽の琵琶甲城主(初代)口羽下野守通良が創建。
真言宗 観世音院 西蓮寺と号した。

 天正4年(1576)石山合戦の最中、口羽通良は、毛利氏の大将としてよく奮戦して、織田水軍を破り、石山本願寺へ数百艘の船をもって兵糧武器等を送り届けた。
 浄土真宗11世宗主・顕如上人の御感あさからず、その縁あって通良は、以来顕如宗主に深く帰依して、翌年、元可(三男)へ泉秀と法名を賜り、この寺の住職とした。

 爾来、浄土真宗に改宗、寺領の寄進も受け、江戸時代には浜田藩の菩提寺、徳川家の位牌所の一つにもなり、石見、安芸、備後に多くの門徒を持っている。


楼門(山門)
      村指定有形文化財第2号(平成元年3月)

 弘化3年(1846)起工、嘉永元年(1848)上棟。棟梁は、旭町「和田の匠」と呼ばれた名工・長山喜一郎で、その傑作として「石見三門」の一つにあげられている。

 桁行8.3m、梁行4.4m、棟高11m、瓦葺2階建て、入母屋造り。

 一切金釘を使用せず、扉や庇、上欄等一部未完成の部分もあるが、素木の総檜造りである。階下に6頭の竜、4対の獅子、鶴と雲が12、花に極楽鳥、正面に雲竜、階上には竜、獅子、鶴等、華麗な彫刻で飾れている。

その他、経蔵(輪蔵)(村指定有形文化財)、タラヨウ一株(多羅葉)(村指定天然記念物)などがある。
【写真 上3枚】西蓮寺の山門








 石見三門は、この「西蓮寺」と、同じ名工・長山(豊原)喜一郎作による邑南町市木の「浄泉寺」、及び浜田市旭町木田の「正蓮寺」である。

 石見の寺院はこの石見三門に代表されるように、建築美学的にも非常に手の込んだものが多く、特に彫刻と、瓦敷(屋根)には圧倒されることが多い。
【写真左】山門の彫刻
 こういうのを見ると、大工を通り越して、完全な彫刻家・芸術家の作品である。









【写真左】西蓮寺境内












 西蓮寺は、前稿の「琵琶甲城」から出羽川を少しさかのぼり、羽須美の町部から東の山の方へ登ったところにある。周辺には10軒程度の民家が棚田を取り囲むように点在している。

 初めて訪れた時、出羽川沿いの町部からかなり標高の高い山間部に向かったため、この先に民家があること自体にびっくりしたものである。

 現在住んでおられる方々も、口羽氏宗家は関ヶ原合戦の後、萩に移封されているが、当時の家臣の何人かはこの地に残った末裔かも知れない。

琵琶甲城(びわこうじょう)・口羽氏 その1(島根県邑南町下口羽)

琵琶甲城跡(びわこうじょうあと)別名 矢羽城

◆登城日 2008年3月29日
●所在地 島根県邑智郡邑南町 下口羽
●時代 中世
●遺跡種別 城館跡
●遺構の現状 山林
●土地保有 民有地
●指定 未指定
●標高 311m
●備考 矢羽城跡
●遺構概要
 郭(本丸・二の丸・まりの段・釜屋) 削平地 竪堀 空堀  腰郭 土塁 石垣 堀切 竪堀 連続竪堀 虎口 など

【写真上】琵琶甲城遠景
 手前出羽川をはさんで、左側に口羽氏菩提寺・宗林寺。

 本丸は写真の右の山。宗林寺の後に口羽氏の墓があり、その奥から琵琶甲城へ登る道も設置されている。

 解説(参考:羽須美村誌など)
 以前「本城常光」を取り上げた際、高橋氏の流れを合わせて説明したが、今回はその高橋氏の跡に入部してきた「口羽氏」とその居城・琵琶甲城(びわこうじょう)を取り上げる。

【写真左】宮尾八幡宮
 琵琶甲城のある山並は、江の川と出羽川が挟むような配置になって、本丸を中心として、上空から見ると十文字形をなしている。

 登城口は、前記した南西側(宗林寺)尾根から登るルートと、南東に伸びた尾根下から登るコースの2か所がある。

 宮尾八幡宮は、この南東側からのルート上にあり、麓には小学校(跡地か)がある。私はこの場所に車を停めて、登城した。


 享禄2年(1529)5月2日、高橋弘厚が大内義隆に反し、尼子経久についたため、義隆の命を受けた毛利元就が、最初に弘厚の居城・松尾城を攻略し、そのあと弘厚の子・興光の居城・藤掛(根)城及び阿須那城を落とす(石見・軍原の戦いなどが有名で、興光切腹の経緯はいずれ取り上げたい)。

【写真左】登城途中から見た比尼人城(びくにんじょう)跡遠望
 比尼人城は、口羽氏奥方の隠居所だったので、この名があるという。


 この地域・阿須那郡口羽は、毛利の安芸から、石見銀山へのルートとして非常に重要な場所であったことから、元就の最も信頼でのできる家老として志道通良(しじみちよし)が入る。

 彼は、この口羽に入ってから、地名に合わせ、口羽(くちば)通良と改名する。口羽通良は、前領袖だった高橋氏の本城(藤掛城)に入らず、江の川本流に近い口羽にあった旧矢羽城を修復して、その名も「琵琶甲城」と改名する。
【写真左】屋敷跡らしき平坦地
 資料には載っていないが、本丸直下の位置に、写真のような土塁の跡をうかがわせる遺構をもった平坦地がある。

 おそらく家臣らの屋敷跡と思われる。この位置から本丸に向かって傾斜角度が高くなっていく。


 口羽氏は、毛利元春の弟・匡時より坂氏を称して、その子・坂広秋の四男・元良が高田郡志道村に住し、志道氏を名乗る。口羽通良は、その元良の子である。

 琵琶甲城を築城するにあたって、当城正面(南側)登城口付近に「宮尾八幡宮」を創建し、菩提所は、同じく本丸西山麓に「臨済宗宗林寺」を建てる。通良は主にこの寺を日常の居宅としたという。

 さらに、祈祷所としては、出羽川を隔てた江の川沿いの丘陵地に、従前より祀られていた「真言宗延命寺」を充てたという。

【写真左】登城途中の郭の一部
 南東の尾根伝いから登っていくと、はっきりとわかる曲輪は2か所ある。特に本丸付近より、登城途中の尾根伝いの遺構保存度がよい。



 地図を広げてみると、この琵琶甲城の場所がいかに重要な拠点であるかがわかる。この場所は毛利が石見(銀山)や、出雲(尼子)を攻める際の平時の前線基地ともいえる。

 陸路から大量の兵糧を運ぶことが困難な場合は、江の川水系を使うことができる。そして琵琶甲城の位置(口羽)は、江の川の枝川である出羽川が合流するところで、出羽川そのものも水運用として使用が可能だったらしく、川(船)の役割を熟知していたようだ。
【写真左】本丸跡1
 長径37m、短径25mのものが東側に、長径17m、短径28mのものが西側に独立して残り、東側郭側に帯曲輪(長径50前後)の段があり、北東尾根伝いに中小の郭が5か所認められる。
【写真左】本丸付近の土塁

【写真左】本丸東端部分
【写真左】宗林寺遠望

【写真左】口羽氏の墓
 宗林寺本堂の後には墓地があり、少し高い位置にこの墓石が建っている。
【写真左】出羽川沿い7号線に設置された案内板

2009年3月21日土曜日

土佐・和田城(高知県土佐町和田)

土佐・和田城(とさ・わだじょう)

◆概要

●名称 土佐・和田城
●登城日  2009年3月18日
所在地  高知県土佐町和田字古城谷
標高    732m

◆解説
 瀬戸内大橋から坂出に入り、讃岐平野を西に走らせ、川之江から徳島・高知方面に入るたびに感じるのは、この付近から見える特徴ある山並みに魅せられることである。

 四国の山並は、海抜からいきなり急峻な傾きをもった山へと変貌する、そんなダイナミックな景色と相まって、奥深い谷間に点在する集落も、高速道路から見ると、岩の塊のような傾斜地にへばりつくような恰好で点在し、家々を結ぶ道は細く、しかも七曲り状態である。

 そうした景色の代表的な渓流部として吉野川流域がある。吉野川は高知県と徳島県を流れる長さ約195㎞一級河川で、四国三郎といわれる日本三大暴れ川である。

 源流は愛媛と高知県の境にある標高約1900mの瓶が森山から流れ、高知県吾川から東方の大豊町へと続くが、途中に毎年のように渇水状況をテレビで報じる「早明浦ダム」がある。このダムの南側の頂に今回とりあげる「土佐・和田城」がある。

【写真左】和田城遠望









 和田城の築城期や築城主などについては、手元に具体的な資料がないため、詳細は不明だ。ただ、この土佐にある和田城と関係があると思われるのが、西隣の伊予(愛媛)重信川流域に勢力をふるった「伊予・和田氏」である。

 伊予・和田氏は河野氏の一族であるが、その元は、鎌倉期にさかのぼって相模の出と思われる。この一族と土佐・和田氏の接点時期は不明だが、土佐・和田氏については、鎌倉期初期の御家人・和田義盛(1147~1213)の子孫が、この地に入部し、和田越前守義清の代に長曽我部氏に仕えたとある。義清の子・勝右衛門は、長曽我部元親の四国統一の際戦功があり、元親より感状されている。


【写真左】和田城(西城)・子守神社・和田本城(東城)配置図





 実は登城したこの日の本来の目的地は、和田城ではなく、この東隣にある本山城(高知県長岡郡本山町本山)だったが、途中から道が分からず、たまたま道路マップや、カーナビにこの「和田城」が載っていたこともあって、急きょ変更して向かった。

 大豊ICから439号線に入って、道の駅「土佐さめうら」で休憩と地図の確認をし、土佐町を過ぎたころに右に分かれる「南越トンネル」経由の17号線(県道か)がある。この道をそのまま行くと、上吉野川橋に差し掛かる。

 この橋を渡らず、手前左の曲がりくねった265号線を通っていくと、途中から小さな標識「和田方面」というのが見える。

【写真左】子守神社(和田西八幡社)・その1









 ここから一気に上る小さな道がある。このあたりから人家が見えなかったため、とんでもなく寂しいところにきたものだと思った。ところがしばらく登っていくと何軒かの集落が点在し始める。これだけでも驚きだが、気がつくとダム湖が真下に見え始める。
【写真左】子守神社(和田西八幡社)・その2







 相当上に登ったころ、畑に地元のおばあさんがおられ、和田城の場所を再度確認する。
 とてもしっかりとした口調で「和田の御宮までは車でいけますよ」とのこと。それを聞いて安心する。

 いつも知らぬ山城探訪の際、少し道に不安になったとき、地元の方にあって確認すると何とも言えない安ど感を感じる。

【写真左】子守神社(和田西八幡社)・その3









 途中にある神社で、由緒は手前にあった道案内標識より転載する。

“もと延喜式内官幣大社で、奈良吉野水分神社、またの名を御子守あるいは、子守の神と讃え、当地和田義盛公の末裔・和田城址あとに和田一族のみでなく、当地の守護神として祀り旧村社として現在に至り、吉野にちなんで吉野川水域の源の神の神社です。

 説明
本城址跡子守神社 東出城跡に東八幡、西出城跡に西八幡が祀られています。
  子守神社氏子会”

【写真下】西八幡から本城(子守神社)までの間に見えた小さい祠







 以上のことから、この神社は西八幡で、和田城の「西出城跡」ということになる。標高は695m。

 なお、東八幡の方は時間がなく残念ながら登城していない。


 この付近は、かなり平たん部をもった尾根伝いだが、道の右側(北)に郭もしくは屋敷跡らしき形状の地形が見え、その前方には5,6m程度の小山がある。その中央部に杉の木の伐採により視界が開けていて、祠を確認することができた。

【写真左】本丸(子守神社)下の開墾された牧草地付近から見えた早明浦ダム湖







 地層は岩盤が多く、この地区に最初に入った和田一族などは当初からこうした困難な開墾作業に追われていたのだろう。

【写真左】本丸途中に見えた3,4段の郭跡
 ほとんどがこうした杉の植林による山だが、城郭跡付近は地元の人たちによって、下草刈りなどがされているようだ。


【写真左】本丸手前から見た北側の岩石
 下にある牧草地のようなところから、本丸までは15分程度かかるが、傾斜がかなりあるので、雨天時は足元が滑ることを覚悟しなければならない。

【写真左】本丸跡1(子守神社)
 この位置が「土佐・和田本城」(子守神社)で、標高は732m。

 資料によっては、前記した西八幡社を「本丸」としているものもあるようだが、一般的には、標高が高く、しかも要害性の高いこの場所が本丸と思われる。

 本丸の形状は、南北に細長く、長径14,5m、短径3~5m程度と思われる。北西側はかなりの切崖で、油断していると真下に落ちそうになる。
 この北側下に先ほどの何段かの郭状の遺構が見える。
【写真左】本丸跡2
 この本丸跡にある神社本殿の右に、平成元年に和田氏の末裔で、現在札幌市に住んでおられるという和田氏らによる前記した「西八幡宮立替」の銘記を刻んだ石碑が建立されている。



下山した後、再び車で下る途中、先ほどのおばあさんがおられたので、お礼を言ったことろ、自家製の「こんにゃく」を頂いた。

 また、驚いたことに、このおばあさんの名前も「和田」氏で、しかも自分の弟さんが、八幡の宮司を行っていたが、亡くなってしまったとのこと。このため、この春には毎年、和田城(八幡)で祭礼を行う予定だが、宮司がいなくなったので、どうなるか分からないのこと。

●前記した西八幡社の立派さにも驚いたが、それほど地元では崇敬の高いものとして祀られているのだろう。しかも、これだけ山奥であるにもかかわらず、和田城・和田氏一族という先祖を護り受け継いできた地元の人々の労苦を思うと、改めて敬服の念を抱かざるを得ない。

●こうした山城はマイナーなものかもしれないが、観光地化された史跡以上に価値があるものと私には思える。いつまでも受け継がれていってほしいものだ。


◎関連投稿
土佐・和田本城(高知県土佐郡土佐町和田字東古城)