大和高取城(やまとたかとりじょう)
●所在地 奈良県高取町
●別名 芙蓉城
●築城期 元弘2年(1332)ごろか
●築城者 不明
●城主 子島・越智・本多氏など
●高さ 583m
●登城日 2007年5月29日
このブログのタイトル「西国の…」というわりには、島根県と鳥取県がほとんどで、いっそのこと「山陰の…」という看板に変えた方がよさそうな状況になってきたため、今回は唐突であるが、奈良県の高取城を取り上げる。
【写真左】高取城の石垣
この城は、山城ファンならほとんどの人が知っている「日本三大山城」の一つで、改めて説明するまでもないが、とりあえず概要を記す。
◆日本三大山城
本丸が設置されている高さ(標高)から列記すると
1、岩村城(いわむらじょう)跡・岐阜県恵那市岩村町字城山 標高 721m
2、大和高取城(奈良県高取町) 標高 583.3m
3、備中松山城(岡山県高梁市内山下) 標高 430m
高さだけでは美濃岩村城だが、天守閣が現存する山城で日本一高いのは、備中松山城となり、大和高取城は、「比高」すなわち、麓と頂上の高低差が一番高く、350mである。
【写真左】説明板と縄張図
左側が北を示す。
カメラが古くて鮮明ではないが、右側が本丸になる。
◆高取城の概要については、他の山城サイトなども紹介されているので、この稿では、現地の説明板による。
“高取城沿革
高取城は、別名、芙蓉城ともいわれ、近世山城の典型としてよく知られ、巽(たつみ)高取雪かと見れば、雪でござらぬ土佐の城とうたわれている。築造年代に関しては元弘2年(1332)との説もあるが確実ではない。しかし、南北朝時代、南大和に大きな力を振るった越智氏の支城の一つとして築かれたことは疑いない。
元弘の頃に一時、子嶋氏の居城となり、さらに越智氏の居城となった。
城の形態としては、永正から天文(1504~54)の頃に、整備されたとみるべきであろう。当初の頃は越智氏にしても高取城をたんに、越智城、貝吹山城に対する出城としか考えていなかったようであるが、自然的要害の条件を備えているところから次第に本城的なものとして重視されるに至ったようである。
越智氏なき後、織田信長の城郭破却令によって廃城となっていた高取城の復活が、筒井順慶によって企図され、天正12年2月、高取城を出城と定め、郡山城ともども工事を進めたのであった。
この一国的規模での本城=出城主義の方針は豊臣秀長にも引き継がれ、本格的に近世城郭としての高取城が築かれたのは、百万石の大名として郡山城に入った豊臣秀次と秀保の時代であった。
その後の歴代城主は、本多氏が寛永14年(1637)三代で断絶し、寛永17年10月、植村氏が入部し、明治維新を迎えたのである。
城跡は、標高583.3mの山頂部を本丸とし、以下二の丸・三の丸・大手曲輪・吉野口曲輪・壺坂口曲輪が連なっている。それに隣接する外郭部は、侍屋敷群と放射線状にのびる大手筋、岡口、壷坂口、吉 野口の入口があった。
これら主体部はかつて土塁・柵、空堀等により、段丘状の削平地に築かれた中世城郭の城域を一部拡大したものであったろう。その意味で現存する内郭、外郭の縄張りは兵法を強く意識した近世城郭の完成期の特徴しめす構造になっている。
例えば、矢場門から宇陀門、千早門そして大手門の門台石組み遺構にみられるように、いずれも右折れ虎口(入口)として配置されている。
その他、本丸の桝形虎口の精緻さや、本丸の各隅角部石垣に利用された転用石材(寺院の基壇石、古墳石室の石材等)も特記されよう。また、本丸、鉛櫓下の背面に補助的に設けられた付台石垣の下に配列された胴木の存在は山城での遺構例として唯一の発見例として注目すべきものである。
ところで、廃城後の建造物については、そのほとんどが明治中期に取り壊された。石垣はほぼ今日まで原形を残しているが、一部崩壊やひずみの激しい箇所の修理を昭和47年以降繰り返し実施している。
奈良県教育委員会“
【写真左】本丸付近
◆登城したのが、すでに2年近く前にもなるので、このときの記憶がだいぶ薄らいでいる。細かい点までは覚えていない。唯一撮影した写真などから、印象に残ったことをまとめてみたい。
◆出雲から車で向かったが、南阪奈道路から24号線を通り、169号線に入ってしばらく南下すると、壷阪寺口というところから、左の道に入る。するといきなり上り坂になる。途中この壷阪寺という大きな寺院があり、ここに立ち寄った。ここにはびっくるするほどの大きな巨大観音像が建っており、何でも「眼病に効く」とのこと。
◆この寺院には結構観光バスなどで参拝する人が多く、境内には案内所が設けてあり、ここの受付嬢に、高取城へ車でどこまでいけるか尋ねた。
すると、ここから車で行く道はあるが、場所によっては対向車とギリギリですれ違うところや、カーブが多く、しかも登城口の駐車場も2、3台程度しか停めるところがない、といわれた。それを聞いて、一瞬迷った。しかし、徒歩でどの程度かかるものか全く分からないこともあり、車でさらに上を目指す。幸い上から下ってくる車がほとんどなく、しかも駐車スペースの部分もなんとか確保でき、登城口近くに止めることができた。
◆地図ではこの位置から本丸まで近いと思ったが、これがどうしてなかなか曲者で、最初から七曲状態の道の連続、しかも周囲は時節がら草丈がだいぶ伸び、涼しい風はほとんどなく、これが壷阪寺から歩いていたらどうなる事かと思った。
◆ほとんどの山城がそうであるように、本丸や二の丸付近辺りになると、傾斜はさらにきつくなる。途中でこの山の別の尾根から登ってきた登山者の何組かの団体とすれ違った。登山としてのコースは北西の方向にある高取土佐の町から登っていくのが一般的らしい。この人たちは高取城というより、この周辺の尾根伝いを踏破することが目的のようで、山城にはあまり興味がないようだった。
◆さて、上部の城郭付近の状況は添付の写真の通りだが、このころは山城の写真の取り方というか、コツがまだつかめていないときのもので、あまりい写真は撮れなかった。特に城跡の周囲・地面が雑草が多く、一番いい時期は紅葉の頃だそうだ。
◆あとから思えば、もう少しじっくりと城郭全体を見たかった。ただ、歩ける部分が伸びきった草木で邪魔をしていたため、思うように探索できなかった。城内の面積が10,000㎡、周囲約3km、城郭全域の総面積が60,000㎡というから広大である。
◆うっそうとした樹木に囲まれている「古城」という雰囲気で、広い本丸跡に佇むと、枝木の間から大台ケ原方面の山並みが見える。南北朝期に城の原型ができたというから、ひょっとして吉野の館から後醍醐天皇もやってきたかもしれない。
実は、それまで私の頭の中には、「大和」ということばのイメージが、武者の時代というレールに端(はな)から乗っていなかった。大和といえば古墳とか、古代とかいった単純な括りで、この地域は別のものという勝手な解釈をしていた。
ところがよく見てみると、この場所から西に行けば、千早城や葛城山あたりを席捲していた楠木正成もおれば、東の伊勢方面は北畠氏など、太平記のおなじみの面々が居た場所である。そして上段の説明板にもあるように、この地も戦国記から江戸時代幕末まで、他の城下町と同じように時を刻んでいる。
◆「…よくもまあ、こんな高くて深い山の上に城を築いたものだ」と、藪蚊に食われながらも改めて改めて思った。これだけの石垣を当時はすべて人力で行っていたわけである。ユンボやパワーショベルなどない時代である。昔の人の体力と知力には今更ながら脱帽である。
●所在地 奈良県高取町
●別名 芙蓉城
●築城期 元弘2年(1332)ごろか
●築城者 不明
●城主 子島・越智・本多氏など
●高さ 583m
●登城日 2007年5月29日
このブログのタイトル「西国の…」というわりには、島根県と鳥取県がほとんどで、いっそのこと「山陰の…」という看板に変えた方がよさそうな状況になってきたため、今回は唐突であるが、奈良県の高取城を取り上げる。
【写真左】高取城の石垣
この城は、山城ファンならほとんどの人が知っている「日本三大山城」の一つで、改めて説明するまでもないが、とりあえず概要を記す。
◆日本三大山城
本丸が設置されている高さ(標高)から列記すると
1、岩村城(いわむらじょう)跡・岐阜県恵那市岩村町字城山 標高 721m
2、大和高取城(奈良県高取町) 標高 583.3m
3、備中松山城(岡山県高梁市内山下) 標高 430m
高さだけでは美濃岩村城だが、天守閣が現存する山城で日本一高いのは、備中松山城となり、大和高取城は、「比高」すなわち、麓と頂上の高低差が一番高く、350mである。
【写真左】説明板と縄張図
左側が北を示す。
カメラが古くて鮮明ではないが、右側が本丸になる。
◆高取城の概要については、他の山城サイトなども紹介されているので、この稿では、現地の説明板による。
“高取城沿革
高取城は、別名、芙蓉城ともいわれ、近世山城の典型としてよく知られ、巽(たつみ)高取雪かと見れば、雪でござらぬ土佐の城とうたわれている。築造年代に関しては元弘2年(1332)との説もあるが確実ではない。しかし、南北朝時代、南大和に大きな力を振るった越智氏の支城の一つとして築かれたことは疑いない。
元弘の頃に一時、子嶋氏の居城となり、さらに越智氏の居城となった。
城の形態としては、永正から天文(1504~54)の頃に、整備されたとみるべきであろう。当初の頃は越智氏にしても高取城をたんに、越智城、貝吹山城に対する出城としか考えていなかったようであるが、自然的要害の条件を備えているところから次第に本城的なものとして重視されるに至ったようである。
越智氏なき後、織田信長の城郭破却令によって廃城となっていた高取城の復活が、筒井順慶によって企図され、天正12年2月、高取城を出城と定め、郡山城ともども工事を進めたのであった。
この一国的規模での本城=出城主義の方針は豊臣秀長にも引き継がれ、本格的に近世城郭としての高取城が築かれたのは、百万石の大名として郡山城に入った豊臣秀次と秀保の時代であった。
その後の歴代城主は、本多氏が寛永14年(1637)三代で断絶し、寛永17年10月、植村氏が入部し、明治維新を迎えたのである。
城跡は、標高583.3mの山頂部を本丸とし、以下二の丸・三の丸・大手曲輪・吉野口曲輪・壺坂口曲輪が連なっている。それに隣接する外郭部は、侍屋敷群と放射線状にのびる大手筋、岡口、壷坂口、吉 野口の入口があった。
これら主体部はかつて土塁・柵、空堀等により、段丘状の削平地に築かれた中世城郭の城域を一部拡大したものであったろう。その意味で現存する内郭、外郭の縄張りは兵法を強く意識した近世城郭の完成期の特徴しめす構造になっている。
例えば、矢場門から宇陀門、千早門そして大手門の門台石組み遺構にみられるように、いずれも右折れ虎口(入口)として配置されている。
その他、本丸の桝形虎口の精緻さや、本丸の各隅角部石垣に利用された転用石材(寺院の基壇石、古墳石室の石材等)も特記されよう。また、本丸、鉛櫓下の背面に補助的に設けられた付台石垣の下に配列された胴木の存在は山城での遺構例として唯一の発見例として注目すべきものである。
ところで、廃城後の建造物については、そのほとんどが明治中期に取り壊された。石垣はほぼ今日まで原形を残しているが、一部崩壊やひずみの激しい箇所の修理を昭和47年以降繰り返し実施している。
奈良県教育委員会“
【写真左】本丸付近
◆登城したのが、すでに2年近く前にもなるので、このときの記憶がだいぶ薄らいでいる。細かい点までは覚えていない。唯一撮影した写真などから、印象に残ったことをまとめてみたい。
◆出雲から車で向かったが、南阪奈道路から24号線を通り、169号線に入ってしばらく南下すると、壷阪寺口というところから、左の道に入る。するといきなり上り坂になる。途中この壷阪寺という大きな寺院があり、ここに立ち寄った。ここにはびっくるするほどの大きな巨大観音像が建っており、何でも「眼病に効く」とのこと。
◆この寺院には結構観光バスなどで参拝する人が多く、境内には案内所が設けてあり、ここの受付嬢に、高取城へ車でどこまでいけるか尋ねた。
すると、ここから車で行く道はあるが、場所によっては対向車とギリギリですれ違うところや、カーブが多く、しかも登城口の駐車場も2、3台程度しか停めるところがない、といわれた。それを聞いて、一瞬迷った。しかし、徒歩でどの程度かかるものか全く分からないこともあり、車でさらに上を目指す。幸い上から下ってくる車がほとんどなく、しかも駐車スペースの部分もなんとか確保でき、登城口近くに止めることができた。
◆地図ではこの位置から本丸まで近いと思ったが、これがどうしてなかなか曲者で、最初から七曲状態の道の連続、しかも周囲は時節がら草丈がだいぶ伸び、涼しい風はほとんどなく、これが壷阪寺から歩いていたらどうなる事かと思った。
◆ほとんどの山城がそうであるように、本丸や二の丸付近辺りになると、傾斜はさらにきつくなる。途中でこの山の別の尾根から登ってきた登山者の何組かの団体とすれ違った。登山としてのコースは北西の方向にある高取土佐の町から登っていくのが一般的らしい。この人たちは高取城というより、この周辺の尾根伝いを踏破することが目的のようで、山城にはあまり興味がないようだった。
◆さて、上部の城郭付近の状況は添付の写真の通りだが、このころは山城の写真の取り方というか、コツがまだつかめていないときのもので、あまりい写真は撮れなかった。特に城跡の周囲・地面が雑草が多く、一番いい時期は紅葉の頃だそうだ。
◆あとから思えば、もう少しじっくりと城郭全体を見たかった。ただ、歩ける部分が伸びきった草木で邪魔をしていたため、思うように探索できなかった。城内の面積が10,000㎡、周囲約3km、城郭全域の総面積が60,000㎡というから広大である。
◆うっそうとした樹木に囲まれている「古城」という雰囲気で、広い本丸跡に佇むと、枝木の間から大台ケ原方面の山並みが見える。南北朝期に城の原型ができたというから、ひょっとして吉野の館から後醍醐天皇もやってきたかもしれない。
実は、それまで私の頭の中には、「大和」ということばのイメージが、武者の時代というレールに端(はな)から乗っていなかった。大和といえば古墳とか、古代とかいった単純な括りで、この地域は別のものという勝手な解釈をしていた。
ところがよく見てみると、この場所から西に行けば、千早城や葛城山あたりを席捲していた楠木正成もおれば、東の伊勢方面は北畠氏など、太平記のおなじみの面々が居た場所である。そして上段の説明板にもあるように、この地も戦国記から江戸時代幕末まで、他の城下町と同じように時を刻んでいる。
◆「…よくもまあ、こんな高くて深い山の上に城を築いたものだ」と、藪蚊に食われながらも改めて改めて思った。これだけの石垣を当時はすべて人力で行っていたわけである。ユンボやパワーショベルなどない時代である。昔の人の体力と知力には今更ながら脱帽である。