高瀬城(た かせじょう)
【写真左】高瀬城遠景
左側の方が本丸跡、右側は二の丸、三の丸跡がある。手前に見える高架道路は、山陰高速道で右方向(西方面)に斐川ICがある。左方向は松江方面。
なお、当城への登り道の一つがこの写真の谷奥にあり、高速道路の下を通り過ぎると、車1台分の駐車スペースがある。
◆島根県には、「島根県遺跡データベース」というサイトがあります。これによると、島根県内にある山城(城跡)は1,200か所余りとのこと。
当然この中には、砦、支城、出城などといった本城以外のものも含まれます。また、中には館跡らしきものも含まれていますので、当時の在地領主・国人領主などが本城として居城した数は限られると思います。
当然この中には、砦、支城、出城などといった本城以外のものも含まれます。また、中には館跡らしきものも含まれていますので、当時の在地領主・国人領主などが本城として居城した数は限られると思います。
戦国期に限定してみれば、出雲部ではやはり尼子氏の関係した山城が多く、石見部の場合は、西に大内氏、東に尼子氏、南に毛利氏などがいたため、一様でないようです。
◆さて、この高瀬城ですが、所在地は斐川町にあり、築城期は、南北朝時代に建部伊賀という武将が造ったと言われています。また別の説によると、平家が造ったともいわれており、定かではありません。
城主として、記録からはっきりとわかるのは、戦国期に活躍した米原綱広(よねはらつなひろ)と嫡男・綱寛(つなひろ)です。父子で同じ呼称ですので、紛らわしいのですが、おもに記録に出ているのは嫡男・綱寛です。
◆尼子氏隆盛のころ、尼子十旗といわれる城が出雲部にありますが、この高瀬城もその一つです。
◆尼子氏はもともと今の彦根市付近にある「尼子」というところから出雲国守護代としてやってきています。その関係もあって、米原氏も同じく彦根市の隣・米原(まいばら)市から、尼子氏の被官としてやってきています。
◆尼子氏はもともと今の彦根市付近にある「尼子」というところから出雲国守護代としてやってきています。その関係もあって、米原氏も同じく彦根市の隣・米原(まいばら)市から、尼子氏の被官としてやってきています。
尼子経久から孫の晴久までが尼子氏の最盛期で、永禄5年(1562)には、米原氏も他の国人領主と同じく、毛利氏に与していきます。そして、毛利氏の一軍として九州豊後・大友氏との戦いまで従軍していきますが、永禄12年(1569)尼子勝久を立てた山中鹿之助ら尼子再興軍が、隠岐から出雲に入国すると、いち早く米原綱寛は尼子に復帰します。
◆詳細な記録は不明ですが、当時毛利軍の一員として福岡県の立花山城(立花道雪)を攻めていた綱寛が、どうやって自分たちだけ、立花山から戦線離脱できたのか、なんとも不可解です。どうやら、毛利氏としては、尼子再興軍の征伐の先鋒として、綱寛に命じたようですが、毛利方の思惑とは裏腹に、綱寛が地元に戻ったとたんに、尼子に復帰したわけです。このときの毛利方(吉川元春ら)の地団駄踏んだ表情が目に浮かびます。
◆しかし、その尼子再興軍の米原氏も元亀2年(1571)3月、高瀬城は落城。綱寛は松江・法吉町にある真山城へ逃れますが、そこも同年8月落城。鹿之助らはさらに逃亡します。
綱寛は、真山城落城のあと、京都へ出て仏門に入ったといわれていますが、地元にはそのまま残っていたような記録もあり、なんとも言えません。
☆なお、この高瀬城については、今後ももう少し詳しく紹介していきたいと思います。
【写真左】高瀬城本丸跡
全体が岩の塊のような形状で、削平されたというより、踏みつぶした結果フラットな面ができた、というような形です。
この場所は「大高瀬」と呼ばれるつめ(甲)の丸で、高瀬城跡の最南端になります。
全体が岩の塊のような形状で、削平されたというより、踏みつぶした結果フラットな面ができた、というような形です。
この場所は「大高瀬」と呼ばれるつめ(甲)の丸で、高瀬城跡の最南端になります。
【写真左】高瀬城本丸跡から東南東方向に見える、加茂の高麻山城
この城も、尼子十旗の一つで、大西氏、鞍掛氏の居城だった。一時期毛利と戦った際、破れて高瀬城へ敗走している。
(写真が小さいからわかりずらいが、中央のとがった山である)
この城も、尼子十旗の一つで、大西氏、鞍掛氏の居城だった。一時期毛利と戦った際、破れて高瀬城へ敗走している。
(写真が小さいからわかりずらいが、中央のとがった山である)