tag:blogger.com,1999:blog-1591244106002034989.post5385935520612487234..comments2023-10-04T18:51:19.197+09:00Comments on 西国の山城: 三隅城・その3(島根県浜田市三隅町三隅)トミーhttp://www.blogger.com/profile/10333402351347889656noreply@blogger.comBlogger2125tag:blogger.com,1999:blog-1591244106002034989.post-82811097719764753212017-09-06T23:21:32.631+09:002017-09-06T23:21:32.631+09:00コメントありがとうございます。また拙稿を御笑覧いただき恐縮です。
さて、弘治3年4月5日、益田藤兼...コメントありがとうございます。また拙稿を御笑覧いただき恐縮です。<br /> さて、弘治3年4月5日、益田藤兼が吉川元春に対して降伏したことを証する史料(文書)の有無についてのお問い合わせですが、結論からいえば、一次史料は勿論、二次史料さえもあるのかどうか分かりません。<br /> 因みに、当稿の記載にあたっては『三隅町誌』及び、『益田市誌』を参考にしておりますが、残念ながら両誌とも藤兼と元春の間に交わされた降伏関係の文書があったかどうかは書かれていません。<br />ご案内の通り、弘治3年4月直前までの藤兼の動き・態度を見れば、元就が激昂したことは当然でしょう。しかし、元春はそれを承知の上で、あえて父に逆らい藤兼を降伏締結させています。その後、元春と藤兼は縁戚関係を結びますが、よほど二人は気があったのでしょう。また、藤兼との関係に関わらず、元春は猛将として名を馳せていますが、なかなか人間的にも情に厚く、管理人の好きな武将の一人、筑前・岩屋城(福岡県太宰府市大字観世音寺字岩屋)の高橋紹運と共通するものを感じます。<br /><br />トミー 拝<br />トミーhttps://www.blogger.com/profile/10333402351347889656noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1591244106002034989.post-80989375554450438142017-08-30T17:21:39.694+09:002017-08-30T17:21:39.694+09:00楽しく拝読しております。
歴史の好きなシニアの一人です。
トミーさんの実際に現地に足を運ばれる行動力...楽しく拝読しております。<br />歴史の好きなシニアの一人です。<br />トミーさんの実際に現地に足を運ばれる行動力と博識にいつも感心させられます。 <br />『西国の山城』三隅城・その3 を拝読して、益田藤兼との関わりに強く関心を抱きました。<br /><br />一つ質問宜しいでしょうか。<br />><br />>弘治3年3月益田藤兼は毛利元就に服属する。 その軍門に下った場所は三隅本城であった。<br />正式に藤兼が毛利氏へ降伏を申し込んだのは、同年4月3日、大内義長が功山寺で辞任した為、益田氏としては大内氏に対する義理、・忠義の必要がなくなり、その2日後の4月5日、益田藤兼は吉川元春に対して、正式に降伏の締結が行われた。<br />><br />><br />3月の益田藤兼と吉川元春の対峙は閥閲録に記載がある(但し、毛利元就は怒ったように書いてある)と聞いたことが有りますが、その時の対峙場所が三隅本城であった事と、4月5日の正式な降伏の締結について証する(関連する)古文書はあるのでしょうか?<br /><br />ご承知の範囲でも結構ですが、トミーさんのご教授をお待ち申し上げます。<br />宜しくお願い申し上げます。<br />Linさんhttps://www.blogger.com/profile/00722649323594453113noreply@blogger.com