tag:blogger.com,1999:blog-1591244106002034989.post1317384139435054488..comments2023-10-04T18:51:19.197+09:00Comments on 西国の山城: 西長尾城(香川県丸亀市綾歌町岡田上・仲多度郡まんのう町長尾)トミーhttp://www.blogger.com/profile/10333402351347889656noreply@blogger.comBlogger3125tag:blogger.com,1999:blog-1591244106002034989.post-15709130876840223482017-06-10T22:15:29.575+09:002017-06-10T22:15:29.575+09:00長尾城の守りは学館院大番組が長尾西近陣と称して以下のように配置されていた。榎井が石川兵庫介、櫛梨が臼...長尾城の守りは学館院大番組が長尾西近陣と称して以下のように配置されていた。榎井が石川兵庫介、櫛梨が臼杵遠江、<br />大麻が大川出羽、松尾が三井大炊、石井弾正、岸上が神余(かなまる)衛門、生間が奈良兵部、新目弾正、本目左衛門<br />山脇左馬介。地名-家臣名 桓武平氏大川家系図より<br />また、最後の城主長尾大隅守高勝については天正七年二月廿五日申ノ刻(1579年3月22日午後4時頃)旧暦を新暦に換算<br />落城、家臣67人を召し連れて炭所奥に引きこもる。同年八月一日に病死す。戒名は得證院殿教誉信隆大居士。<br />戒名の教誉は学館院別当を表す。長尾家は盛時には城付十万七千石、学館院領六万石都合十六万七千石あったと記録されている。これは讃岐だけではなく伊予学館院領、瀬戸内の島も含まれるため海運交易の利益も換算されたものではないかと思われる。現在の長尾家を継承している家には「長尾三家由緒」「長尾家系図」高勝の遺言書である「口述」家臣67人の血判書が残されている。資料は他にも数多あるがこれまで。遅れましたが返信ありがとうございました。<br />都の騒乱は、ご指摘の通り物部守屋の事件です。資料では連座の疑いをかけられたようですが高村親王の年齢を推古天皇の生年より割り出すと、十代であり身の安全のため匿われた<br />というのが真実だと思います。nobuhttps://www.blogger.com/profile/01830751549452637727noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1591244106002034989.post-78180854597038172442017-06-09T09:11:27.914+09:002017-06-09T09:11:27.914+09:00拝復 貴重な情報ありがとうございます。浪打八幡宮は以前近くを通ったことがあります。都の騒乱とは、蘇我...拝復 貴重な情報ありがとうございます。浪打八幡宮は以前近くを通ったことがあります。都の騒乱とは、蘇我馬子が、穴穂部皇子・宅部皇子を殺害したり、物部守屋を滅ぼした事件ですね。また浪打八幡宮の創建期は奈良法隆寺と同じで、聖徳太子摂政期に当たり、大和時代の讃岐国の動きもこれらと連動していたのかもしれませんね。<br /> トミー 拝トミーhttps://www.blogger.com/profile/10333402351347889656noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-1591244106002034989.post-78994687853819067672017-06-07T21:45:03.038+09:002017-06-07T21:45:03.038+09:00長尾大隅守の先祖は詫間浪打八幡宮創祀者の高村親王(武村親王)である。高村親王は敏達天皇と推古天皇との...長尾大隅守の先祖は詫間浪打八幡宮創祀者の高村親王(武村親王)である。高村親王は敏達天皇と推古天皇との間に生まれた親王である。都の騒乱により587年に荘内半島に逃れ後南海の大乱の鎮圧に功績があり母推古天皇よりその地を与える綸旨を賜った。南海道橘家<br />の長者であり橘家学館院別当でもあった。浪打八幡宮は604年に創建された。菩提寺は綾歌町の福成寺である。長尾大隅守元高九男の高乗の子孫が代々寺を継承している。参考までnobuhttps://www.blogger.com/profile/01830751549452637727noreply@blogger.com