2011年9月5日月曜日

八尾城(広島県神石高原町福永)

八尾城(やおじょう)

●所在地 広島県神石高原町福永
●築城期 室町期
●築城者 新市宮氏
●高さ 不明
●遺構 郭・堀切・土塁等
●登城日 2008年5月28日

◆解説(参考文献「サイト『広島県のお城』」等)
八尾城は神石高原町の北部、旧神石町にあった山城である。
【写真左】八尾城近影
 写真手前の運動場は、北側にある神石小学校の校庭。
 おそらく、当時はこの小学校全体も八尾城域となっていたと思われる。

現地の説明板より

八尾城跡公園案内図
 この山城は約600年前(室町時代)備後最大の豪族、芦品郡新市町の宮氏によりつくられたもので、一山をすべて城郭としており、中世における典型的山城としての型がよく保存されている。


 天文21年(1552)及び翌年と、出雲尼子氏の攻撃を受けるも、毛利氏の応援により撃退している。その後、毛利氏に属し廃城となり今日に至った。


 周囲の眺望もよく城跡公園として整備し町民の憩いの場とした。この地に立ち幾星霜に亘る長き歴史と生活の変遷を思い起こしたい。


昭和60年4月
 神石町”
【写真左】八尾城要図
 上方が北を示す。
 中央上部に本丸を置き、東に2・3郭とし、北東部に堀切を隔て11郭及び12郭が続く。
 本丸の北側から西側にかけて帯郭の4郭が巻き込み、南端部には広い5郭が配されている。


 そこから切崖状の高低差をもたせ西に6郭が南北に延び、堀切を介して南側に長い13郭が控えている。
 小規模ながらバランスの取れた縄張構成となっている。

新市宮氏

築城者とされる新市宮氏については、これまで福山市熊野町の「一乗山城」(2011年7月12日投稿)、や同市新市町の「相方城」(2010年6月8日)などで少し紹介しているが、同氏が最初に拠った居城は、芦品郡新市町の「亀寿山城」(未登城)である。

築城年代は鎌倉期とされ、備後一宮吉備津神社と深いかかわりを持ち、その後、小奴可宮氏(「亀山城」)や久代宮氏(「大富山城」「五品嶽城」など)など分流を輩出していった。
【写真左】八尾城跡公園入口
 登城したこの日はあいにくの雨で、写真も全体にピンボケ気味になってしまった。
 入口は西側の斜面から向かうようになっているが、この場所を発見するまで結構時間がかかった。

さて、今稿の八尾城については、築城者が件の新市宮氏であることは明らかにされているが、その後戦国期に至るまでの記録がはっきりしない。ただ、八尾城が所在する神石町福永は、北方の五品嶽城(東城町)や、大富山城(西城町)とさほど離れていないため、久代宮氏との接点も相当あったと考えられる。

ところで、説明板にある「天文21年、及び翌年の尼子氏の攻撃…」とあるのは、先月の「黒岩城」の稿でも紹介した「和泉合戦」の時期と思われる。
【写真左】北側から見たもの
 下の施設は小学校のプール。
 プールの上から城域となっており、木立があるため見えないが、このエリアは上掲した「13郭」や、11・12郭がある付近になる。
【写真左】登城道
 現在は公園化されているため、こうした階段が設置されている。

【写真左】郭
 記憶がはっきりしないが、恐らく4郭から5郭にかけての位置だったと思われる。
【写真左】本丸
 記憶に間違いがなければ、この写真が本丸と思われる。


【写真左】6郭付近か
 右側が堀切となっていると思われるので、恐らく6郭付近と思われる。
【写真左】切崖
 同じく6郭付近と思われるが、なかなか見ごたえのある切崖である。
【写真左】堀切
 現地には遺構名を表示したものが少ないが、この箇所だけは「堀切」という標識が立っていた。
 この場所もおそらく6郭付近と思われる。
【写真左】本丸方面を見上げる
 この辺りの切崖も見ごたえがある。
【写真左】城域北端部・その1
 結局踏査コースとしては、反時計回りとなり、最終的に北側の小学校を見下ろす位置に出た。


 前段でも記したように、11・12・13郭からさらに北に延びたこの辺りにも、城砦遺構が恐らくあったものと思われる。
 場合によっては屋敷跡などがあったかもしれない。
【写真左】城域北端部・その2
 北麓にある神石小学校のグランドと校舎。
 この写真に見える校舎に向かう坂道は、かなりの急坂となっている。このため、八尾城の東側は当初から険峻な切崖を利用したものだったのだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿