2011年1月7日金曜日

匹見村地頭・籾田氏(島根県益田市匹見町内石)

匹見村地頭・籾田氏(ひきみむらじとう・もみたし)

●所在地 島根県益田市匹見町内石
●探訪日 2010年4月2日

◆解説
 今稿は源平合戦で敗れ、当地匹見町の山奥に逃れた籾田(もみた)氏という一族を紹介したい。

【写真左】道路脇に設置された説明板
 説明板の後には、祠のようなものがあったが、おそらく籾田氏などと関係のあるものなのだろう。

 前稿「小松尾城」探訪の折、たまたま匹見支所付近を通ったところ、道路(42号線)脇に説明板を見つけた。興味深い内容であるので下段に転載しておく。

匹見村 内石地頭 籾田氏

 小原の開拓者籾田氏は、藤原氏の末裔という。源平合戦の時屋島の戦いでは、平家に属して敗退し、匹見に逃れ、ハビの僻地に土着して難を逃れた。

 そしてハビ屋敷の祖となったが、数代の後多忠次という人が、小原を開拓して移り住んだ。これが、現在の原屋敷の祖といわれ、子孫は分家して塚と木屋の両家を起こした。

 また匹見東村の半田に、転住したものを半田屋敷という。また籾田氏のある同族は、内石に石屋敷、籾山氏を起こしており、匹見西村に転住したものは、姓を変えて岡本氏と称し、それぞれ繁栄した。
 また、小原の原屋敷十代治良右衛門は、長男亀蔵に家を譲り、次郎作次郎(当時12歳)を連れて、奥小山に分家し、平溜り(又平田丸)の初代となった。

 内石に住んだ石屋敷籾山氏は、内石上に居を占め、地頭として居宅(現今俵家が住む)を営み、向ノ原付近に、城を築いて城山と称した。
 この城址は今草刈山となっているが、城山の高さは100m、長さ100mに達し、麓を石谷川が流れている。頂上に本丸があり、馬場があった西側の大下原付近に大手があった。城の東麓には、水穴があって、城中の飲料に供した。

 籾田家に伝わる家宝としては、農具があったと言い伝えられている。又平黙りの下手向う側には、大元・愛宕の両社を合祀しており、その伝記には、

 籾田血伝の者、広瀬岡本血伝の者、内石籾山血伝の者、宜しく神意に酬ゆべし。

と記されている。岡本籾山氏は、籾田氏の分流といわれ、内石の牛首岡本氏は、匹見西村岡本氏の、古い分流と言い伝えられている。”

さらに、同板の下段には
籾田氏系図 紋抱茗荷
  • 籾田市蔵
  • 源左衛門
  • 佐左衛門
  • 与治右衛門
  • 六二郎
  • 孫左衛門
  • 安右衛門
  • 孫兵衛
  • 三蔵
  • 治良右衛門(平溜り)一代
  • 亀蔵
  • 作次郎
  • 滝三
  • 力治
  • 義次
  • 正行
  • 章(第17代)
とある。
【写真左】説明板

 説明板の最初に出てくる「小原」は、前稿「小松尾城」の西麓を流れる七村川の支流・小原川を上ったところである。

 東村の半田は、当該説明板の設置してある個所より少し下がった匹見峡に向かう位置(八祖神社付近)にある。

 内石は、小松尾城のある位置から西方へ直線距離で約4キロのところにあるが、谷を2,3カ所越えていく場所なので、一旦匹見本流へ下がり、国道488号線を下って、谷口下の所から入るようだ。
 なお、内石に住んだ籾山氏が城を築いたと記されているが、島根県遺跡データベースでは登録されていない。

 この近くにある城砦としては、内石からさらにさかのぼった内谷地区に、南北朝期、猪俣治郎九郎が築いたとされる「花ノ木城」(H380m)がある。当城は、戦国初期には大谷一族の一人・大谷内蔵が拠った。
 このあたりになると、吉見氏領にかなり近いため、重要な城砦だったと思われる。

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