2009年2月26日木曜日

葛西氏・城平山城(島根県斐川町上阿宮)その1

城平山城(じょうへいざんじょう)別名 葛西城(かさいじょう)

【写真左】城平山城遠望
 南東部・雲南市加茂町の「高麻城」麓から見たもの

【写真左】城平山城
 同じく南東山麓斐伊川支流の赤川南堤防からみた写真の左側高い方が本丸跡で、北の方は二の丸跡。中腹に白いものが見えるのは、「光明寺」。

【写真左】城平山城登山口に安置されている五輪塔

【写真左】光明寺本堂

【写真左】光明寺境内



 葛西氏は18代続いたとあるが、この墓の数は12,3基しか見えなかった。

 ちなみに、この写真の右上を登っていくが、道らしい状態でなく、しかも地盤の緩い地層で、傾斜はきつく相当苦労する。当時はこの道ではなく、東側にあったらしいが、現在はジャングル状態で侵入はできない。
【写真左】北側の郭から、北部にある米原氏居城・高瀬城を見る

【写真左】郭付近


【写真左】北側郭と南郭の合流地点
 このあたりが当時、馬場跡といわれていた付近で、長さは約150m前後ある。
【写真左】切崖


◆この山城と葛西氏については不明な点が多く、史料としては昭和62年に発行された地元郷土史家・池田敏雄氏の著書「出雲の現郷『斐川の地名散歩』」に少し紹介してあるので以下に記す。
城平山(じょうひらやま)は葛西氏(かっさいし)の山城 より

 上阿宮の阿(あ)吾(ぐ)神社の上方に目を向けると、ひときわ高い台形の山が見えます。これが316メートルある「城平(じょうひらやま)」です。

 この山はその昔、葛西氏が山城(古い時代の城で天守閣がない)を築いたところであり、山の上が平らであることから、城平山とよばれるようになったといわれています。

 山上には長さ160メートル、幅約7mにおよぶ広場があり、そこには馬場という馬術の訓練をした跡が残っていて、つわものどのも夢のあとをしのばせてくれます。
 もと兵馬が登る道は東方の別所谷にあったそうですが、今は訪れる人もなく、草木によって閉ざされたままになっています。

 ふもとからこの山を見上げるとキリッとした姿で、その昔、敵を防ぎ、味方を守るのに最も相応しい山城であったにちがいありません。
 では、この城がいつごろ、誰によって築かれたか、ということですが、確かな記録が残されていませんので分りかねます。しかし、次に述べることがらによって、推定することができそうです。

 現在、この城の城主の末流といわれている葛西家(屋号:榎(えのき))があります。その家の系図や言い伝えによると、城を築いた人は、カッサイタケツネ(葛西武常)だといわれています。
 武常は、下総(千葉県)の国の葛西庄を治めていた人で、桓武天皇(782~823年)の子孫で平氏を名乗っていたそうですが、この阿宮の地に来て、それまでに治めていたところの地名をとって葛西氏を名乗ったそうです。

 この山の東方のすぐ下にあたる地には光明寺(加茂町大竹)があります。その寺の記録には、康安元年(1361年)、足利氏の家臣である葛西ヒゼンノカミタモン(肥前守多門)が、祈願所としてこの寺の造営にあたったことが記されています。また、このお寺には、武常から正富(まさとみ)までの18代にわたる墓が残っています。

 下阿宮の延命寺には、興安年間、肥前守の祈願所であったことの記録や、応安年間(1368~1374年)に肥前守が法螺貝(ほらがい)を寄贈したことが伝えられ、現存しています。

 以上のようなことから、城平山は南北朝時代(1331~1392年)のころには武常によって山城が築かれていた、それからあとは葛西氏代々の居城となっていた、ということになります。


葛西城余話
 昔からの言い伝えによると、葛西城はあまり険しいために、水の出るところがなくて大変困った、ということです。いつのころまでか、山上から少し降りたところに大きな井戸のあとがいくつかあった、ということですが、今はそのあとかたもありません。

 戦のないときは、すぐ下にある光明寺が食事のための煮炊きをする場所として使われていた、と伝えられていますが、代々の城主の舘はどこにあったか、多数の家来の住み家のありかは、など記録も言い伝えもありませんのでそれを知るすべがありません。

 そしてまた、残念なことには18代も続いたと思われる葛西城の代々の城主が、武将としてどのような活躍をしたかも記録されたものがなくてわからないことです。
 そこで、その末流といわれている葛西家をおたずねすることにしました。

 当家に伝わる先祖からの系統を書き記した系図を見ますと、南北朝時代は、足利氏や北畠氏に属しています。永享年間(1429~1440年)から戦国時代の末頃(1570年頃)の間は、阿宮の葛西城(城平山)主として居たことは記してありますが、その活躍と代々の城主名が記されてありません。
 おそらく戦国混乱の中であったことと、落城のために記録されなかったと思われます。

 落城後の葛西氏(兼正)は、かつて属していた伊勢国の北畠家を頼って家臣となりますが、五代後の兼延の時(江戸時代の初め頃)一族とともに幾代かの祖先が居た葛西城のふもとに帰ってきて、武士を捨てて百姓となり、代々の祖先の墓をつくった、と系図にあります。
 今、光明寺にある多くの五輪の墓はそれに当たると思われます。

 なお、当家には、系図の他に戦国時代に毛利輝元(元就の孫)から、よく戦ったと褒められた書状が残っています。お話しを伺うところによると、先々代ごろまでは、「かぶと、よろい」「刀、やり」「馬具」など、戦国時代のものが多く残っていたそうですが、故あって手放されてしまい、今はないそうです。"

◎築城主・葛西氏のこと
 以上が池田氏が調べた内容だが、これによると築城期が、南北朝時代(1331~1392)には築かれていた、ということになる。さらに上って、葛西武常が築いたとある。

 ただ葛西武常は、もともと下総葛飾郡葛西庄(今の千葉県と東京都の境付近)で、この当時は豊島氏を名乗っており、しかも武常の孫康家からその子・清光と移り、その子・清重が初めて葛西姓(葛西三郎)を名乗り、葛西氏の初代となっている。

 この清重は、源頼朝が石橋山合戦に敗れ、安房へ逃れた際、はじめて頼朝の家臣として活躍する。その後、清重は奥州国在住の御家人(奥州総奉行)や、検非違使などに任命されるなどおもに東国での活躍が記録されている。
 総じて、葛西氏は関東葛西氏と奥州葛西氏の二派に分かれていくことになる。こうしたことから、豊島氏を名乗っていた葛西武常が、なんの縁もない出雲の国へやってきたという説は、かなりの無理がある

◆前段で示した南北朝時代、何らかの理由で葛西氏の一族がこの出雲の地に来たということのほうが真実だろう。そこで考えられるのは、清重の子供達の動きである。

 清重にはかなりの子供が居たらしく、嫡男・清親は、関東地区を領有し、二男・朝清は奥州を引き継ぐ。このうち関東所領の清親は、そのあと清時・清経と続くが、鎌倉幕府も中期頃には執権・北条氏の力が強くなり、頼朝時代の御家人と北条氏側の家臣団との軋轢がだんだんと強くなっていく。

 そうした流れの中で、北条氏側と相いれなくなった家臣・一族が鎌倉を離れていった。その一族の中にこの関東葛西氏がいたらしく、出雲との接点はともかく、移住先にこの出雲の地を選んだのではないか、という説である。

◆もう一つの説として考えられるのは、少し時代が下って、後醍醐天皇が建武の新政をおこなったとき,奥州多賀国府に義良親王を奉じて北畠顕家が入ってくる。

 このとき奥州葛西氏はいち早く、国府に行き所領の安堵を得る。その後、「中先代の乱」の際、北畠顕家は奥州勢(葛西氏も従軍)を率いて西征の途につく。このときよく知られるように、足利尊氏は乱を鎮圧したのちも鎌倉から動かず、のちに後醍醐天皇に反旗をひるがえす。

 これにより顕家にも尊氏追討の命が下り、葛西清貞も高清もこれに加わっている。この段階で、葛西氏は京まで攻めのぼる。尊氏は九州へいったん逃れる。ただ、このころから葛西氏(高清)は南朝から北朝(尊氏派)に気持ちが移っていたようで、最終的には室町幕府が開かれるころには、足利氏についていたようである。

◆葛西氏の戦歴が華々しいものでなかったことと、戦国時代が終わってから、城平山城主・葛西兼正がいったん「かつて属していた伊勢国・北畠家を頼って家臣となるが、5代後の兼延の時、再び一族ともに出雲・城平山城の麓(阿宮地区)に戻ってきた」という記録があるため、もともとこの城平山城主・葛西氏も尊氏を九州へ追いやった際、出雲での見張り役を兼ねた一族だったかもしれない。

どちらにしても、なぞの多い出雲葛西氏の出自である。

◎関連投稿
霧山城・その3 伊勢北畠氏と出雲葛西氏(三重県津市美杉町下多気字上村)

0 件のコメント:

コメントを投稿